人が笑わない時代になった。街を出歩いても、人の表情はけだるく無機質だ。
いきなり私事であるが、私の結婚式の時のポートレート写真は類を見ない程特異的である。
花嫁単独写真から全体集合写真まで結婚式場でのプロのカメラマンによる数枚のポートレート写真を保存してあるのだが、そのすべてにおいて花嫁である私が歯をむき出して笑っているのだ。
結婚写真というと、花嫁たるものすまし顔かせいぜい少し微笑んでいる程度なのが常識というものである。
なのになぜ、私の花嫁ポートレート写真のすべてが歯をむき出して笑っているかと言うと、それがカメラマンの好みだったからである。
最初は花嫁(すなわち私)一人の写真から撮影し始めた。撮影が始まった時点では私はすまし顔を決め込んでいたのであるが、カメラマン氏と会話しながらの撮影に打ち解けた私がケラケラ笑い始めたのだ。(私、結構笑い上戸です。)
そうしたところ、そのカメラマン氏が私の笑顔がいいとおっしゃって下さり、その笑顔(というよりも大笑い顔)をシャッターチャンスに狙いを定めてしまったのだ。 なぜ私の笑顔がいいかと言うと、私には生まれ持っての“えくぼ”があるのだが、それをカメラマン氏が妙に気に入ってしまった様子なのである。
そうとは言え、一応結婚写真であるからには一生記念に残るものである。撮影されつつ、そんなに大笑いの写真ばかりでも…、と我に返り、やはりすましてみたり少し微笑んでみたりするのだが、そのカメラマン氏は相変わらず「もっと笑って!」の連呼である。新郎新婦写真になっても、全体の集合写真になっても「花嫁さん、笑って!」の連呼は続き、私はすべての写真において歯をむき出すことになったという訳だ。
この私の花嫁写真はどう考えても特異的であろうが、一昔前までは写真を取る時の決まり文句は「はい、チーズ!」であった。カメラの前で皆笑顔を作ったものだ。
ところが今の時代、例えばタレントの宣材写真等においても笑顔の写真は少ない。
一昔前“ぶりっ子アイドル”がもてはやされた時代には、タレントはとにかく不自然な作り笑顔で媚を売っていたものだ。
近年のタレントの宣材写真といえば、男女にかかわりなく決して笑わず、睨みつけたり、ポッカリ口を開いてみたり…。 どうもこれは“作りお色気”作戦の世界のようだ。おそらく時代が笑顔よりも表面的なお色気を好むのであろう。ところが残念ながら、私の目にはこの“作りお色気”はちっとも色気がなく滑稽にしか映らない。両者の共通項は“不自然さ”なのであるが、所詮不自然ならばむしろ“作り笑顔”の方がまだしも可愛げがあるのになあ、などと私は思ってしまう。 笑顔も色気も内面から自然ににじみ出るものが本当は一番美しい。
さて、このように“笑顔”が敬遠されるようになった時代背景を考察してみよう。
昔、“女は愛嬌、男は度胸”という言葉があった。差別用語的ニュアンスもあるため現在では使用されなくなっているが、男女を問わず対人関係における出発点として愛嬌の基本である“笑顔”が大きな役割を果たしていたように思う。
人間は生まれ持って本能的に“笑顔”を好むようだ。“笑顔”には本来的に人間肯定の機能が備わっていると思われる。産まれて数日しかたたない赤ちゃんでも“笑顔”の認識ができ、笑顔で接すると赤ちゃんはご機嫌でつられて笑ったりもする。育児の基本、そして人間関係の出発点が“笑顔”であることには間違いない。
そのように人間関係の出発点でもある“笑顔”が、なぜ今の時代失われてしまっているのか?
その根源はやはり人間関係の希薄化現象にあろう。他者との深い心のふれあいを好まず、人は自分の世界に閉じこもろうとする傾向にある。 まずは笑顔から入って語り合い少しずつ人間関係を深めていくという作業を経ずして本来の人間関係の進展は望めないはずなのに、悲しいかな今の時代自分の都合のみの人間関係で手っ取り早く事を済ませようとする人々が増えてしまっている。
例えばの話、恋愛関係においてもすぐに体の関係に入ろうとする。だから、さしあたって直接的、表面的な色気の方が重要なのだ。 その場合、七面倒臭い笑顔や会話はむしろ煩わしい。へらへら笑顔を見せられても鬱陶しいだけなのであろう。
そして、自分にとって用のない相手とは挨拶さえも迷惑がる人も今や多い。まさにエゴの閉鎖的な世界である。
そんな人種が社会に蔓延し、街では皆がけだるい無機質な表情をすることになる。
いつ何時もへらへらしようと言っている訳ではない。人間関係のエッセンスとして最低限自分のお気に入りの相手には少し意識して笑顔を取り入れてみたら、その結果心が潤い、世の中は少しずつ明るい方向へ動きそうに思うのだが…。
いきなり私事であるが、私の結婚式の時のポートレート写真は類を見ない程特異的である。
花嫁単独写真から全体集合写真まで結婚式場でのプロのカメラマンによる数枚のポートレート写真を保存してあるのだが、そのすべてにおいて花嫁である私が歯をむき出して笑っているのだ。
結婚写真というと、花嫁たるものすまし顔かせいぜい少し微笑んでいる程度なのが常識というものである。
なのになぜ、私の花嫁ポートレート写真のすべてが歯をむき出して笑っているかと言うと、それがカメラマンの好みだったからである。
最初は花嫁(すなわち私)一人の写真から撮影し始めた。撮影が始まった時点では私はすまし顔を決め込んでいたのであるが、カメラマン氏と会話しながらの撮影に打ち解けた私がケラケラ笑い始めたのだ。(私、結構笑い上戸です。)
そうしたところ、そのカメラマン氏が私の笑顔がいいとおっしゃって下さり、その笑顔(というよりも大笑い顔)をシャッターチャンスに狙いを定めてしまったのだ。 なぜ私の笑顔がいいかと言うと、私には生まれ持っての“えくぼ”があるのだが、それをカメラマン氏が妙に気に入ってしまった様子なのである。
そうとは言え、一応結婚写真であるからには一生記念に残るものである。撮影されつつ、そんなに大笑いの写真ばかりでも…、と我に返り、やはりすましてみたり少し微笑んでみたりするのだが、そのカメラマン氏は相変わらず「もっと笑って!」の連呼である。新郎新婦写真になっても、全体の集合写真になっても「花嫁さん、笑って!」の連呼は続き、私はすべての写真において歯をむき出すことになったという訳だ。
この私の花嫁写真はどう考えても特異的であろうが、一昔前までは写真を取る時の決まり文句は「はい、チーズ!」であった。カメラの前で皆笑顔を作ったものだ。
ところが今の時代、例えばタレントの宣材写真等においても笑顔の写真は少ない。
一昔前“ぶりっ子アイドル”がもてはやされた時代には、タレントはとにかく不自然な作り笑顔で媚を売っていたものだ。
近年のタレントの宣材写真といえば、男女にかかわりなく決して笑わず、睨みつけたり、ポッカリ口を開いてみたり…。 どうもこれは“作りお色気”作戦の世界のようだ。おそらく時代が笑顔よりも表面的なお色気を好むのであろう。ところが残念ながら、私の目にはこの“作りお色気”はちっとも色気がなく滑稽にしか映らない。両者の共通項は“不自然さ”なのであるが、所詮不自然ならばむしろ“作り笑顔”の方がまだしも可愛げがあるのになあ、などと私は思ってしまう。 笑顔も色気も内面から自然ににじみ出るものが本当は一番美しい。
さて、このように“笑顔”が敬遠されるようになった時代背景を考察してみよう。
昔、“女は愛嬌、男は度胸”という言葉があった。差別用語的ニュアンスもあるため現在では使用されなくなっているが、男女を問わず対人関係における出発点として愛嬌の基本である“笑顔”が大きな役割を果たしていたように思う。
人間は生まれ持って本能的に“笑顔”を好むようだ。“笑顔”には本来的に人間肯定の機能が備わっていると思われる。産まれて数日しかたたない赤ちゃんでも“笑顔”の認識ができ、笑顔で接すると赤ちゃんはご機嫌でつられて笑ったりもする。育児の基本、そして人間関係の出発点が“笑顔”であることには間違いない。
そのように人間関係の出発点でもある“笑顔”が、なぜ今の時代失われてしまっているのか?
その根源はやはり人間関係の希薄化現象にあろう。他者との深い心のふれあいを好まず、人は自分の世界に閉じこもろうとする傾向にある。 まずは笑顔から入って語り合い少しずつ人間関係を深めていくという作業を経ずして本来の人間関係の進展は望めないはずなのに、悲しいかな今の時代自分の都合のみの人間関係で手っ取り早く事を済ませようとする人々が増えてしまっている。
例えばの話、恋愛関係においてもすぐに体の関係に入ろうとする。だから、さしあたって直接的、表面的な色気の方が重要なのだ。 その場合、七面倒臭い笑顔や会話はむしろ煩わしい。へらへら笑顔を見せられても鬱陶しいだけなのであろう。
そして、自分にとって用のない相手とは挨拶さえも迷惑がる人も今や多い。まさにエゴの閉鎖的な世界である。
そんな人種が社会に蔓延し、街では皆がけだるい無機質な表情をすることになる。
いつ何時もへらへらしようと言っている訳ではない。人間関係のエッセンスとして最低限自分のお気に入りの相手には少し意識して笑顔を取り入れてみたら、その結果心が潤い、世の中は少しずつ明るい方向へ動きそうに思うのだが…。
はじけるような「笑顔」、心の底から「楽しく笑う」出来事に久しく遭遇しないこのごろですな・・。
いいブログ記事です、ありがとう たぬち庵。
特に亭主の実家側から「何で、○子(私の本名)さんはこんなに笑っているの??? 困ったわねえ…」、と…。
「申し訳ありません、カメラマン氏についつい乗せられて…」、と言い訳しながら私としてはまんざらではなかったことを思い出します。
たぬち庵さん、はじける笑顔、心の底から楽しく笑うこと、そんな簡単そうなことがなかなか出来ない世の中ですね…。
笑顔が失われているのは、仰る様に人間関係の希薄化にあると思います。
昨日私は友人夫妻に誘われ、初対面の方々を含む7名でワゴン車に乗ってタケノコ採りに行って来ました。そのメンバーの中に頓智があり笑い上手な女性がいらっしゃいました。お陰で、車の中は和気藹藹、人間関係が濃厚になりました。楽しい一日でした。
笑いについての余談を三つほど記します。
チンパンジーの赤ちゃんも笑うそうです。人間の赤ちゃんの様に「高い、高い」をされると、目をみつめて笑うそうです。笑いが少ない社会である、人間関係が希薄である、このような背景として、私論ですが、幼児期のスキンシップ体験が少ない人々が社会の中で占める割合が多くなったと考えます。
私のブログに「チンパンジーのアイとアユム」を綴っていますので読んで頂ければ幸甚です。
笑いの表情としてのバリエーションは沢山あります。
これを演劇で演じ分けるのは実に難しい。戯曲の理解と人間への深い洞察、演じる為の高度な表現技法、作法が求められます。悲劇は易しいが喜劇は難しいとも言われます。
原さんも述べていますが、笑顔を伴った優しさの表情のあるデザインが少なくなりました。怒っている表情のデザインばかりが目に付きます。例えば、自動車のフロントマスクのデザイン。目がつり上がって、口を
真一文字に横にしています。
なぜ、あの様な表情のデザインになるのでしょう。
カーデザインの力不足も感じています。
アイとアユムにつきましては、私も新聞で読みました。アイは自分は母親に育てられていないにもかかわらず、アユムに対し本能的に母親として接したらしいですね。後程、ガイアさんのブログも拝見致します。
笑いのバリエーションは実に多いです。ガイアさんは役者修行もされた方ですのでお詳しいですね。実は私も人との付き合いにおいてこの笑いのバリエーションを使い分けたりすることが多いのですが、本当は使い分ける演技をしなくて済む本音の付き合いを充実させたいです。(先日も返答で書かせていただきましたが。)
車の顔のお話も興味深いですが、私の青春時代にはクーペというのでしょうか、結構研ぎ澄まされた顔の流線型の車が流行っていた頃でしたが結構好きでした。
今は車に乗らないので車の顔がよくわからないのですが、車がやさしい顔をしていると事故も減りそうな気もしますね。
少し前から拝見させてもらっています。
今、お笑い番組や三谷監督などコメディ映画がうけているのは、
本当は、笑いに飢えているのではないでしょうか。
私どものブログを見ていただいてとてもうれしく思います。
まさにそうかもしれません。私自身はあまりお笑番組もコメディ映画も観ないのですが、なぜ、そういう作られたメディアが受けるのかというと、皆さん笑いを求めているからなのでしょうね。
それだけ、実生活で心底笑える機会が激減している時代なのでしょうね。
たんたん♪さん、ありがとうございました。また、是非お越し下さってコメントをいただけますように!