28年前のあの壮絶な1日を、私は一生忘れることはない。
出産予定日は、12月6日だったのだが。
それよりも13日早い11月23日の朝から。
私はどうも体調不良感があった。
義母にプレゼントしてもらったタワー物件に引っ越して、未だ2か月少しの頃だ。
我が亭主の職場は土日は休みだが、祝日はいつも出勤していた。
朝9時頃亭主が出掛けるに際しいつものように玄関先で見送った時に、私は既に体調不良感を抱えていた。
もしかしたら陣痛の前触れかと自己診断しつつも、亭主になるべく心配をかけたくないとの思いから、体調不良に関しては黙っていた。
その後、 洗濯物を干し始めた頃から、これは間違いなく陣痛だと自覚して。
とりあえず、原の実家に電話をかけた。
あいにく義母が留守で、在宅していた義父が電話に出て「〇子さん(私のこと)、まず主治医に連絡しなさい。」と 的確な指示をしてくれた。
そのすぐ後に郷里の実家にも電話を入れると、同じく「主治医に電話しなさい」との返答。
そして主治医に電話したところ、「何分おきに陣痛がおこっているか」を問うた後、「 本日は祝日のため手術(私の場合“高齢逆子出産”のため、最初から帝王切開予定だった) は出来ないが、私の予想では出産は明日になると計算します。 何か異常等があったら またすぐに電話して下さい。」
そして昼が過ぎ、その後体調は悪化を続けたが、掃除や洗濯物入等々ルーチンワークは陣痛に耐えつつきちんとこなした後。
夕方になりもはや起きていられる体調ではなくなり、ベッドに横たわった頃。 どうやら破水したようで、トイレへ行ったら大量出血した。 (この頃から娘の息が止まっていたと、後で考察する。)
もはや動けない身体状態だが、その体で主治医に電話を入れると、「すぐに病院へ来なさい !!」との指示だった。
動けない体で、あらかじめ用意していた出産準備袋を取り出し、職場の亭主に電話をか けて「今すぐ帰宅して病院へ連れて行って!」と嘆願した。
何とかタワー物件の玄関まで降りて動けないままうずくまっていたら、亭主が車で帰宅 して病院へ連れて行ってくれた
その頃おそらく18時頃だっただろうか。
主治医が私を診るなり救急車を手配し、その救急車で大規模産科病院へ運ばれるはめになったが。
救急車に乗り込むと、救急隊員が亭主に「電話番号を教えて下さい」と問ういうのに、亭主が応えられず。(転居後まもないため、未だ記憶していなかったか?? あるいは亭主こそがかなり動揺していたことと察する。)
私がうめきつつ応えた後、救急隊員が私が意外やしっかりしているのを利用して、私の職業や何やらの確認をしているうちに。 もう本気で耐えられない私は大声でうめきながら、産院到着。
すぐに手術準備室に運ばれ、もう産みそうなのだが、下から産んでいたので は娘の命が無いのは皆が承知で、「もうすぐお腹を切って出すからいきむな!我慢せよ !!」の声援だった。
やっと手術室で手術が始まるものの、とにかく医師も娘を生きて産ませようと必死で、麻酔が少しも効かないままにおなかを切られ始め。
娘がおなかから出た時(午後8時6分)に、子宮が陰圧になるのが手に取るように分かり。 その後子宮と腹部を縫 う作業に入るが、一針一針が猛烈に痛くてそれは地獄を見る思いだった。
手術室内は始終緊迫状態で、「脈拍いくら!! 血圧いくら!!」 そのデータを耳で 聞きつつ(私は死ぬんだ…)と朦朧と思っていたのが…
悲しいことに、死にかけていたのは娘の方で……
ただ一命はとりとめた様子で、その後保育器に入れられて。
私が娘と初対面できたのは、出産後3日目だった。
未だ体調絶不調の我が身であり、腹部切開のためベッドから起き上がることすら不能だった。
それでもベッドの中で娘と初対面を果たすことが叶い、大感激の私だった。
これが何とも可愛いこと! まだ目が開いていなかったが、色白で女の子らしい美人だった。
後に私も起き上がって歩けるようになり、参院にずらりと並べられている赤ちゃん達を見比べたところ。
うちの娘が、一番美人ではないか! (と、おそらく産婦は皆思うのだろうなあ~)😜
というぐあいに、娘の生誕場面を毎年娘の誕生日に嫌でも思い起こす私だ。
あれ程壮絶な出産シーンとは、類を見ないのではなかろうか?
いや世の中には、もっと不運な出産シーンも多々ある様子だ。
我が娘の場合、「死産」を避けられた事実に感謝するべきだろう。
あれから28年の年月が経過した。
私は娘の誕生日を迎える都度、娘の“発達障害”の責任を感じる。
娘の発達障害の場合、その原因がこの出産時の「仮死産」であろうと私は特定している。
元医学関係者として、どうしてそれを避けることが叶わなかったのか??
28年の年月が経過して尚、自責の念に囚われてしまう。
おそらくこの感覚は、我が人生に於いて一生抱えねばならない怨念であろう。
ただその自責の念こそが、私が娘の母親として生きられる糧でもあろうと、自身を慰めつつ、毎年娘の誕生日を迎えている。