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Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「シングストリート 未来へのうた」

2016年07月24日 10時14分29秒 | 映画(2016)
いまだ80年代は夢の中に。


最近、スマホ1,980円ショックというCMで80年代がクローズアップされている。わが国はバブル経済へ突き進んでいた一方で、米英ではレーガンやサッチャーが強硬に国家の立て直しを図っていた。

主人公コナーの家庭があるのは英国の向かいアイルランド。深刻な経済不振に喘ぐ中で、コナーの一家は父の失業等により崩壊の危機を迎えていた。授業料の安い高校へ無理やり転校させられる場面から物語は始まる。

荒れた学校、理不尽ないじめと、前途多難さが描かれた後に話は急展開する。

突然目の前に現れた美少女ラフィーナ。コナーは彼女に近付くと、「僕のバンドのMVに出てくれないか?」と言って電話番号をゲット。そこから一気にメンバーを集めて歌い始める。

あまりの展開の速さに一瞬たじろぐが、合間に挟まれる音楽を聴くに従って次第に観る側のペースと協調するようになる。それぞれの人物の登場はいきなりかつご都合だが、物語として重要な感情の揺らぎがしっかり描かれているから惹きつけられていく。

おとなしそうなコナーが自ら殻を破り、いわゆる大人への階段を上る王道の成長物語。年齢的にこういった話には気恥ずかしさを感じてしまいがちになるが、音楽の力なのだろうか、意外なほど素直に感動、共感する。

かつては誰もが夢を持っていた。ほとんどの人が大人になって現実と折り合いをつけていかざるを得なくなるが、現代はそれ以上に若い人が夢を持てなくなっている。情報社会の中で経験もしないのに知識ばかり得過ぎてしまい、可能性を頭の中で狭めてしまっているのかもしれない。

情報がなければ人は想像力を働かせるしかない。コナーを刺激したのは、ラフィーナの存在と、音楽好きの兄ブレンダンの言葉と、当時巷に流れていた音楽だった。

時代が微妙に前後している感はあったが、DURAN DURAN、SPANDAE BALLETなどにたちまち影響されてファッションを替えてそれらしい曲を作るところが、どことなく可笑しくて愛おしい。

バンドメンバーの天才エイモンが作る楽曲はいずれもツボを押さえた佳曲ばかり。言い方を替えればパクリの一歩手前なのかもしれないが、初めて聴くのに気持ちがノッていける曲は素直にすごいと言うほかない。

一方で、シロウトの高校生がやっている描写も微笑ましかった。時はMVの創成期。いま見返すと、プロのビデオでさえ若干恥ずかしい作りになっているところを、更にぎこちない手作り感が盛り付けられる。

本作でお気に入りの場面は数多くあったが、初ギグ前に行ったビデオ撮影は特に切なくて印象に残った。約束の時間になっても現れないラフィーナを前に、コナーの妄想で華やかな50年代風のプロムパーティーでの演奏が流れる。最高潮まで盛り上がって演奏が終わると、そこにはダンスを踊れない数人の生徒がいるだけ。

音楽を媒介に楽しさと切なさの配分がすばらしいからこそ、感動、共感できたのだろうと思う。2人で旅立って行く姿は、小さいころに観たかつての名作「小さな恋のメロディ」や「卒業」にも通じる。先は分からないけど、夢だけは確実にそこにある。

(95点)
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「死霊館 エンフィールド事件」

2016年07月18日 12時06分35秒 | 映画(2016)
取り憑かれてなお美少女。


1970年代はオカルトブーム真っ只中。「エクソシスト」に代表される悪魔との闘いが映画界を席巻した。

悪魔ではない人間同士の諍いが社会全体を閉塞感に満ちた恐怖へ陥れている21世紀の現代、オカルトブームも古き良き風情と懐古する対象になっているのかもしれない。

舞台は英国へ移るが、話の基軸は前作と同様に家族の絆が悪霊に立ち向かう点にある。で、またしても子供たちがとにかくかわいい。

この辺りは映画の脚色と言うこともできる。「エクソシスト」のL.ブレアなんてとんでもない顔にさせられたものだが、本作のジャネットが憑依されてから見せる表情はむしろ凛々しい。

怪奇現象が起きる光景とかわいい少女の日常を目で見た立場であれば、この家族の言い分に疑問を挟む余地はないのだが、間接的な情報しか与えられなかったとすれば女性の評論家のように少女の狂言と決めつけてしまうことがあっても仕方がない。ジャネットの空中浮遊の写真など、ほとんどオウムの麻原レベルである。

ウォーレン夫妻の立場も同様だ。テレビや講演などで超常現象について語る彼らに対する世間の目は必ずしも好意的なわけではなかった。本作の立ち位置から見れば明らかに不当な評価なのであるが。

映画だから、極めてドラマ的な作りにもなっている。妻ロレインの予知夢と主人公たちに襲いかかるぎりぎりの恐怖。盛り上がるが、そこまででき過ぎる現実があるか?と懐疑的になる自分に霊感が下りてこないことだけは分かる。

ただそこはあくまで"based on"であり、そこを割り切って観る限りでは、小道具、照明、音声、カメラアングルといった恐怖映画の演出のツボを着実に押さえていて、安心して怖がる(妙な日本語だが)ことができる作品であった。

特に、肝心な部分を時々映さない演出は興味深かった。

例を挙げれば、ウォーレン夫妻の前でジャネットの霊を呼ぼうとする場面で、霊は「見られていては出て行けない」と言う。

夫・エドはジャネットに背中を向けると、カメラの焦点はエドに、後ろで椅子に座るジャネットは輪郭が分からないくらいにぼかされてかろうじて動いている様子だけが確認できる。

現象に懐疑的な見方をする者にとっては茶番以外の何物でもないと受け取れる。ウォーレン夫妻ですら100%信用するというわけにはいかない中で、ぼけた背景の霊がしゃべり続ける。

主人公たちに寄り添う映画的な演出が基本にある一方で、こうした解釈が定まらない点を相応の場面として描き切る姿勢と力量に感心した。

大事なのは、霊や悪魔がいるかいないかではない。真実であれ偽りであれ、危機的な状況に置かれている家族を救う手立てを見つけることこそが求められているのであり、この点に関してウォーレン夫妻にまったくブレはないのである。

このことは現実の恐怖にもきっと当てはまるはずだ。人間が生きて生かされている目的は大事な人を守ることにある。

(75点)
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「エクスマキナ」

2016年07月03日 13時39分46秒 | 映画(2016)
決して失敗しないのがAI。


「私、失敗しないので」が得意文句だった女医が今度のスペシャルでは「失敗したので」と語るらしい。一度も見たことないドラマだが。

人工知能を巡る開発はおそらく日進月歩どころではない急激な速度で進んでいると想像する。今はチェスで人間と勝負することが話題となる程度だが、早晩人間は置いていかれるのだろう。

人工知能とは少し違うかもしれないが、自動運転の自動車が初めて死傷事故を起こしたというニュースがあった。なんでも光の反射で前方の白い車を認識できなかったとか。

自動車の機能としては極めて問題なのだが、そういった失敗がすべて消え去ったとき、それは人間にとって何を意味するものなのか。

世界最大のIT企業ブルーブック社の社長であるネイサンは、類稀なる頭脳と巨万の富をすべて人工知能の開発に注ぎ込む生活を送っていた。ある日、人里離れた土地に造られた研究所へブルーブック社の才能溢れる若き社員・ケイレブが招かれる。

単なる社員の慰労程度に考えていたケイレブに驚くべき任務が与えられる。彼は、ネイサンに見込まれて人工知能の性能を検査する試験官として呼ばれたのだ。

試験官が検体を人工の域を超える、つまり人間であると判断することで試験は合格となる。

ネイサンの最新作「エヴァ」は性能だけではない、完全な美に彩られた傑作であった。

外見は配線が露出し、明らかなAIであるエヴァ。そして、見込まれただけあって極めて優秀な技術者であるケイレブ。しかし、というかだからこそ、ケイレブはエヴァに惹かれていく。

隔絶された空間で、あらゆる人間の会話や行動のデータを入力された完全体と密度の濃い会話を繰り返すことで、ケイレブの精神状態は崩壊ともいえる変化を見せるようになる。

おそらくここまではネイサンの計算通りであったに違いない。しかし、ネイサンの小さな日常のほころびから事態は転がりはじめる。

「愛する」「愛さない」ではない第3の選択肢、「愛しているフリをする」の可能性を語ったのはネイサン自身であった。分かっていながら、エヴァの使徒となったケイレブの行動を抑えられなかった失敗。

他方、エヴァの本当の意図を読み切れずに、まんまと利用されて最後は研究施設に取り残されるケイレブ。

ネイサンもケイレブも失敗する。しかしAIにはない。能力の範囲でできることは確実に実現してみせる。

野に放たれたAIはバッドエンドのようにも見えるが、人間を超えてしまったら、わざわざ相手にする必要もなくなるかもしれない。そうなったら、人類はおとなしく生きていきましょう。

本作は何より物語が興味深いが、映像と音響にも洗練された美しさがあった。

とにかく研究施設とAIの造形の美しさが素晴らしい。ただ気になったのは、過去の作品があまり美しくないところ。趣味で作るのなら傾向が似てくる気がするのだが、天才の思考は常人には及ばないってことなのだろうか。

音響については、劇中で何度か話の転換点が訪れたときに、あからさまに恐怖心をそそるような音を流すときと、ほとんど無音の状態で話を進行させるときがあった。

前者は人間の目線、後者はAIから見た描写なのかなとなんとなく思った。感情の起伏なく他者を操り、人を刺すことも厭わないAIの静かな恐怖を巧みに表現していた。

映画が完全に近い美を追求するのは結構だが、科学分野はお手柔らかに、せめて自分が神になるというような驕りは持たないようにしてほしいところである。

(90点)
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「10 クローバーフィールドレーン」

2016年06月26日 04時07分36秒 | 映画(2016)
身近な恐怖>地球の危機。


数年前に公開された「HAKAISHA」とは何の関係もない話。J.J.エイブラムスは「クローバーフィールド」という響きが好きなのだろうか。

「HAKAISHA」と通じるのは、壮大なSF的な背景を匂わせながら、敢えて手造りムービーで押し通しているところ。今回は全体の8~9割が地下シェルター内で繰り広げられる人間同士の対決である。

だから、期待するところを誤った人にとっては、おそらくとてつもなく退屈な時間が続くことになる。この辺りは宣伝会社泣かせでもあるだろう。J.J.エイブラムス、金持ちの意地悪ないたずらである。

密室劇は確かに長いが、制約が数多くある中ではそれなりに巧く演出されている。

シェルターの主であるハワードが言っている地球外からの攻撃は事実なのか。主人公とともに疑心暗鬼の手探りが続く序盤。

秘密の一端が明かされて訪れるひとときの平穏から、再び主人公を恐怖に陥れる仕掛け。

上では「いたずら」と決めつけているが、予算に頼り切らずストーリーテリングを重視しようとするエイブラムスの姿勢は評価されるべきである。

シェルター脱出後は一気にテイストが変わって大味なSFモノと化すが、この変わり様も含めての作品である。評価はともかく、今後もこうした挑戦をするのなら見続けていきたいとは思う。

(60点)
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「殿、利息でござる!」

2016年06月26日 03時14分54秒 | 映画(2016)
いつの世にも通じる滅私奉公の尊さ。


KHB東日本放送の開局40周年記念作品だそうである。開局と同時に、前日までミヤギテレビで放映していた番組がKHBへ移って驚いた思い出がある。歳だね。

物語の舞台は小さな宿場町、吉岡。これも懐かしい地名だ。泉に住んでいた子供時代、「吉岡」行きの宮城交通はえらく遠くまで行くバスという意識があった。

江戸時代に暮らす庶民の生活を事細かに調べて書き上げた磯田道史氏の原作が何よりおもしろい。

本作を観るまで、「大肝煎」「肝煎」という役職や「伝馬役」という制度を知らなかった。ここでは悪い意味になるが、参勤交代と同様に領土を体よく治める仕組みをよく考えたものである。侮り難し、江戸時代の日本人。

そんな権力による、いわば圧政に対して頭脳と人情で対抗した農民の話というのだから、これは痛快だ。言い伝えるうちにどこかしら脚色が加わっている可能性もなくはないが、おそらくほぼ事実なのだろう。

立場や性格が少しずつ異なりながらも、地元のためになけなしの財産をかき集めて持ち寄る人たち。時にはおかしく、時には感動的なエピソードが全篇に散りばめられている。

キャストも良い。気が小さく心の底に劣等感を抱く造り酒屋・穀田屋の阿部サダヲと、常人にはない発想と明るい性格で一目置かれる茶師・菅原屋の瑛太が中心となるが、周りを囲む俳優陣も実力者揃いである。

特に、はじめは冷徹な金貸しとして描かれる穀田屋の弟・浅野屋を演じる妻夫木聡の静かな佇まいは、この物語の大きな鍵となり、感動を倍加させている。

他方、吉岡宿の必死の申し立ての交渉相手であり、いわゆるラスボス的な存在となる仙台藩の出入司・萱場役の松田龍平も見応えがある。単に嫌がらせをする悪役ではなく、彼なりに藩と民衆の立場を鑑みて、厳しいが非常に真っ当な裁定を下しているところが、なんとも財務役人的でおもしろい。

役人といえば、直上の上司である肝煎からラスボスまで一人ずつ理解を取り付けていく経緯も、現代の会社組織と何ら変わりなく興味深い。最後の伊達のお殿様はボーナスステージといったところか。羽生結弦くんは意外と達者であった。

物語、演者、背景が揃いも揃って抜群なのだから、評判が良いのも当然といったところか。こうしたDNAを受け継いでいるはずの我々なのだから、過疎化や高齢化に苦悩する地方においても、なんとか光明を見出してほしいものである。

(90点)
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「帰ってきたヒトラー」

2016年06月19日 23時40分42秒 | 映画(2016)
史上最強のアイコン。


ドイツって、世界三大映画祭の一つであるベルリン国際があるにも拘らず、あまり映画の印象がない。ドイツ映画と聞いて思い出すのは「Uボート」くらいだろうか。フランスやイタリアとは違う。

そんなドイツが風変わりな作品を送り込んできた。21世紀の現代にあのアドルフ・ヒトラーがタイムスリップしてくるというのだ。

ヒトラーが出てくるという時点で、コメディ要素を含むとはいえ、社会派映画には間違いない。となると見どころは自ずからその切り口ということになってくる。

なにしろ、この多様化が進んだ世界の中でも、限りなく全員に近い人々がその存在を悪と言わざるを得ない稀有な人物である。その印象を壊し過ぎないことと、魅力的な物語を作り上げることをどう両立させるのか。

突然現代に迷い込んだアドルフが事情を飲み込むまでの顛末は結構粗い。設定に無理があるからと言ってしまえばそれまでだが、訳が分からず街をあたふたと彷徨う場面のリズムが良くない。現代世界の案内人となるテレビマンのザヴァツキとの出会い方も強引だ。

ただ、設定が落ち着いてからの展開は、訴えたいことの芯がしっかりしているから、次第に冴えを見せ始める。おそらくドイツの内政に詳しいほど、この話の面白さと怖さを感じることができるのだろうが、根底にあるものは国によらずそれほど違いはないようにも思える。

人々が不安と不満を抱えるとき、私が力になりましょうと言ってくる者がいれば、つい耳を傾けてしまうかもしれない。

現代へ迷い込んだアドルフは非常に聡明であり、自分が改めて課せられた使命を理解するとともに、その実現に前世紀から大幅に進んだ技術革新が役立つことを直感的に感じ取る。

人心を読むことに長け、道化と受け取られていることを巧みに利用して、支持を広げていく。

買い被り過ぎなのかもしれないし、そう願いたい部分はあるが、その願いを打ち砕く最後の場面の衝撃は見事だ。

ある点を越えたらもう元に戻ることはできない。でもその点は見えないし、誰かが気付いても世間を説得させることが難しいから、世界から悲劇が消えることはないのである。

(75点)
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「教授のおかしな妄想殺人」

2016年06月12日 04時22分07秒 | 映画(2016)
真剣になるほど滑稽さが際立つ巧みな設定。


東京都知事が2人連続してカネの問題で、議会や会見で追及され醜態を晒す。

普段もてはやさている有名人が不倫現場をスクープされて、公衆の面前で平身低頭を余儀なくされる。

こうした姿を見せられるとどうしても力が抜けてきてしまうが、待ってほしい。遥か昔から人間は愚かなものと相場は決まっているのではないか。

こんな悲しくもおかしい人間を描かせたら天下一品のW.アレン作品が今年も映画館にやって来た。

今回の主役はアレン作品初登場のJ.フェニックス。人生に悲観した哲学教師エイブは、まさにアレン作品の主人公たる男。

冒頭に大学へ赴任してくる彼は、表情に生気がなく、腹も弛みっぱなし。しかし彼が醸し出す雰囲気が、人生を達観した退廃的な印象を感じさせるのか、彼の近くには女性が絶えることがない。

「マジックインムーンライト」に続いての出演となったE.ストーン演じる大学生ジルもその一人。彼女は頭が切れてピアノも弾ける。申し分ない交際相手だっているのに、彼に惹かれる気持ちを止めることができない。というよりむしろ自分から彼に近付いていく。

エイブが時々口にする「直感を信じろ」という言葉。

彼が言うと何やらうんちくのあるように聞こえてくるし、実際夜の遊園地では商品もゲット。

しかし世の中アタリがあればハズレもあるのが常である。エイブが直感で生き甲斐と感じた殺人は、ジルの直感では許されないことであった。

直感・選択・行動という語群と、理性・逡巡・停滞という語群が、主人公たちの中で鮮やかに行き来する。

しかし悲しいのは、前半の停滞エイブも、生まれ変わった行動エイブも、行き着く先は破滅だという点である。要は過ぎてはいけないということ。

迷いながら間違えながら、行きつ戻りつを繰り返して進んでいくのが人生なのである。

御大となりながらも、押しなべて自虐的に、ただししっかりと愛情を注いで滑稽な人物を描くアレンの物語がいつも以上に痛快にハマっている。

これは危ないと分かっていながらエイブに接近するジルがちゃらんぽらんなら、反省の言葉を聞いてあっさり元サヤに収める彼氏ロイもお笑いだ。

もちろん最大の愚か者はエイブだ。キルケゴールがどうだと小難しい講釈を垂れている彼が、大まじめで「パーフェクトだと思った」と解説した最後の行動。

小道具を巧みに生かす魔術師と、昔ながらのドタバタコメディアンという、W.アレンの魅力を両方堪能できる最高のクライマックスであった。

ただ1点の不満。「妄想」ではないよね。

(90点)
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「ヒメアノ~ル」

2016年06月12日 03時41分44秒 | 映画(2016)
「~」は日常の間延びか、尾いてくる何かか。


V6の森田剛が殺人鬼を演じることで話題になっている本作。

元々彼に品行方正な印象はないので、まったくと言っていいほど違和感がない。言い換えれば、世間が言うほど彼の演技力を感じられるわけではない。

むしろ本作で際立つのは、彼の演技を含めて日常のすぐ傍に潜む狂気を自然に描いているところだろう。

その象徴が殺伐とした殺人と並行して繰り広げられる浜田岳ムロツヨシ中心のコミカルパートだ。

クレジットこそ森田がトップに来るが、本作の主役はまぎれもなく浜田演じる「岡田くん」である。彼の冴えなくも微笑ましい何気ない生活を時間を割いて映すことで森田演じる「森田くん」の近さと絶望の輪郭が明確になる仕組みだ。

恐怖が日常のすぐ傍にあると同時に、恐怖が生まれたきっかけもまた近くにある。高校の同級生であった「岡田くん」と「森田くん」の偶然の出遭いは、彼らの思い出を巻き戻すと同時に運命を早送りした。

壮絶なクライマックスを経て行き着いた「森田くん」の姿が限りなく痛々しい。

見た目だけではない。どうしてこんな悲劇が生まれてしまうのか。実話ではないにしろ、あり得ると感じさせるに十分な設定だから力がある。

前作「グラスホッパー」でも重要な役で存在感を示した佐津川愛美が今回も好演。三角関係の恋愛ドラマの中で、森田の狂気のスイッチを入れてしまうのは彼女だ。

100%被害者であることは間違いないが、その気がなくても周囲の男性を振り回してしまう女性。これもすぐそこにある恐怖かもしれない。

(75点)
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「デッドプール」

2016年06月04日 22時37分42秒 | 映画(2016)
「クソ無責任」はいかにも苦しい形容詞。


R.レイノルズのデッドプールといえば、「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」でおしゃべりな口を縫合されて悲惨な目に遭っていた印象が強い。

それがどのような形で主役になるのか興味があったが、なるほど悲惨な仕打ちを受けても肉体的にはほとんど堪えない型破りヒーローであった。しっかりと原作があるとはいえ、数年前の作品と違和感のない世界観に収める手腕は相変わらず見事なマーベルである。

で、今回は主役なのでとにかくよくしゃべる。これは実は字幕スーパーを要する洋画には不利であり、どれだけオリジナルの面白さを伝え切れるかが勝負となってくる。

さっそく冒頭に出演者を紹介する字幕からおふざけが入ってくるのだが、ここでは正直本篇に不安を感じざるを得なかった。英語と日本語の空気感の違いなのだろうか、さらっとした遊びをわざわざ翻訳することで途端に野暮ったくなる。これは本当に難しい。

しかしそこは作品の強さが次第に勝ってくる。観ているうちに慣れてくるのもあるかもしれないが、デッドプールのノリに引きずり込まれて自然に笑えるようになった。

やたらと重い運命を背負いがちなアメコミヒーローの中で、彼の底が抜けたような軽さはそれだけで個性である。もちろん彼にも過酷な運命があるのだが、それを越えてなお悪ガキのように振る舞うところが最大の魅力である。

ほかにもコメディベースということで映画の自由度が増して随分と得している。デッドプールがしばしばスクリーンのこちら側へ語り掛けてきたり、X-MENの関係者が2名しか出てこないことを製作費がなかったからと自虐したり。この手があれば弱点をむしろ押し出していけるのだから便利だ。

その調子で、エンドロールもマーベルでありながらマーベルのパロディともとれる演出をしている。次はもっとたくさんのミュータントと絡むことを期待しているが、双方の世界をどう馴染ませていくか非常に楽しみだ。

(80点)
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「レヴェナント 蘇えりし者」

2016年05月14日 22時52分41秒 | 映画(2016)
生きる理由はひとつ。主人公だから。


L.ディカプリオのアカデミー主演男優賞受賞は素晴らしいことである。全篇がサバイバルの本作では、童顔の印象もまったく消え失せた。

でも、この話は何と言えばよいやら。

大括りすれば、復讐の一念で生死の淵を彷徨い続ける人間を壮絶に描いている作品ということになるのだが、とにかく一貫して主人公グラスは何があっても生き延び、グラスの周囲の人間は(動物も含め)さくさくさくっとご退場される。

話の展開としては必然なのだろうけど、甲斐甲斐しく世話してくれた人があっさり吊るされたり撃たれたりすると、素直に物語に入っていけなくなってしまう。

「復讐は神の手に委ねる」という言葉はまさにその通りであって、テロの応酬が続く現代社会に発信すべきテーマではあるのだが、そうなると、不死身のグラスは神に選ばれし者であり、最後の川に流す行為はまさに彼こそが神と捉えられる。

しつこいようだが、グラスの超人的なサバイバルが最大の見どころである一方で、それがあまりにもリアリティを欠き過ぎてイマイチな印象になっているというのが正直なところだ。

極めつけは、崖から落下した後に悪天候が訪れ、一緒に落下して(こちらだけは)死んだ馬の臓物を取り除き、腹の中で寒さをしのぐという衝撃度最大級の場面だ。

ここはひょっとして笑っていいのかもと戸惑った。念のため、後でネット情報を当たったかぎりでは、これは史実ではないらしい。

熊との格闘、先住民との戦闘、それぞれの見せ場は十分に成り立っている。ただ、これは娯楽作品なのか社会問題に焦点を当てた大真面目な作品なのか。アカデミーを賑わせた作品という眼鏡で見ると、ツッコミを入れずにはいられない。

(60点)
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