水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

残月剣 -秘抄- 《入門》第五回

2009年03月21日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《入門》第五回

 耳に入る番頭の話は実に細やかで真実味があり、旅籠のうらぶれた佇まいと相俟って、客が寄りつかなくなった訳を如実に物語っているかのように左馬介には思えた。
 身なりを緩めて寛(くつろ)いでいると、襖越しに、
「すぐ、夕餉になされますか? 風呂も沸いておりますが…」
 と、ぼそっと吐く番頭の声がした。その少し前にも茶を淹れて運んでくれたから、度々は…と、少し遠慮したのだろうと、左馬介は、ふと考えた。
「風呂を先に…。食事は半時ほど後で結構ですから…」
「左様で…」
 ぽつりと声が響き、番頭が階段を下りる軋み音がした。左馬介は、明るい外側の障子戸を何げなく約一尺ほど開けた。上手くしたもので、丁度、小雨が降りだしたところであった。早めの投宿が幸いしたか…と、軒伝いに落ち始めた雨滴を見ながら、左馬介はそう思った。とはいえ、十五になって程ない左馬介である。気丈さを保とうと努めるほど、やはり青年には届かぬ少年のやわさは時として綻(ほころ)び出る。峠茶屋の亭主にしろ、この旅籠の番頭にしろ、そうした大人の機微が分かっているから、敢えて深く構えなかったのである。それが大人の処し方だということを、初心(うぶ)なこの時の左馬介には、分かる由もなかった。


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残月剣 -秘抄- 《入門》第四回

2009年03月20日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

         《入門》第四回

 八文の銭を縁台へ置き、左馬介が席を立ったのは、それから暫くしてからである。
「どぉ~も、有り難(がと)やーした! また、お帰りには、お立ち寄りを!」
 左馬介は送り出す主(あるじ)の声を背に受け、山道を歩き出したが、ふたたびこの茶屋に寄ることがあるのだろうか…と、漠然と思うのだった。 
 その日の夕刻、七ツ時には溝切宿へと入った左馬介であったが、峠茶屋の主の忠言の正確さは流石のものよ…とは思えた。日が没するまでには、未だそれなりの時があった。
 旅籠は物集(もずめ)街道筋の左右に沿って流れるように続いていた。一軒のうらぶれた旅籠に入り敷居に腰を下ろすと、番頭が、ひょいと奥から現れ、云ってもいないのに、さも当然の如く、草鞋の紐を解き、更には足袋までも脱がし、手桶の水で足を丁寧に洗ってくれた。蓄積した左馬介の疲れは一度に引いていった。 そうして、空いた三畳間へと通された。
「ほう…、葛西へ行かれますか」
 茶盆を運ぶ先程の番頭が、何とは無しに、そう切り出す。片言で話をする左馬介に、番頭は諄(くど)く返してくる。聞いてもいないのに、生憎(あいにく)、女中が急な用向きで休んで居らぬと憤慨し、自らが切り盛りする羽目になった今日なのだ…などという愚痴を云う。そんなことは左馬介にとっては聞きたくもない詰まらぬ事情であった。


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残月剣 -秘抄- 《入門》第三回

2009年03月19日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《入門》第三回

 左馬介は、この時ぞ! と思えたのか、皿の串団子を手にすると、三ヶ刺さった団子の二ヶ迄を一気に頬張った。そこへ、主(あるじ)がバタついて、また現れた。左馬介は思わず喉を詰めそうになり、咳き込んだ。それを見た主が、急須の茶を急いで茶碗へと注ぐ。
「腹も空いてやぁーしたか。朝は何も食わずに立たれた、と見えやすねぇ…」
 勝手に判断して捲(まく)し立てる主の態度が如何にも横柄に思え、腹立たしい左馬介であったが、意に介さずにおこう…と、下がらぬ溜飲を無理に一先(ひとま)ず下げることにした。
「溝切宿にゃあ、まだ三里ほどは有りやすが、陽延びしやしたから
ねえ。日没までにゃ、ゆったり、宿へ着けやすよ」
 峠茶屋の亭主だけのことはある…と、左馬介は思った。地の利には長けていて詳しい。
 茶を啜り、串団子を咀嚼(そしゃく)して喉へ通す。辺りに広がる景観を愛で茶を啜る。その動作を繰り返す左馬介は、立った状態で佇む主のことは忘れているから話を切り出そうとはしない。主も、話の腰が折れてしまい、一人、突っ立っていても仕方ないと思えたのか、また奥へと引っ込んでしまった。


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残月剣 -秘抄- 《入門》第二回

2009年03月18日 00時00分00秒 | #小説

         残月剣 -秘抄-   水本爽涼

           《入門》第二回

 盆に茶碗と団子二串を盛った皿を載せ、主(あるじ)が次に現れたのは、その僅か後である。
「どこへ行きなさる? 見たところ、お武家様は、まだお若(わけ)ぇようだが…」
 と、縁台へ盆を置きながら、主は左馬介の顔を覗き込んで訊ねた。
「葛西までだが、それがどうかしたか?」
「左様でごぜぇやすか…。いいえ、なあに。ただ、お訊ねしただけなんでごぜぇやす。葛西へね? …葛西と云やぁ、堀川道場ですが…」
「そうじゃ。今日は溝切宿で一泊し、明日中には入門する積もりでおる」
「左様でごぜぇやすか…」
 同じ言葉を二度繰り返し、盆を両手で粗末な着物へと抱きかかえる姿勢のまま、主は突っ立っている。左馬介は、見られたまま団子を頬張るのも気恥かしく思え、茶を一気に飲み干した。少し熱かったが、気に留めなかった。それを見た主は、 
「喉が渇いてやぁーしたか。ちょいと、お待ちを…。急須を取ってきて淹れやすんで…」
 と云うと、また奥へと引っ込んだ。


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残月剣 -秘抄- 《入門》第一回

2009年03月17日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《入門》第一回

 猪背坂(いのせざか)越えの峠の山道を登っていくと、一軒の茶屋が急に眼の前へ出現した。左馬介は小腹が空いていたので立ち止まった。丁度、茶屋の軒に赤布敷きの縁台が左右に二台出ていたので、その右側の座布団へ腰を下ろした。入梅前ということもあったが、四半時(しはんとき)の登りだったこともあり、幾らか暑気を感じていた。手拭で汗を拭きながら辺りを見回すが、人の気配が皆目無いことに左馬介は気づいた。暫く待ったが、誰も出てこないので、
「誰ぞ、おらぬか!!」
 と、思わず左馬介は声を発した。少しの間合いの後、息を切らせた声が店奥から響いて、その店の亭主と思しき六十絡みの老人が暖簾を撥ね上げ飛び出てきた。
「…どうも…すまねえこって…。下の谷…まで、水を汲みに…行ってやしたもんで…」
 途切れ途切れに吐き出すように主(あるじ)は云った。
「左様であったか…。別に急がぬでな。団子を一皿、所望いたす」
 左馬介は微笑んで穏やかに語りかけた。
「へいっ! ただいま…」
 主はバタバタとした仕草で、暖簾を上げ奥へと消えた。


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第二十八回

2009年03月16日 00時00分00秒 | #小説

    残月剣 -秘抄-   水本爽涼

      《旅立ち》第二十八回

 何が何でも、もう一度会わねば…という心の昂(たかぶ)る兆しは無かったが、心のどこかには蟠(わだかま)りを残していた。
 葛西へ旅立つ前に、あの声と姿が甦ったのは、やはり、お勢を好いていたからなのだろうか…。その辺りが、もう一つ左馬介には分からなかった。『お勢と申します…』と云われ、『はい、左馬介です…』と返した、他愛ない、ただそれだけの遣り取りが甦っていた。
 十日後、左馬介は父に伴われて葛西の地へと旅立つことになるのだが、それ以降、左馬介が女を異性として、ふたたび心に映すのは、幻妙斎に死別し、葛西を離れて後のことだから、随分と先のことである。 旅立ちの朝は、商家へ養子に入った源五郎も実家へと戻り、久方ぶりに家族が一堂に会して左馬介の周りを囲んだ。葛西へは清志郎が随行しようとしたが、左馬介はそれを断った。少しでも未練を早く断ちたかったからである。
「父上、お気持ちは有り難いのですが、かの地へは、私一人で立ちとう存じまする」
 十五歳にしては、気丈な言葉だった。
「左様か…。ならば、敢えて、とは申さぬがのう」
 菜種梅雨も去り、久々に雲の切れ間より蒼い空が覗いた朝、左馬介は父母兄弟に見送られて葛西へと旅立っていった。                
                                               
(旅立ち) 完


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第二十七回

2009年03月15日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《旅立ち》第二十七回

「まだ十日ばかりあるが、一度(ひとたび)、葛西の地へと移り住めば、そうは易く帰れぬでな。心残り無きように致すのだぞ」
 盃を干しながら父の言葉を聴く左馬介であった。その席で、蕗は何も云わなかった。返ってそれが、母の悲しげな気持を如実に云い表しているようにも左馬介には思えた。
 清志郎に身辺の整理をしておくよう云われたといっても、左馬介には、取り立てて心に蟠(わだかま)ることもなかった。ただ一つ、同じ長屋の斜め向こうに住まいするお勢のことを、ふと想い出しはしたが、それとて、遠目越しに感じた十五歳の淡い感情であって、応じて軽く声を返した程度の左馬介である。お勢は、清志郎と同じ定町廻り同心であったという父の与左衛門が、時に触れ、訪った折り、家からの使いで番傘を届けに来た時に出くわし、顔見知りとなった経緯(いきさつ)があった。その時、軽い会話を交した程度のことは確かにあった。あったが、それ以上のことはない淡い心のときめきだったと左馬介には思える。なのに、今、ふと思い出したのである。それが何故なのかは当の左馬介にも分からない。竹刀や防具といった物ならば整理や整え様もあるのだが、この妙な感情の迸(ほとばし)りは、どうしようもなかった。


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第二十六回

2009年03月14日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《旅立ち》第二十六回

 その日は菜種梅雨を思わせる、暖かな雨が降っていた。
 秋月家の勝手元へ魚を届けに、いつも裏口から厚かましく入っくる魚屋の藤次の声が小さく聞こえる。
「へぇ~、お坊ちゃんも、そんな歳になられやしたか…。早いもんですなあ。まだ十(とお)もいってられないと思ってやしたがねえ。鯛なんぞ、そうは出やせんから、何ぞ、祝い事でもあったのか…とは思ってやしたが…。そりゃ、お寂しくなりやすねぇ。でもまあ、晴れの門出ですから、お目出てえことに変わりはありやせんが…」
 応対して蕗も何か話しているようだが、どういう訳か、その声は届かない。左馬介は縁側の廊下に腰を下ろし、静かに庭へザラつく音を落とす雨滴を見続けていた。
 その晩、慎ましやかながら、祝いの膳が囲まれた。
「源五郎がおらぬのが、ちと気を削ぐが、晴れの門出じゃ、左馬介。盃をとらす」
 左馬介は父の前へと畳上を躙(にじ)リ寄って、清志郎が差し出す盃を受け取った。清志郎は無言で、堤(ひさげ)に入った酒を盃へと注いだ。


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第二十五回

2009年03月13日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《旅立ち》第二十五回

「そなたは、かねてより、二人の兄より腕が立つと思おておったと、いつぞや申したが、恐らくは、これから生くる上で、そのことが良し悪しを問わず、そなたに関わって参ろう故、心して過ごすよう、これだけは申しておく。まだ旅立つ迄には日数(ひかず)もあろうが、以後は、このことについて、委細は申さぬでな…」
 清志郎は、左馬介の顔を見ながら、穏やかな物腰で云い渡した。左馬介は大刀を拝み抱いたまま、父の言葉を聴いていた。
 太刀を左腰に差して道を歩けば、己が身が、さも大人びたように思える左馬介である。未だ二本の差し料を身につけ太刀を抜いたことがない迄も、漸くこれで最小限、身は守れるだろう。そう思えば、歩く心も何故か小躍りした。こうして、日々、辺りを徘徊する
が如く歩いているというのも、源五郎が海産物問屋の久富屋へ養子に出されて以降、これといった話し相手が無くなったからである。父は時折り、仕事仲間だった元同心の山岡惣兵衛の所へ碁打ちに出向いたし、母の蕗、家中の細々とした雑用に忙殺されていたから、左馬介と気安に話す相手はなくなっていた。家督を継いだ市之進は御用勤めに日々、早朝から出ているから、当然ながら不在であった。


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残月剣 -秘抄-《旅立ち》第二十四回

2009年03月12日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《旅立ち》第二十四回

「父上! お呼びで御座居ましたか…」
 やや離れた清志郎へ、左馬介の廊下越しの声が飛んだ。
「おう…左馬介、戻ったか。どこぞへ出かけておったようじゃのう?」
  と、清志郎は振り向きざまにそう云うと、、手に持つ鋏を盆栽棚へ置いて微笑んだ。そして、ゆったりと縁側より家内へと上がると、左馬介の前へと座った。それに合わせて、左馬介も清志郎に対峙する形で下座へと腰を下ろした。
「話というは、他でもない。そなたが葛西の地へ旅する迄に手渡そうと思おておった品があってな。行って後では、果して出会えるかも分からぬでな…」
 そう云うと、清志郎は立ち上がり、刀掛けの大刀を手にした。
「無論、これは、そなたが葛西の地へ行ってしまうからでもあるのだが、元服も済んだこと故、手渡すのだ。我が家に伝わる二振りの内の一刀じゃ…。源五郎は商家へ入った故、無用となったでな。さしたる業物(わざもの)でもないがのう…、そなたと市之進に一振りずつ遣わす」
 と云うと、大刀を左馬介の眼前へと差し出した。一瞬は戸惑った左馬介であったが、
「頂戴致しまする…」
 と、差し出された大刀を両手で拝受し、そのままの姿勢で軽く会釈をした。


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