「読んだことのない方に薦めたい」という意思が全くない、ただのうちの読んだ記録です。
一番大事なラストの部分とか平気で書き出したりもしますので、ごちゅうい!(1のきいろいゾウのとこは、我ながらひでえと思った。やめないけど。)
あんまり…ってか物語的には全然重要じゃないとこも自分が気に入れば書き出しますが。
あと、本に関係ない自分の話もしますが。…そりゃこのブログではいつもか。
今回のテーマは「家族」ですね。
でも狙ったわけじゃないのが情けないところ。家族よりもむしろ、「食べ物」につられて選んでます。
あと井川遥。
幸福な食卓
「父さんは今日で父さんを辞めようと思う」
朝の食卓で、主人公の父親がそう宣言して物語が始まる。
「家族の役割」っていうのは、私は昔からよく考えてしまう事柄の一つだ。
昔見たドラマで……母親と、自分が好きだった(フラれた)男の人が一緒になってしまう、っていうのがあって…序盤こそめっさドロドロなんだけど、ラストには主人公は母親を一人の、「生きてる女」だと認めて、(祝福まではしないまでも)黙って二人を見送るんだよね。
……うちは、それに、ものすっごく納得がいかなかった。
そりゃ、結婚したからって、子供が出来たからって、それ以降絶対恋愛するなっていうのは、状況によっては酷な事なのかもしれない。うちがいざそうなったら、「私だって一人の女なのよ」とか理解を求めるのかもしれない…。でも!!
でも…「娘として、そんな『母』を認められるか?」って考えると、それは絶対できない……うん、どうしても、できないって思う。(…あ、念のため、うちの母がそういうこと今にも言いそうな女だとか、そういうことは全然ありません。あったらこんなこと、のんきに想像とかしてられない気がするし)周りの人みんなが仕方ないと思う状況でも、きっと娘である私は最後まで認めないだろうな、とか…、そのドラマを見た後、よくそんなことを想像してました。
だって、娘だから。全くもって感情的過ぎる意見だけど、母親としてそういうことはしないでよって、それが役割でしょうって訴えることができるのは、他人じゃなくて、娘だけだろうって思うから。
この物語の主人公は、そんなこと全く言わない。「父さんを辞める」と決めた父親を、そのままに受け止める。
すでに出て行っている母親に対しても、その生き方を尊重している。
物語のスタート時は中学生なのに。
素直にすごい、と思った。想像とはいえ、最後まで糾弾し続けることを決めてる心の狭い私(↑)とは大違いだ。
「幸福な食卓」というタイトル。出だしがやや不穏とは言え、軽くて明るい感じの会話や、描写。
母親が出て行って不在、父親は役割を放棄、お兄さんも優しいけどだいぶ変わってる……、それでも、主人公はそれらを内心不満に思ったりもしないまま、過ごしている。
不安のかたまりのようなものがあるのはわかるけど、こちらには最初は見えてこない。
それが、少しずつ見えてくる。5年前の事件もそうだけど、お兄ちゃん…「直ちゃん」の変化のきっかけの話とか、ぞくっとした。
そこで主人公が気づく。ずっと一緒にいてもわからないこともあるんだって。
この家族は、一見崩壊してるようだけど…力を合わせて困難を乗り越えてきたし、これからもきっとそうだろう。
でも。
他人じゃないと救えないものが直ちゃんにはある。きっと、同じように私にも。
…最後に起こる事件には、本当にびっくりした。
今までとは比べ物にならない大きな悲しみと喪失感に苦しめられ、主人公はなかなか自分を取り戻せない。
久々に4人そろった食卓の場で、主人公は父親に対してずいぶんとひどいことを言ってしまう。でも誰も咎めない…。
「かわいそうに」
しばらくして直ちゃんが言った。
「そんなこと言うほど、佐和子は傷ついてるんだね」
直ちゃんの静かな言葉に、私は何も言えず、またしくしく泣いた。
私はどんどん嫌なやつになっている。こんなんじゃだめなのに、もっとちゃんとしたいのに、ちっともうまくいかない。
言葉で傷つけて、気分も落ち込ませて、…それでも、言われる。もっと甘えてもいいんじゃないって。家族じゃない、外の人から。
「家族は作るのは大変だけど、その分、めったになくならないからさ。あんたが努力しなくたって、そう簡単に切れたりしないじゃん。だから、安心して甘えたらいいと思う。だけど、大事だってことは知っておかないとやばいって思う」
ほんと、ヨシコはおいしいとこ持ってくよね…。感心してしまうわ。
「全然違うってわかってるんだよ。でも、他に方法がわからないんだ。あんたがどうしたらいかわかんないように、私はもっとどうしたらあんたが元気になってくれるのかわかんないから…」
それでも必死で、伝えようとしてる姿が、すごくいいと思った。
何をしても戻ってこない人がいる。どうしても元に戻せないものがある。
でも、続いているものだってあって。壊れてるように見えたって、断ち切れることはないものもあって。
だから、何が起こっても。
いつかはきっと、元気にもなれるんだろう。
聖家族のランチ
「役割」をちゃんとこなすことが、家族として重要な事ではない。
…という希望めいたものを「幸福な食卓」から感じ取った後だったので、序盤はいろいろと苦笑…というか、こういう家族もあるんだろうなというか、どっちかというとこっちのがリアルなのかなとか、色々考えながら読んでたんですけど。
いやあ、あまりの展開にビックリして、全部吹っ飛びましたね…。マジで。(「幸福な食卓」の感想まで見事に吹っ飛んだので、上のん書くためにほとんど一冊読み返したよ…)
そ、そりゃ、不穏な感じはあったさ!でも、そ、そこまで、するか……。
いや、知らなかったんですよね、どんな話か、全然!タイトルと、この、オシャレっぽい表紙に惹かれただけなんです!あと林真理子さんって、an・anのエッセイで「すごく面白い人」って印象が強かったから…ま、まさかこんな、……ううっ。
途中で「これは本当にヤバイ」って思って、本を閉じて真剣にここで読むのをやめるべきか悩んだ本は初めてかもしれない…。ラスト知らないまま終わったら余計に気になるかもしれないってのと、もう8割読んだし単純にモッタイナイって思ったので、最後まで読んだけど…う、うーん……。
家族に、理想を求めすぎるのはヤバイのかもなって、思いました。(心の狭い私↑を含めて)
家族であれ、普通は他人をどうにかできるものではないのだろうけど、ここのお母さんはそれができる力があった。…あったっていうか、そういうものを手に入れるための努力は惜しまない人だった。だから、「維持」するために、あそこまでしたんだろうって…。
…うん。想像しないように読むの、大変でしたねー…。
あ、中盤の、傷ついた娘さんとお父さんの会話は好きだな。
(お父さんのセリフ部分のみ抜粋)
「美果が生まれた時…、パパはこう決心したんだ。将来、この子を傷つけるような人間がいたら、絶対に許さないってね――。でも、それはちょっと違うと今は思うよ。
美果は誰かに傷つけられたかもしれないけれども、それ以上に喜びや嬉しさを与えられている。その喜びは、親が絶対に与えてやることの出来ない喜びなんだ。そういう年齢になったんだよ。
もちろん、犯罪のようなことがあったら、パパは絶対に許さないよ。だけど人間が、誰からも傷つけられずに生きていけるはずはないんだからね。」
…あれ?今、書き出しながら気づいたけど。
さっきのヨシコのセリフといい、私は小説の中に「傷ついた人へかけるべき言葉」を探してるんだろうか?
確かに、なんて言っていいかわかんない時って、ある。そんな時に気のきいたことが言えたらなあってことは、常に思う。
…いや…、むしろ自分が傷ついた時に自分自身に言い聞かせるためなのかな…。自給自足!ある意味前向き!(えー)
その日のまえに
これは、図書館の返却台に偶然置いてあって…いつかVERYで井川遥さんが最近読んだ本ってことで紹介してたなってことで、見つけて2秒で手に取りました。ミーハーです(……)。
今回はこれが一番好きかな…。いやもう、「聖家族のランチ」の後だったから、ちょっと読んだだけで「こういうの!こういうのが読みたかったああああ……」ってむせび泣きそうでした。聖家族がダメな本とかじゃないんだけどね…。うちは、手に取るべきじゃなかったよね…。
…ただこれも、「好き」とは…、ちょっとストレートには言いづらいとこは…あります。とても辛いとこも多いし。全体的に切ない感じはずうっと漂ってるし。
図書館の本には(当たり前ですが)帯はついていないので、「連作短編集」って知らないで読んでました。その…テーマは同じってことはもちろんわかってたんだけど、つながりもあって…。前に読んだ「陰日向に咲く」もそうだけど、一見関係ないと思ってた話がつながってる!ってわかった瞬間はぞくりとしますね。読書の醍醐味です。まあ、はっきり言及されるまで気づかなかったんですけどね…。ヒントはもっと前からあったんだろうな。街とか、海の様子とかの描写で。
5つめの短編の名前が、タイトルにもなっている「その日のまえに」。
その次が「その日」。「その日のあとで」。
「その日」が何を指す言葉なのか、そこまで重ねられたいくつもの物語を通してうっすらは感じられるけど…、はっきり書かれるのは6つめの話。
そこからはずっと考えてしまう。自分だったら、「その日」に向けて何をするだろう…って。
その想像は、…想像だけでも、かなり辛い。自分が当事者でも、残される方であっても。辛くてなかなか、具体的に想像ができない。
でも、「その日」は私にも必ずやってくるんだ。
「思い出めぐり」は、やるかもしれない。
いや、「やりたい」気がする。彼女の言葉で、そう思った。
「あのね、昔と同じものに再会したいわけじゃないんだな、って。逆に再会できない方がいいっていうか、もう会えないんだっていうことを確かめたいっていうか……みんな幸せにやってるよね、って言いたいんだよね、要するに。」
「その日」が間近じゃなくても、別れって普通にあるから…
例えば、私が前に住んでいた家は、もう跡形もない。あと高校。私が通ってる時にあった校舎はもう、ない。
そういうのって、見るとやっぱりさびしくなってしまう気がして、…「本当にもうどこにもないんだ」ってことを実感してしまいそうで、あんまり見たくないなって思うんだけど。
でもそれは違うのかもしれないって思った。そこにいた人もきっと元気でやってるよって(いやうちの家族は今全員ここにいるから知ってるんやけど)、新しくそこにいる人もきっと幸せに過ごしてるよって、そうも思えるんだなって。
私はずっと地元にいるせいか、「別れ」っていうのがよくわかってない気がする…(高校卒業しても仲の良い子はたくさん地元にいたし、休みの時はこっちに戻ってきたりして会えてたし。専門…専門は、元々バラバラのとこから来てたし…一番の仲良しは関西にいたし)。思いっきり直面して、苦しんだり悩んだりしたことがないから余計にそれがよくわかんなくて、大人になってからは「直面しないように」してきている、気もする。
だから、いざ、本当に身近な人が…死んでしまって永遠に会えなくなってしまう「その日」が来たら、…うちは、耐えられないんじゃないかと思う。
でももう大人なんだし、泣いて暮らしていけるわけもない。「耐えられんかも」とか言ってる場合じゃない。
今、気づけてよかった。気づけないままでいなくてよかった。
ただ…、考えて、それで、耐えられるんだろうか。受け入れられるんだろうか。
最後の、看護師さんとの会話にも、ヒントを探して読んでいて…ウッとなった。
「終末医療にかかわって、いつも思うんです。『その日』を見つめて最後の日々を過ごすひとは、じつは幸せなのかもしれない、って。自分の生きてきた意味や、死んでいく意味について、ちゃんと考えることができますよね。あとにのこされるひとのほうも、そうじゃないですか?」
「でも、どんなに考えても答えは出ないんですけどね」
仕事として、何人も看取ってきた看護師さんも、どんどんわからなくなっている、と言う。
「でも、考えることが答えなんだということだけは、最近わかってきましたから」