本日、丸山陽子先生が小学校教師を退職した。
と言っても何のことやら分からない方が多数であろう。
丸山陽子先生とは、現在NHKにて放映中の連続テレビドラマ「おひさま」の主人公である。
戦前生まれの陽子先生は、当時においてはある程度豊かな家庭に育った。 ただ、病弱の母親を小学生の頃に亡くすという不幸に直面し、男所帯の家事を一人で支え切り盛りしてきた健気な経験の持ち主でもある。
その陽子が学校の教師になりたいと思ったきっかけとは、亡くなった母の影響力故だ。母は教師になるのが夢であったことを、生前小学生だった陽子に語っている。 この母が残した言葉に大いなる影響を受けた陽子は、小学生の頃より学校の先生になることを目指していた。
そして女学校卒業の後、当時としては進学する女子が極めて少ない歴史的背景の下、師範学校に進学して2年間勉学を修めている。
そしていよいよ小学校教師として自分の出身小学校へ赴任する。
だが不幸な事に時代は戦争直前期に突入しており、国を挙げて戦争に勝利するべくイデオロギーが渦巻いている時代背景だった。
小学校教師とはなったものの、日々陽子先生が子どもに教えねばならない事とは戦争に備えての心身の鍛錬等の戦争一色の教育であった。 そして第二次世界大戦が始まり、そのイデオロギーはさらに高まりを増し、学校教育も自ずと戦争特化を強行された時代である。
その後終戦を迎えたものの世の中の混乱はまだまだ続く。
学校現場においては今までの戦争教育を白紙に戻すため、戦前の教科書の不適切な部分に全校生徒に墨を塗る作業を泣く泣くさせるはめとなる。
ここで原左都子の私見になるが、戦後世の中が「平和」を意識するのはずっと後の事だったのだと再認識させられる場面であった。 まさに私が生まれた頃は“もやは戦後ではない”とのスローガンが掲げられた時代であるが、「平和」が庶民の感覚として意識され始めたのは戦後10年以上経過した後のことだったのではあるまいか?
その後陽子の学校の校長も新しい人物に替わり、陽子先生は厳しくもこの学校長より退職勧告を突きつけられる運命となる。
学校長曰く、「これからの時代は国民に対して新しい教育を施す時代へと変換せねばならない。 古い教育を受けた教員ではなく新しい教育を次世代に伝授でき得る人材こそが今後は学校教員となり、新しい時代を創っていくべきだ。」 (原左都子の記憶のみに頼っているため正確ではない点をお詫びします。 ただ私見としては陽子にとっては酷な話であろうが、校長が発する言葉は当時における正論でなくてはならないとの感が強かった。)
さて陽子先生は如何なる結論を出すのか、日々ドラマを見つつ興味深々だった私である。
先週出されたその結論は 「退職」 であった。
その陽子なりの結論を、私は十分に納得できたのだ。 世界を照らすべく“太陽の陽子”であることを期待されて今は亡き母親より命名された自分の名前ではあるが、その“世界”の解釈とは自分の力量に見合った世界であってよいとの陽子自身の解釈に十分説得性があった。 戦時中の教員経験であるため、戦争教育を強いられ生徒達に本来の学校教育をほとんど伝授していないことを悔いる陽子の思いも十分に理解できる。 そんな困難な時代に短い期間だったが自分が受け持った48名の子ども達にとって生涯の先生でありたいとの今後の陽子の人生の意向についても、素晴らしいと感嘆する私である。
原左都子自身も、過去において職場の退職を幾度か経験して来ている。
その我が職場退職の歴史の中で、陽子先生と同じく“教員”を退職した経験を今回“ドラマ「おひさま」”で懐古させてもらえた。
私の場合は上司からの退職勧告ではなく、自己都合による“出産退職”であった。
我が子を懐妊したのはちょうど高校が新年度に差し掛かかろうとしていた年度末の時期だった。 3月に教頭より来年度の担任を要望された私は、この時“出産退職”を表明せざるを得なかった。 来年度中の出産が明らかであるのに担任を承諾したのでは、学級の生徒達に迷惑をかける事は明白である。 その時担任を辞退すると共に、私は教員を辞める決意をしたのだ。
そして担任を持たずしての新年度二学期途中の9月30日に、私は教員退職を迎えることとなる。
学校を上げて私一人のための送別集会を開催していただき(これに関しては単に学校の定例であるのだが)、体育館の舞台で私は全校生徒の前で“お別れの言葉”を述べる事と相成った。
私が残したいメッセージは明瞭だった。 学期途中で退職する事のお詫びと、生徒達に今後個人的に望みたい事象についてである。
「皆さんにはいつも中途退学(高校は中途退学が少なくない実情なのだが)などせず卒業まで頑張って欲しいと教育している教員側の私が、こんな形で学期途中に中途退職することになって本当に申し訳ない思いだ。 見ての通り、ここまでお腹が大きくなった状態で片道2時間電車とバスを乗り継いで学校まで通うのが正直なところ辛くなった。本当にごめんなさい。 それから、今後も皆さんに頑張って欲しい事がある。 授業中にもよく話しているが私は根からの学問好きだ。 今の皆さんにとって勉強は面白くないだろうし、学問と言われてもピンと来ないことも理解している。 それでも学問とは実に素晴らしいのだ! 今後高校を卒業して社会に出たら、皆さんも将来学問をもう一度やりたい時期が来るかもしれない。 その時には年齢を気にせず学問に励んで欲しいというのが私の希望だ。」
そして教員連中からの“さくら”も含めた沢山の花束も含め、生徒からの出産に対する祝福のメッセージや手紙を数多く抱えて帰宅した私である。
退職後一ヶ月半の後に、私は我が子を出産することと相成る。
その情報を得た生徒からの電話や数多くの手紙が自宅まで届き、我が赤ちゃん見たさに遠方から我が自宅まで押し寄せてくる生徒の対応に苦慮した経験もある。(当時は教員の個人情報が生徒にオープンだったからねえ~)
一方残念なことに、その後生徒から学問に励んでいるとのメッセージは一切受け取っていない私なのだが……
冒頭の丸山陽子先生の場合、私が経験した“出産退職”と比較すると、世の中が劇的に移り変わる時代に翻弄されつつ教員時代を送った厳しい歴史を思い知らされる気がする。
それでも陽子先生の場合、家族に恵まれ仲間に恵まれる環境の中、自分の欲する未来像を描けての教員退職だったことに安堵させられるものだ。
今後の陽子の人生の行方を楽しみにしていますよ、NHKさん!
と言っても何のことやら分からない方が多数であろう。
丸山陽子先生とは、現在NHKにて放映中の連続テレビドラマ「おひさま」の主人公である。
戦前生まれの陽子先生は、当時においてはある程度豊かな家庭に育った。 ただ、病弱の母親を小学生の頃に亡くすという不幸に直面し、男所帯の家事を一人で支え切り盛りしてきた健気な経験の持ち主でもある。
その陽子が学校の教師になりたいと思ったきっかけとは、亡くなった母の影響力故だ。母は教師になるのが夢であったことを、生前小学生だった陽子に語っている。 この母が残した言葉に大いなる影響を受けた陽子は、小学生の頃より学校の先生になることを目指していた。
そして女学校卒業の後、当時としては進学する女子が極めて少ない歴史的背景の下、師範学校に進学して2年間勉学を修めている。
そしていよいよ小学校教師として自分の出身小学校へ赴任する。
だが不幸な事に時代は戦争直前期に突入しており、国を挙げて戦争に勝利するべくイデオロギーが渦巻いている時代背景だった。
小学校教師とはなったものの、日々陽子先生が子どもに教えねばならない事とは戦争に備えての心身の鍛錬等の戦争一色の教育であった。 そして第二次世界大戦が始まり、そのイデオロギーはさらに高まりを増し、学校教育も自ずと戦争特化を強行された時代である。
その後終戦を迎えたものの世の中の混乱はまだまだ続く。
学校現場においては今までの戦争教育を白紙に戻すため、戦前の教科書の不適切な部分に全校生徒に墨を塗る作業を泣く泣くさせるはめとなる。
ここで原左都子の私見になるが、戦後世の中が「平和」を意識するのはずっと後の事だったのだと再認識させられる場面であった。 まさに私が生まれた頃は“もやは戦後ではない”とのスローガンが掲げられた時代であるが、「平和」が庶民の感覚として意識され始めたのは戦後10年以上経過した後のことだったのではあるまいか?
その後陽子の学校の校長も新しい人物に替わり、陽子先生は厳しくもこの学校長より退職勧告を突きつけられる運命となる。
学校長曰く、「これからの時代は国民に対して新しい教育を施す時代へと変換せねばならない。 古い教育を受けた教員ではなく新しい教育を次世代に伝授でき得る人材こそが今後は学校教員となり、新しい時代を創っていくべきだ。」 (原左都子の記憶のみに頼っているため正確ではない点をお詫びします。 ただ私見としては陽子にとっては酷な話であろうが、校長が発する言葉は当時における正論でなくてはならないとの感が強かった。)
さて陽子先生は如何なる結論を出すのか、日々ドラマを見つつ興味深々だった私である。
先週出されたその結論は 「退職」 であった。
その陽子なりの結論を、私は十分に納得できたのだ。 世界を照らすべく“太陽の陽子”であることを期待されて今は亡き母親より命名された自分の名前ではあるが、その“世界”の解釈とは自分の力量に見合った世界であってよいとの陽子自身の解釈に十分説得性があった。 戦時中の教員経験であるため、戦争教育を強いられ生徒達に本来の学校教育をほとんど伝授していないことを悔いる陽子の思いも十分に理解できる。 そんな困難な時代に短い期間だったが自分が受け持った48名の子ども達にとって生涯の先生でありたいとの今後の陽子の人生の意向についても、素晴らしいと感嘆する私である。
原左都子自身も、過去において職場の退職を幾度か経験して来ている。
その我が職場退職の歴史の中で、陽子先生と同じく“教員”を退職した経験を今回“ドラマ「おひさま」”で懐古させてもらえた。
私の場合は上司からの退職勧告ではなく、自己都合による“出産退職”であった。
我が子を懐妊したのはちょうど高校が新年度に差し掛かかろうとしていた年度末の時期だった。 3月に教頭より来年度の担任を要望された私は、この時“出産退職”を表明せざるを得なかった。 来年度中の出産が明らかであるのに担任を承諾したのでは、学級の生徒達に迷惑をかける事は明白である。 その時担任を辞退すると共に、私は教員を辞める決意をしたのだ。
そして担任を持たずしての新年度二学期途中の9月30日に、私は教員退職を迎えることとなる。
学校を上げて私一人のための送別集会を開催していただき(これに関しては単に学校の定例であるのだが)、体育館の舞台で私は全校生徒の前で“お別れの言葉”を述べる事と相成った。
私が残したいメッセージは明瞭だった。 学期途中で退職する事のお詫びと、生徒達に今後個人的に望みたい事象についてである。
「皆さんにはいつも中途退学(高校は中途退学が少なくない実情なのだが)などせず卒業まで頑張って欲しいと教育している教員側の私が、こんな形で学期途中に中途退職することになって本当に申し訳ない思いだ。 見ての通り、ここまでお腹が大きくなった状態で片道2時間電車とバスを乗り継いで学校まで通うのが正直なところ辛くなった。本当にごめんなさい。 それから、今後も皆さんに頑張って欲しい事がある。 授業中にもよく話しているが私は根からの学問好きだ。 今の皆さんにとって勉強は面白くないだろうし、学問と言われてもピンと来ないことも理解している。 それでも学問とは実に素晴らしいのだ! 今後高校を卒業して社会に出たら、皆さんも将来学問をもう一度やりたい時期が来るかもしれない。 その時には年齢を気にせず学問に励んで欲しいというのが私の希望だ。」
そして教員連中からの“さくら”も含めた沢山の花束も含め、生徒からの出産に対する祝福のメッセージや手紙を数多く抱えて帰宅した私である。
退職後一ヶ月半の後に、私は我が子を出産することと相成る。
その情報を得た生徒からの電話や数多くの手紙が自宅まで届き、我が赤ちゃん見たさに遠方から我が自宅まで押し寄せてくる生徒の対応に苦慮した経験もある。(当時は教員の個人情報が生徒にオープンだったからねえ~)
一方残念なことに、その後生徒から学問に励んでいるとのメッセージは一切受け取っていない私なのだが……
冒頭の丸山陽子先生の場合、私が経験した“出産退職”と比較すると、世の中が劇的に移り変わる時代に翻弄されつつ教員時代を送った厳しい歴史を思い知らされる気がする。
それでも陽子先生の場合、家族に恵まれ仲間に恵まれる環境の中、自分の欲する未来像を描けての教員退職だったことに安堵させられるものだ。
今後の陽子の人生の行方を楽しみにしていますよ、NHKさん!
私の実父は、墨塗り教科書の経験者だと思います。
父親は当時の話を、全くしません。
そんな時代だったから、わざと子供に話さないんだろう、きっと。
時代の変遷と、狭間で退職を余儀なくされた女性教師・・・。
数日で、終戦記念日だけども、退職でイオロギーの犠牲になった人もいた事を知りました。
当時の先生には「代用教員」と言う制度があり、組合活動も盛んで校長も難しい学校運営を余儀無くされていたようです。私が小学校一年生の時の担任も3学期ごろに結婚され、2年生の時はおばあちゃん先生に代わってガッカリした記憶があります。(爆) 事情は陽子先生と似ていたように思います。現在はお腹を大きくして勤務し、産休を処理した後に職場に復帰する先生も少なくありません。隔世の感があります。
その種のイデオロギーは私にとっては分かり易いものでした。
“米国を追い抜け追い越せ!”のスローガンの下に勉学に励み、産業を発展させるべく学力を身に付ける時代でした。
そのように単純明快な時代に生まれた私は幸せなのでしょう。
戦前から戦中、そして戦後にかけて生抜いてきている先輩達にとっては、戦後のイデオロギーの180度の転換はさぞや厳しいものであったことと察します。
そんな時代に教員を経験して、今まで自分が信じて教えてきた教科書に墨を塗らせる立場の無念の程が理解できる気がする私です。
もちろん、生徒側こそがその真の犠牲者であるのですが、それを乗り越えて当時我が国を経済発展させた力は素晴らしいものがあります。
ゴチさんが書かれている通り、現在の学校は労組など何の力もない状態です。 それはどうしてかと言うと、既に教員を含めて公務員の産休制度や育児休暇制度が手厚く保護されているからです。
何故女性に公立教員志願者が今尚多いのかと言えば、民間企業に比較して産休、育休を取り放題だから故に他なりません。
私自身は採用時点から「臨時教員」の身分でしたので、そもそも産休が取りにくい(組合を通して闘うと取れるという手段もあったのですが、私自身に陽子先生同様その気はなかったです)事情もあったため出産間際に退職しました。
学校現場の女性教員などみな大手を振って産休、育休を取っていますよ。 それが年度の途中であろうとお構いなしです。
だから生徒や保護者から苦情が出るのです。
ただ産休中の正教員よりも産休代替教員の方が質が高いことはよくある話です。 ですが、悲しい事に現在の公務員制度においては、どうしても質の低い正教員を復職させるしか手立てがなく、その種の輩が定年まで図太くのさばっているのが現状です。
これでは、公教育現場のレベルが向上するはずもないということですね。