ジャズやロックの演奏では、演奏者が自由に奏でるアドリブというパートがあり、楽器を始めた人間は大抵カッコいいアドリブ演奏に憧れるものだ。が、実際に挑戦してみると、必ずと言っていいほど音を外す。音を外さないようにと決められた音階を追いかけると、実にダサい演奏しかできなくなる。そこで初めてプロと呼ばれる人たちが、いかに自由奔放に見えて基本に忠実に繊細な注意を持って演奏しているかを思い知るのである。
悲しい曲を演奏中、仮に1音でも外せば台無しになる。演奏はうまく行きませんでしたが、テーマはこんな風に重く悲しいのですと説明しても、音楽というのは音がすべてだということは誰だってわかる。だから、そんな言い訳は誰もしないのだが、これが絵の世界になってくると少し事情は変わってくるようだ。
というのも、絵を描く関係上、僕も同じような素人の人たちの展覧会に顔を出すことは多いが、なぜこんな色を塗ってしまったのか、別の色を検討しなかったのかと思う絵は多い。だが、描いた本人はそれは失敗だと感じながらも、こういうテーマだと説明してくれる。展覧会会場でも、描かれている絵についてよりも、そこにあるテーマについて解説する人は多い。が、音楽も絵も違いはない。音をひとつ外しただけで曲が台無しになるように、色をひとつ間違えるだけで、絵を台無しにしてしまっているのである。
マティスやピカソの絵を見ても、僕は本当に感動するということはないが、プロの絵描きには絶賛する人は多い。それはプロの演奏家が音を外したことに気づかない聴衆の耳同様、細心の注意と大胆さでそこに塗られた色に、僕の目が気づかないということなのだろう。炎の画家と呼ばれたゴッホでさえ、奔放に見える作品の裏に、どれだけの習作があり色の組み合わせを検討したかは、ゴッホの書簡集を読めば驚くばかりだ。
なぜその1音でなければならないのか、本物の音楽家ならその大切さを熟知している。なぜその色をそこに配置するのか、本物の画家なら徹底的に検討するだろう。お笑い芸人だって、ボケのひとつで舞台が台無しになることを痛感しているだろう。たまたまパレットにこの色が出ていたので使ってみた、というレベルでは、決していい絵にはならない。
なんてことを、音楽を聴きながら肝に銘じてみた近頃のアベさんなのである。