あるサークルで何かを話し合いで決めようとするとき、サボってばかりいる人間の意見もちゃんと聞かなきゃならないとしたら、それはおかしいと感じる人はいるだろう。みんなでお金を出し合って何かをやろうとする時に、1円も出さないのに自分の言い分を主張する人間がいたら、少しくらい寄付をしてから言えと思う人は多いだろう。
ところが、こういう考えは基本的人権に違反する。納得できない人も、選挙権ということに関して言えば不思議に思わずに受け入れているかもしれない。どれだけたくさん納税しようがひとり一票は変わらない。どんなに世の中に貢献しようが、世の中に迷惑ばかりかけようが、一票の重さは変わらない。もし職場で、サボってばかりいる人間も一生懸命働く人間も給料は同じだと言われれば、ふざけるなと怒りをあらわにするだろう。だから、昔の日本では、たくさん納税する人間にしか選挙権は与えられていなかったのである。
「基本的人権」という考え方は、第二次世界大戦後、連合国から与えられた日本国憲法で定められたが、日本人には未だにピンと来ないのは、その根底にキリスト教の考え方があるからだ。作った側にはごく当たり前のことでも、残念ながら日本人の多くはキリスト教徒ではなかった。
キリスト教の世界では、偉いだの立派だの、金持ちだの仕事ができるだの言うのは、すべて人間の勝手な尺度に過ぎず、この世の唯一絶対の神様の前では、人間なんてのはそもそもちっぽけな存在で、みんな同じようにしか見えないということになっている。そして、これが神の前ではみな平等という考えにつながっている。この考えを押し進めると、人間もクジラもイルカも犬も猫も、創造主である神の前ではみんな同じようにしか見えない存在だということにもなる。
反対に、日本人には親しい考え方も、西洋人には理解不可能なものもある。例えば、映画「リング」の貞子や四谷怪談のお岩さんは、日本人の多くが恐ろしいと感じる。なぜなら、多くの日本人にとって「怨念」や「復讐」といった得体の知れないものが一番怖いからだ。ところが西洋の映画に出てくる怪物は、吸血鬼やジェイソンのように必ずしも「怨念」を抱いている存在ではない。そこにあるのは理不尽な狂気だけである。
「基本的人権」や「平等」という考えが宗教であるのと同様、他人との諍いを極端に避け、恨みや怨念を抱かれないようにするのも宗教である。そしてこういうことは聖書にもお経にも書いていないので、それぞれが勝手に世界標準だと信じている。