原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

婚姻後の姓は個人が自由選択出来る制度を望む

2015年11月06日 | 時事論評
 私は、晩婚後の現在の姓名(本名の話だが)が“大のお気に入り”である。

 その理由に関しては 「原左都子エッセイ集」バックナンバーで幾度かその話題を取り上げ公開しているが、私の婚姻後の姓名が某超美人著名人と同姓同名と相成ったのだ!

 単なる偶然に過ぎない話だが、私は晩婚に当たり、こんなラッキーを手中に出来る我が運命を大いに喜んだ。
 当時公立高校教員として勤めていた身分だったが、婚姻に当たり職場でその事情を説明し新姓を自ら名乗ると、その新姓名に対する職場内の反応の程が尋常ではなかったものだ。
 「へえ~、凄い氏名になりましたね!」 「下駄箱氏名札に既に新姓名が貼られていましたが、誰の事かと驚きましたよ!」等々、サプライズ反応が湧き上がり、職場中が私の新姓話題で盛り上がったものだ。
 片や、生徒達の我が新姓への反応も素早く、すぐさま「○先生」と新姓で呼んでくれ何らの不都合もなく婚姻後の姓が職場全体で受け入れられた感覚がある。


 私事が続くが、我が旧姓に話題を移そう。

 私は、自分の旧姓が子供時代より嫌いだった。
 少し珍しい姓だったとの理由もあるが、後に考察するに旧姓時代の自分自身に対して、当時より受け入れ難い部分があったのかとも思い起こす。
 とにかく基本的に学校嫌い(集団生活嫌い)の私だった。 特に小学校と高校に対して“不適合意識”があったとの事実を、後々に及んで我が脳内で考察可能なのだが…。
 集団生活を強要される学校へ行く日々が苦痛で耐えられなかったにもかかわらず、持って生まれた生真面目さや律義気質により毎日学校へ素直に通って“しまった”事実が、今思い返してみるとむしろ痛恨の極みでもある。 (ただ、当時真面目に勉学に励んだ事実は現在の自分を育む礎となっている感はあるよ。)

 しかも我が両親の育て方に対しても不満があった私は、地元過疎地国立大学卒業後単身で上京し就職するとの決断を下した。
 その決断の後上京した暁には、我が旧姓に対し、郷里にて生活していた頃よりは随分と抵抗力が低くなったとも考察する。  それもそのはず私は郷里のしがらみから解放され独り身となり、自由自在に自己実現が可能となった故だ。
 しかも職場の仲間が私の旧姓の一部を取って「○○ちゃん」と呼んでくれるではないか。 これぞ今尚私のお気に入りのニックネームなのだが、それを「原左都子」のペンネームに(読み方に於いて)引用した事実も公開済みだ。

 更には晩婚に際して、学校現場である職場の一同僚に我が旧姓が嫌いだった事実を打ち明けた事がある。 それに応えて同僚男性曰く、「貴方の旧姓は響きもいいし、特に変な苗字だとは思わない。 著名人と同姓同名の新姓よりもむしろ貴方に相応しい旧姓名だったのかとの印象もあるよ。」
 そんな素晴らしい名言を同僚から退職記念として頂き、私は我が子出産直前に学校現場より去った。


 民法750条「夫婦同姓」規定改正を巡っては、20数年程前に私が大学院にて「経営法学修士」を取得せんと学業に勤しんでいた頃より民法上の一論点課題であったと認識している。
 大変申し訳ない事には、その後この論議は既に決着を見たかと誤解していたところ、昨日のニュース報道によれば未だ未解決の論争項目だったとの事だ。
 
 以下に、ネット情報よりその論争の一部を要約引用しよう。
 夫婦別姓を認めない民法の規定が憲法に違反するかどうかが争われた裁判で、原告側が「ほとんどの夫婦が夫の名字で男女差別だ」と訴えたのに対して、被告の国側は「どちらかの名字を選ぶという規定で、差別ではない」と反論した。
 夫婦の名字を同じにするという明治時代からの民法の規定について、東京などの男女5人は、別々の名字を選べないのは婚姻の自由などを保障した憲法に違反するとして、国に賠償を求める訴えを起こしている。11月4日、最高裁判所の大法廷で15人の裁判官全員が参加して弁論が開かれ、原告側は「夫婦がどちらの名字を選んだか調べた結果によると、96%の夫婦が夫の名字を選んでいて、男女差別を生み出している。改正の動きを見せない国会には期待できず、最高裁判所が救済してほしい」と訴えた。 一方、被告の国側は「原告が主張している『名字の変更を強制されない権利』は憲法で国民に保障された権利だということはできない。民法の規定は夫婦どちらかの名字を選ぶというもので、差別ではない」と反論した。
 最高裁は、早ければ年内にも判決を言い渡す見通しで、家族の在り方に関わる明治時代からの規定について、どのような判断を示すか注目される。
 夫婦別姓を巡る議論では旧姓を使える職場が増え、別姓の制度は必要はないという意見がある一方、旧姓の使用では解決しないという意見があり論点の1つとなっている。夫婦別姓の議論が盛んになってきた背景には女性の社会進出が進み、名字が変わることで仕事上のキャリアが途切れるという問題がある。 こうしたことから職場で旧姓の使用を認める動きが広がり、財団法人「労務行政研究所」によると、一昨年、一部上場企業などを対象に行ったアンケート調査では200社余りから回答が寄せられ、仕事上での旧姓の使用を認めている企業の割合は64.5%と12年前の30.6%に比べ2倍余りに増えた。 このため、法律を改正してまで夫婦別姓の制度を導入する必要はないという意見がある。
 一方で夫婦別姓の導入を求める人たちは、旧姓の使用が広がっているものの今もさまざまな不都合があると訴えている。 例えば身分証として使われる運転免許証や住民基本台帳カード、それに健康保険証は戸籍名しか認めらていない。 このため身分証の提示が必要な銀行の口座の名義は新しい名字となり、仕事で旧姓を使用していると振り込みなどを巡ってトラブルになる場合もあるとしている。 また、こうした不都合を避けるため籍を入れない「事実婚」を選択する人たちもいるが、法律上の夫婦ではないため、所得税や相続税の控除が適用されないほか、パートナーの生命保険の受取人として認められないケースもあるということだ。 夫婦別姓の導入を巡っては、こうした問題をどう考えるかも論点の1つとなっている。
 (以上、ネット情報より要約引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 朝日新聞11月5日トップ記事によれば、民法が夫婦同姓を強要する事態が「結婚を境に自分の存在を失う」との極論を掲げ、最高裁で判決を問いたいとの原告41歳女性も存在する様子だ。

 自分の姓を婚姻により変更せざるを得ない事により「自分の存在を失う」とまでの“究極の自己喪失感”を感じておられる女性が現世に存在するのならば、確かにそんな立場にある女性を救い出す使命が法律にもあるのだろう。
 確かに夫婦が同姓であらねばならないとの民法規定に関しては、私も(旧姓にこだわりたいとの理由ではなく)個々の人権尊重との意味合いで反論がある。

 ただ申し訳ないが私の場合、名前などどうだっていいなあ。
 今の自分の姓名に満足しているとの理由ももちろんある。 が、所詮名前など「記号」の範疇を抜け出ていないし、過去の姓にこだわるより未来に向けて自分自身が欲する人生を自由に歩める法制度の方がよほど嬉しいし、有り難いと思うのだけど…。