私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であり、
たまたま昨夜のひととき、本棚より黒柳徹子さんの著作の『トットひとり』を取り出して、
再読したりした。
私はこの本を購読したのは、過ぎし年の2015年7月初旬で、
それまでは黒柳徹子さんに関しては、殆ど無知なひとりであったりした。
確か私が小学3年生になった頃、ラジオから『ヤン坊ニン坊トン坊』が放送され、
父が病死した後、祖父も胃がんで入院していた時であったので、
いじけた可愛げない少年であった・・。
こうした中で、♪ヤン坊ニン坊トン坊・・とテーマ曲が流れると、
何かしら私は励まされるような感じたりしていた。
やがて後年になると、ヤン坊は里見京子さん、ニン坊は横山道代さん、トン坊は黒柳徹子さん、
と知ったりしたが、この当時の私は子供心に里見京子さんの声に、
素敵なお姉さん声、と魅せられたりしていた。
やがて1980年代は音楽番組『ザ・ベストテン』を私はときおり視聴して、
黒柳徹子さんと久米宏さんが司会されて、絶妙なコンビに好感していた。
この後は、ときおり家内が視聴している『徹子の部屋』、
或いは『世界・ふしぎ発見』を私はいずれも3回ぐらい見たことがあった。
このように殆ど黒柳徹子さんに殆ど無知な私が、黒柳徹子さん著作の『トットひとり』を知ったのは、
たまたまネットで、新潮社の公式サイト【矢来町ぐるり】を見ている中で、
『徹子だから語れる「見事に生きた人の話』/「トットひとり」』
と見出しされた記事を読み、やがて興味を増したりした。
私はこの本書の紹介文を読んだ後、購読しょうと誘惑されたのは、下記の一節である。
テレビの黎明期の生放送の時代、
《・・実力者『森繁久弥』も刑事役で出たドラマで、棺桶に入った死体役の『左卜全』さんが、
勘違いして先に帰ってしまい、
本番中に(『森繁久弥』が)お棺を開けたら死体がないという事態に絶句した・・》
このようにテレビの黎明期に、テレビ女優一号生と称されている黒柳徹子さんは、
新劇、浅草の芸人、歌い手、或いはテレビ男優、女優など多事多彩の芸達者な人たちを
長年に交遊されてきた、証言者だ、と思えて、生きた時代の流れを学びたく、買い求めたりした。
黒柳徹子さんが長年の芸歴の中で、数多く方にめぐり逢え、交遊を重ねて、
同じ時代を切磋琢磨しながら、同じ時代の空気の匂いを共にしながら、
やがて図(は)らずも数多く方に死去され、黒柳徹子さんは取り残こされひとりになってしまい、
数多く人への感謝と愛惜の「鎮魂曲」である、と感じ深めたりした。
そして各章は、映画短編のように珠玉の作品となっている。
或いは黒柳徹子さん自身の幼年期から現在に至る多彩な時代の心情を発露され、
私は黒柳徹子さんは殆ど無知だったが、
黒柳徹子さんの特有な感性の深淵を学び、初めて魅了されたりした・・。
私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを買い求めて乱読してきた。
読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれ、早や60年が過ぎている。
今回、初めて黒柳徹子さんのご著書を読み終わった後、
漠然としながら空を見上げると、太陽、そして月についで明るく見える金星があるが、
夕方に見える「宵の明星」ような人かしら、と感じたりした。
余談であるが、黒柳徹子さんが小学一年生に退学になった理由、
やがてテレビ女優一号生でデビューまもない頃、私用で冬の京都の清水寺を早朝に訪れた時、
祭壇前の仏像の前に敷かれている大きな座布団に座り、多彩な動作・・
私は長らく笑ったりした後、黒柳徹子さん、私は降参しますょ、と心の中で呟(つぶ)いたりした。
今回、再読したが、やはりたぐいまれな御方であり、
改めて「宵の明星」ような御方だ、と感じ深めたりしている。
私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であり、
たまたま昨夜より、歌人・石川啄木に関しての2冊の本を再読している。
一冊目は、三枝昂之(さえぐさ・たかゆき)・著の『啄木-ふるさとの空遠みかも』(本阿弥書店)の単行本、
あとの一冊は松田十刻(まつだ・じゅっこく)・著の『26年2か月 啄木の生涯』(もりおか文庫)の文庫本である。
この二冊の本は、過ぎし2010年の夏の終りの頃の8月30日から9月4日まで5泊6日で、
家内と共に東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』、
そして盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉に訪れた時、
盛岡駅のターミナルビル内にある『さわや書店』で買い求めた本でもある。
私はこの旅行の時でも、その地を訪れる前には、岩手県の賢人を思い浮かべたりしていた・・。
無知な私は恥ずかしながら告白すれば、
宮沢賢治、石川啄木、そして金田一京助の各氏、
或いは新渡戸稲造の一族、そして米内光政、原敬・・この各氏ぐらいしか浮かばないのである。
そして、旅立つ一週間前頃から、改めて関しては石川啄木氏のことを思索していた。
私は若き頃、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした。
そして、中央公論の『日本の文学全集』(80巻)で、
石川啄木の作品を読んだことがあるが、氏に関してはこの程度の読者であった。
そして手元にある山本健吉・編の『日本名歌の旅』(文春文庫ビジュアル版、1985年)を見ていた時、
近代日本文学・専攻の岩城之徳(いわき・ゆきのり)氏の『歌人 その生と死 石川啄木』を読み、
深く考えさせられたのである。
《・・明治31年、啄木13歳のとき、
彼は合格者128名中10番の好成績で岩手県・盛岡尋常中学校に入学した。
しかしその後上級学年に進むにつれて、文学と恋愛に熱中して学業を怠り、
明治35年の秋、あと半年で卒業という時期に中学校を退学し、
文学をもって身を立てるという美名のもとで上京した。
しかしこの上京は結局失敗に終り、翌年2月帰郷し病苦と敗残の身を故郷の禅房に養うのである。
啄木は美しい魂とすぐれた才能の持主であったが、
正規の学歴を身につけなかったことは、その生涯を決定する痛ましいできごとであった。
学歴のないために下積みの人間としての悲惨な運命から逃れることは
啄木の才能をもっても不可能だったからであった。
・・
明治41年の春、啄木は北海道の生活に終止符をうって上京、創作生活にはいった。
正規の学歴のない文才の持ち主が、社会的に恵まれた地位を獲得する随一の方法は、
東京に出て小説を書いて流行作家になることであった。
北海道時代の彼が異常なほどの熱心さで東京での創作生活にあこがれ、
生活を捨て家族を残してまで上京したのも、
その随一のチャンスをみずからの手でつかもうとしたからにほかならない。
しかしその願いも努力もむなしく東京での創作生活は失敗に終った。・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。
このようなことを改めて深く感じたり、
或いは『日本の名歌150首を選ぶ 近代』に於いて、
5名の選者から石川啄木は下記の一首が選定されている。
呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!
《悲しき玩具》
この5名の選者のひとりである詩人の村野四郎(むらの・しろう)氏が、
解説されている。
《玄人(くろうと)の歌人たちが、啄木の歌を素人(しろうと)筋の歌としてしりぞけることはやさしい。
しかし、あの大衆的魅力の芸術性について語ることは、
そんなにやさしいことではない。
彼は、けっして単純なセンチメンタリストではなかった。
実存意識を日常的な悲哀感によって比喩することの名手であった。
そういう作品は、彼の名歌においても枚挙にいとまない。
この歌にしても、彼の胸中の孤独と寂寥とは、
木枯しの風音によって、素早く諷喩(ふうゆ)されている。
誰でもよく考えれば、その音の寂しさを感じることができるはずなのに、
誰もそれに気付かないか、
それを表現する勇気を持てなかった。
しかし啄木はあえてそれをした。
ただそれだけの話である。
そしてそれが啄木の天分であり、啄木の魅力でもあった。・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。
私は村野四郎氏の解説文を数度読み返したりし、更に深く考えされた・・。
このような深情のあった私は、この旅先で、盛岡駅で、山田線に乗り換える間、
駅構内の一角にある本屋で、啄木の本を探し求めて、購入できたのが、今回の二冊であった。
この後、私たち夫婦はある有力な通販の旅行会社の企画された格安の『フリープラン ザ・湯の川温泉5日間』に、
2014年の1月中旬に4泊5日で、函館市に隣接している湯の川温泉の観光ホテルに滞在し、
市内の名所などを遊学した。
この旅立つ日の前日の函館空港の風雪により、欠航便、遅延便があったりしたので、
本日の航空便の運航は予定通りかしら、と心の片隅にあったりしたが、
やがて北海道の白い大地が観えて、函館空港に着陸態勢となった。
この後、空港ビルの中の食事処で、私たち夫婦は昼食をしたが、
何かしら旅行気分の高揚感が半減して、
窓辺から観える空港の滑走路、小雪降る中で風が伴い、小雪は横殴り舞っていた・・。
やがて私たち夫婦は、空港前よりタクシーに乗車して、やがて『石川啄木 函館記念館』に入館した。
この記念館は函館の中心街の途中にある大森浜にあり、正式名は『土方・啄木浪漫舘』であり、
一階には土方歳三、二階に石川啄木に関する展示がされていたが、
私は土方歳三には興味がなく、石川啄木の生涯、遺された作品に圧倒的に心を寄せたりした。
この後日の『函館市文學舘』を訪ねた時も、2階は石川啄木の専用フロアーで時間を過ごしたりした。
『石川啄木 函館記念館』を退舘した後、私は舘に隣接している大森浜の景観を眺めたりした。
そして一時間半前には、小雪が風で舞う中であったが、青空が拡がり、
この地は天候が激しく変貌することを学んだりし、
この後も澄み切った明るい青空の中、幾たびか散策したりした。
そして風もない青空の中、予告もなく花びらのような雪が舞いながら落ちてくる風花(かざはな)に、
私は魅了されて心を寄せたりした・・。
もとより風花は、周辺に観える山で降っている雪が、ときより強く風が吹くと、
私は市街のはずれの路、海辺の路、そして街の片隅を歩いたり、
青空の中、白き雪が花びらのように見え、舞いながらはかなく消える情景である。
そして函館は小山に囲まれ、坂が多く風光明媚の地であり、
その上に晴天に恵まれることも多く、この時節の函館は、私は風花の街、と命名したりした。
このような旅路のことも思い馳せたりした。
改めて8年ぶりに読み返しているが、啄木の人生、そして遺〈のこ〉された作品に、深く思いを馳せている。
そして生前には生活に困窮する中で、これだけの歌を遺され、
死後に多くの人たちから愛読され、やがて名声が高まる軌跡に、圧倒的な感銘させる確かな歌人のひとり、
と認識させられている。
私は東京の調布市に住む年金生活の16年生の75歳の身であるが、
このサイトには、ほぼ毎日投稿しているが、
ときおり過ぎ年の今頃は、どのような思いで過ごしていたのかしら、
と古き手紙を読むように過ぎ去った日々の投稿分を読むことがある。
先程、こうした心情になり、読みながら独り思わず微苦笑したりした。
そして昨日の投稿文の中の一部に於いて、
私が20歳の頃から民間会社を定年退職になるまでの概要を綴ったりしたが、
つたない人生航路を読み返して、改めて微苦笑したりした。
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、 芸能専門養成所のシナリオ科に通ったりした。
そして映画青年の真似事の生活を過ごし、 アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、 映画は益々衰退して、まして脚本家で飯(めし)が喰えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。
まもなく私は文学青年の真似事に転身して、警備員の契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりした。
このような状況の時、 叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。
この時代は高度成長期であったが、大学を中退し、もとより企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学んだりして、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970年(昭和45年)の春であった。
この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。
私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。
入社した直後、現場を学べ、と指示されて、 横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベルが、外資系のレコード会社として独立した会社となり、私も転属された。
やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられ、
勤務地は赤坂にある東急ホテルに隣接したビルであり、まもなく本社が『六本木』に移転したので、
この後の1992年(平成4年)までの20年ばかり、 私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
この間、私は管理畑の商品、情報、経理をしている中、
やがて1992年(平成4年)の5月過ぎに、レコード会社の合併により、本社は渋谷の外れとなったりした。
この後、1998年(平成10年)の当時の私は、営業本部に勤めていたが、
この数年前の頃から、音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999年(平成11年)の初春に、各レコード会社が音楽商品の物流を委託している会社に出向となった。
勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品を、
ソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う物流会社の中のひとつの商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。
こうした中、音楽のCD、DVDなどの商品棚が並ぶフロアは、
東京ドームより広い商品センターで、 連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、 この出向先で5年半ばかり勤め、
2004年(平成16年)の秋に定年退職時を迎えた。
やがて定年退職時になると、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。
このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、 そして定年退職するまで半生期は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、 ときおり敗残者のように感じることあったりした。
このように悪戦苦闘の多かった歩みだったので、せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、
年金生活を始めて、 早や16年生となっている・・。
定年後の年金生活を始めてまもない時、
人生で後悔のない御方はいない、と書物から学び、大いに私は慰められたりした。
私は我が家の買物の責務を終えて帰宅した後は、
やはり独りで自宅周辺の3キロ範囲を歩くことが多くなっている。
こうした中、付近に流れている野川の両岸にある遊歩道を歩いたり、
或いは小公園、小学時代に通学した旧市道を歩いたりしている。
ときには最寄駅の商店街に立ち寄り、知人と談笑したり、
都立の神代植物園に遠征したりすると、中学時代の同級生に逢う時もある。
こうした時、偶然だよねぇ・・、とお互いに再会を喜びながら、
過ぎし中学時代のそれぞれの同級生のことを話したりすると、長話になったりする時もある。
そして私は、亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。
そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、
見知らぬ男性、 女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。
或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
明るい日中だとコーヒーを飲んだり、 夕暮れすぎの場合はビール、水割りのウィスキーを呑みながら、
談笑をしたりしている。
或いは私が勤めていたあるレコード会社のOB会と称せられる懇親会に出席したりすると、
上司だった御方たち、或いは同世代の数多くの人と談笑したりしている中、
数人から、XXさんは感性もお若いですょ、と私は社交辞令のお世辞を頂くこともある。
或いは女性グループの中で談笑している中、たまたま音楽の話題となり、
他社の『いきものがかり』を定年後に偶然に聴き、
何かと吉岡聖恵(よしおか・きよえ)ちゃんの歌声に、励まされていますょ、
特に『YELL(エール)』は、高齢者の私でも心身のビタミン剤ですょ、と私は言ったりした。
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
ときには遊歩道、公園などを歩いたりしていると、見慣れた情景でも、
樹木、草花など、 初めて気づかされて、こんなに美麗な花だったの・・
新たなめぐり逢いに感謝をしたりしている。
私はこのサイトに綴りはじめて15年半過ぎているが、
ほぼ毎日数通は投稿しているので、少なくとも2000通は越えている。
定年退職後の一ヶ月後から投稿しているので、
その時の思いが素直に熱く綴っていて、自分ながら微笑ましく思ったりした。
そして綴りの幼さもあり、ときおり赤面したりしている時もある。
私は過ぎ去った日々の綴りを読むと、何よりも自分に優しく、甘くなれるのに驚いたりしている。
このような深情は、日本酒に詳しい研究家の太田和彦さんの言葉をお借りすれば、
人はある年齢になると、新しさより古さを尊ぶようになる。
それは自分が生きてきた人生を肯定したいからだ。
確か総合月刊誌の『文藝春秋』2004年の12月号に於いて、寄稿文の中の一章だった、
と遠い記憶を思い出しながら、微苦笑をしたりしている。
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、 芸能専門養成所のシナリオ科に通ったりした。
そして映画青年の真似事の生活を過ごし、 アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、 映画は益々衰退して、まして脚本家で飯(めし)が喰えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。
まもなく私は文学青年の真似事に転身して、警備員の契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりした。
このような状況の時、 叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。
この時代は高度成長期であったが、大学を中退し、もとより企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学んだりして、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970年(昭和45年)の春であった。
この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。
私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。
入社した直後、現場を学べ、と指示されて、 横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベルが、外資系のレコード会社として独立した会社となり、私も転属された。
やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられ、
勤務地は赤坂にある東急ホテルに隣接したビルであり、まもなく本社が『六本木』に移転したので、
この後の1992年(平成4年)までの20年ばかり、 私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
この間、私は管理畑の商品、情報、経理をしている中、
やがて1992年(平成4年)の5月過ぎに、レコード会社の合併により、本社は渋谷の外れとなったりした。
この後、1998年(平成10年)の当時の私は、営業本部に勤めていたが、
この数年前の頃から、音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999年(平成11年)の初春に、各レコード会社が音楽商品の物流を委託している会社に出向となった。
勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品を、
ソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う物流会社の中のひとつの商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。
こうした中、音楽のCD、DVDなどの商品棚が並ぶフロアは、
東京ドームより広い商品センターで、 連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、 この出向先で5年半ばかり勤め、
2004年(平成16年)の秋に定年退職時を迎えた。
やがて定年退職時になると、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。
このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、 そして定年退職するまで半生期は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、 ときおり敗残者のように感じることも多く、 悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めて、 早や16年生となっている・・。
この間、私は入社してから音楽に知識のない私は、給料を頂くたびに、
自社の一枚、他社の一枚と買い揃えていった・・。
この当時の音楽ソフト商品としては、
レコードが主体で、カー・ステレオなどでステレオ8(エイト)のテープがあり、
少しずつカセット・テープが増えてきた時代であった。
そして平成元年前後、コンバクト・デイスクのCDが主流となり、
私も準拠しCDに移行して、買い求めたりした。
この時、私の自宅にはレコードが1000枚前後、カセット・テープは300本程度となった。
やがて、レコードは知人、友人などに上(あ)げたりしたが、
今の私のレコード専用棚には150枚前後眠っている。
されど私の青年期、若き社会人の時、深く心に影響を受けたレコードであり、
ジャケットを眺めたりした時は、その時代が甦(よみがえ)りのであり、
レコード・プレイヤーを手放しているが、捨てきれないレコードとなっている。
そして2004年の秋に退職後、カセット、CD、DVDの3000枚前後から、
知人、友人などに上(あ)げたりしたが、1000枚前後となっている今、
その時に思いついた曲を聴いたりしているが、
ときおりレコード棚を見るたびに苦笑したりしている。
ここ10数年は、ラジカセCDプレイヤー、テレビに接続しているブルーディスク、
或いは音響の良いパソコンで、音楽を聴いたり、視聴している。
一昨日より音楽作品のレコード、やがてカセット、CD、ビデオ・テープ、DVDを整理する中で、
こうした中で、ぼんやりとレコードのジャケット、CDの表(おもて)のジャケットを眺めたりしていると、
あの当時に買い求めた心情がよみがえり、微苦笑を重ねたりしている。
そして思い出は心の片隅に置いて、忘れてしまったら、それまで・・と断念したりした。
そして残した500枚ぐらいのCDとDVDだけは、
いつの日にか、この世とお別れするまで、心の友と思い深めたりしている。
中途入社できる前は、レコードのLPをクラシックを主体とした10枚前後を所有をしている程度であった。
この中の一枚は、モーツァルトの交響曲第40、41番であり、
文藝評論家の小林秀雄さんの書物で影響を受けて、買い求めたレコードであった。
もう一枚は、チャイコフスキーの交響曲5、6番であった。
ロシアの作曲家の方は、ロシアの大地と繁栄したヨーロッパの諸国をどのような思いで、
自身の創作に表現されたのか、興味があったからであった。
いずれにしても、お金に余裕がない時であったので、
食事を抜いたりして、やっと購入できたレコードであった。
そして入社前の面接時に於いて、
同じサラリーマンの身であったら音響、テレビなどの製造部門でなく、
多少なりに創造世界のあると感じたレコード部門を熱望し、何とか叶(かな)えられたりした。
私は制作部門でなく管理部門であったが、音楽に知識のない私は、給料を頂くたびに、
自社の一枚、他社の一枚と買い揃えていった・・。
まもなく私が配属された部門が外資系の影響で、
レコード会社として独立されて、私も一員として移籍させられた。
この当時の音楽ソフト商品としては、
レコードが主体で、カー・ステレオなどでステレオ8(エイト)のテープがあり、
少しずつカセット・テープが増えてきた時代であった。
そして平成元年前後、コンバクト・デイスクのCDが主流となり、
私も準拠しCDに移行して、買い求めたりした。
この時、私の自宅にはレコードが1000枚前後、カセット・テープは300本程度となった。
やがて、レコードは知人、友人などに上(あ)げたりしたが、
今の私のレコード棚には150枚前後眠っている。
されど私の青年期、若き社会人の時、深く心に影響を受けたレコードであり、
ジャケットを眺めたりした時は、その時代が甦(よみがえ)りのであり、
レコード・プレイヤーを手放しているが、捨てきれないレコードとなっている。
そして2004年の秋に退職後、カセット、CD、DVDの3000枚前後から、
知人、友人などに上(あ)げたりしたが、1000枚前後となっている今、
その時に思いついた曲を聴いたりしているが、
ときおりレコード棚を見るたびに苦笑したりしている。
ここ10数年は、ラジカセCDプレイヤー、テレビに接続しているブルーディスク、
或いは音響の良いパソコンで、音楽を聴いたり、視聴している。
ここ一カ月、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、
やがて政府より「 不要不急の集まり」を避けるよう公言されている。
私は体力の衰えた高齢者の身であるので、散策を日々実行しないと益々衰えるので、
なるべく人出の少ない処を選定して歩いたりしている。
しかしながら駅前のスーパーで買い物をする時は、やむえなくマスクをしているが、
何かしら水戸黄門さまの紋章のようなワッペンの『不要不急』に戸惑ったして、
ここ数週間過ごしている。
今朝、7時過ぎ洗面した後、庭のテラスに下り立ち、襟を正して、北の空に向かい黙祷した・・。
過ぎし2011年(平成23年)3月11日、
東日本大震災で青森県、岩手県、宮城県、福島県、千葉県など太平洋側の各地で、
空前の大災害を受けて、本日は9年となる。
ここ一週間、テレビ、新聞、雑誌などで、改めて死者は1万5899人、行方不明は2529人、
震災関連死は3701人となり、多大なが犠牲となったことを学び、
無力な私は、せめて哀悼の意を表し黙祷を重ねたりした・・。
この後、いつものように平素の我が家の買い物の責務を果たした後は、
自宅の近くに流れている野川の遊歩道を一時間ばかり散策した。
そして帰宅後、終活のひとつのレコードを整理して、やがて処分することにした・・。
今回、この150枚前後のレコードを本日整理している中、
これから再びレコード・プレイヤー、プリメインアンプ、スピーカーを買い求めて、
聴くことはないだろう・・と遅ればせながら決意して、
買取専門会社に売却するこことした。
そして齢を重ねると何かを捨てなければ・・と微苦笑したりしている。
先程、ときおり愛読している公式サイトの【 日経グッディ 】を見ている中、
『 新型コロナウイルスによる肺炎は、これまでと何が違うのか 』
と題された見出しを見たりした。
新型コロナウイルスによる感染症は拡大の一途をたどっている。
このウイルスに感染すると、風邪のような症状だけで済むこともあれば、
肺炎を発症し、命を落とすこともある。
不安は募るばかりだが、こうした状況で一番大切なのは、
この感染症を正しく理解し、正しく恐れること。
特に「肺炎」については、誰もがその名前を知っているが、実態を理解している人は少ない。
【グラフ】年齢とともに変化する免疫力。個人差は大きいものの、一般に免疫力は思春期でピークを迎え、40代で半分に、70代で10%に落ちる。そのため、高齢者は新型コロナウイルス感染症において重症化しやすい。
そもそも肺炎は、どのような病気か、なぜ肺炎で亡くなる人が多いのか。
新型コロナウイルスによる肺炎は、これまでとは何が違うのか。
肺炎を避け、予防するにはどうすればいいのか。
池袋大谷クリニック院長の大谷義夫さんに解説していただく。
●「肺炎」がどんな病気か理解している人は意外と少ない
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が拡大し、収束の糸口が見えない。
折しも今は、風邪やインフルエンザだけでなく、スギ花粉症の流行時期にもあたる。
咳や鼻水、発熱などの症状が出たとき、「新型コロナでは?」と不安に感じる人も多いだろう。
安倍晋三首相は、大規模なイベントを2週間自粛するように呼びかけたことに続き、
3月2日から春休みまで、全国の小中高校と特別支援学校を臨時休校にする、という異例の要請を表明した。
まさに前代未聞の事態を迎えている。
パニックを起こさず冷静に行動するためには、
この感染症について正しく理解することが大切だ。
新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)は、未知の病原体であり、まだまだ分からないことが多い。
だからこそ、誰もが不安を抱えている。
私たちがまず知っておくべきは、「肺炎」という病気についてだ。
新型コロナウイルス感染症において、人の命が奪われるのは「肺炎」が原因。
まず肺炎について正しく理解すること、
それが新型コロナウイルスを「正しく恐れる」第一歩となる。
しかし、肺炎は、誰もが名前を知っている病気だが、
正しく理解している人は、必ずしも多くはないだろう。
具体的にどのような病気で、どんな症状が出るのか、
風邪やインフルエンザとは何が違うのか、どう検査を進めるのか・・・。
即答できないことは少なくない。
そこで今回の特集では、肺炎を含めた呼吸器疾患のエキスパートとして知られる
池袋大谷クリニック院長の大谷義夫さんに解説していただこう。
●ウイルスによる炎症が上気道だけでとどまれば軽症だが・・。
そもそも肺炎とは、その名の通り「肺に炎症が起こった」状態だ。
多くは感染症で、気道から侵入した細菌やウイルスなどの病原体が、肺の中で炎症を引き起こす。
なお、感染が原因ではないアレルギー性の過敏性肺炎もある。
それに対し、風邪は、炎症が起きる場所が違う。
別名「上気道炎」というように、気道のうち、食べ物も通る上側「上気道」(喉頭から上)で、炎症が起きている。
これより奥の、空気しか通らない下部が、「下気道」(気管から肺まで)であり、
体のさまざまな防御システムがあるため、健康な人なら細菌やウイルスの侵入は許さない。
つまり、普通の風邪の場合、ウイルスが侵入したとしても、上気道止まりとなる。
だから、たいていの場合、のどや鼻などの炎症で終わるわけだ。
では、新型コロナウイルスはどうなのだろうか。
「新型コロナウイルスに感染すると、まず風邪のような症状が1週間ほど続きます。
多くの人はそれで回復しますが、中には重い肺炎の症状が出る人もいます。
つまり、上気道にとどまらず下気道にも、ウイルスの侵入を許したというわけです」(大谷さん)
☆なぜ高齢者や持病のある人は重症化しやすいのか?
ここで理解してもらいたいのは、新型コロナウイルスに感染したとしても、
誰もが肺炎になるわけではなく、軽症で済むことが多いということ。
体の防御システムが機能して、下気道への侵入を阻むことができれば、軽症で収まることも多い。
これは中国における患者データの分析の結果からも見えている。
中国の4万4672人の感染者のデータを分析した結果、
新型コロナウイルスの感染が確定した患者の81%は軽症(肺炎ではない患者、または軽症肺炎の患者)で、
重症は14%、重篤は5%となっている。
また、致命率(患者数に対する死亡者数の割合)は2.3%、
死亡者の多くが60歳以上か、心血管疾患や糖尿病など持病のある患者だった。
「軽症で済むかどうかの分かれ道は、
ひとえに、体の防御システムが機能するか、どうかにかかっています。
高齢者や基礎疾患のある方は、免疫力が低下していて、
防御システムがうまく働かず、重症化しやすいのです」(大谷さん)
年齢と免疫力、そして病気の頻度の関係を示したグラフを見てみると、
加齢とともに免疫力が落ちていくのに伴い、病気にかかるリスクが着実に高まっていることが一目瞭然だ。
もちろん個人差はあるが、一般に免疫力は思春期でピークを迎え、
40代で半分に、70代で10%に落ちてしまう。
当然、加齢とともに、肺炎にかかるリスクは着実に上がっていく。
また、咳によって異物を吐き出すのも、防御システムの1つだが、これも加齢とともに衰える。
ウイルスや細菌が、のどの奥まで侵入すると、気道の表面にあるセンサーが異物を察知して脳に伝え、
脳は、即座にのどに対して、異物を吐き出すように指示する。
これが咳だ。
このほか、気道には細かい毛(線毛)が、ビッシリと張り巡らされており、これも異物の侵入を防ぐ。
線毛の毛先は、粘液で覆われており、口の方向になびくように動いているため、
異物をキャッチして、ベルトコンベヤーのように口へと運んでいくのだ。
この絡めとられた異物は、咳をすることで痰として吐き出される。
「このような防御システムがあるため、通常、病原体は上気道で炎症を起こす程度で、
なかなか下気道まで入れません。
ところが、年を取ったり、糖尿病や心疾患などの持病があると、
このようなシステムがうまく働かないことがあるのです」(大谷さん)
☆ウイルス性肺炎はそもそも診断が難しい
新型コロナウイルスによる肺炎は、当たり前だが、「ウイルス性肺炎」だ。
ところが、「健康な人がなる肺炎は、多くの場合、細菌性肺炎です。
細菌性のほうが、ウイルス性に比べると、診断や治療がしやすいのです」と大谷さんは話す。
細菌性とウイルス性では、肺の中で、炎症が起きる場所が異なる。
細菌性肺炎の場合は、肺炎球菌や黄色ブドウ球菌などの細菌が、
気道の末端にある「肺胞」という小さな袋の中で増殖し、炎症を起こす。
高熱が出て、咳とともに、膿ともいえる黄色や緑色の痰がたくさん出てくる。
このように、肺胞の中で炎症が起きる肺炎を、「肺胞性肺炎」という。
一方、ウイルス性肺炎は、今回の新型コロナウイルスのほか、
インフルエンザウイルスや、RSウイルス、麻疹ウイルスなどによって、
肺胞壁やその周辺の「間質」で炎症が起きるもので、悪化すると、肺胞の組織が線維化して硬くなっていく。
このように間質で炎症が起きる肺炎を「間質性肺炎」といい、
ウイルス以外には、カビなどのアレルギーが原因でも起きる。
「細菌が原因の肺胞性肺炎は、レントゲンなどの画像診断で、濃い影が写ります。
これは、肺胞の中に炎症物質が充満しているからで、このような影を『湿潤影』といいます。
一方、ウイルスが原因の間質性肺炎は、薄いすりガラス状の影しか出ず、
軽症の場合はCT(コンピューター断層撮影)でなければ分からないほど、薄い影になることもあります」(大谷さん)
細菌性肺炎では、画像診断で濃い影が出るうえに、黄色や緑色の痰が出るので分かりやすく、
また聴診器をあてると、特徴的な音が聞こえるという。
一方、ウイルス性肺炎は、画像診断ではぼんやりとした影になり、そもそもケースとして数が少ない。
「高齢者は、インフルエンザになったときに、肺炎を併発する率が高いのですが、
その場合でも、ウイルス性ではなく、細菌性であることが多い。
つまり、インフルエンザで免疫力が落ちたときに、肺炎球菌などが原因となって、肺炎が起きるわけです。
一方、ウイルスが原因の肺炎は、数としてはずっと少ないのです」(大谷さん)
細菌性肺炎が疑われる場合、抗菌薬(抗生物質)を投与すれば、症状が良くなることが多い。
複数の菌に対して、効く抗菌薬もある。
一方で、ウイルス性肺炎の場合、その原因となっているウイルスを退治する抗ウイルス薬があればいいのだが、
そもそもインフルエンザウイルスなど一部のウイルスしか治療薬がないのが現実だ。
ご存じのように、新型コロナウイルスもまだ治療薬が作られていない。
☆感染力が高く、治療薬がないことが不安のもとに
ここまで、そもそもウイルス性肺炎が、
細菌性肺炎に比べて、診断や治療が難しいという話をしてきた。
それに加え、新型コロナウイルスが未知のウイルスであるがゆえの難しさもある。
その1つとして、新型コロナウイルスが当初、考えられていたよりも感染力が強いことが挙げられる。
1人の感染者から何人に感染するかを示す「基本再生産数」は、
新型コロナウイルスの場合、WHO(世界保健機関)が暫定的に出した値は、1.4~2.5だが、
ほかの機関はそれよりも大きく見積もっているところが多い。
なお、基本再生産数は、季節性インフルエンザが1.3程度、SARS(重症急性呼吸器症候群)で2~4だ。
「感染力が強いのは、無症状の感染者からも、ウイルスが排出されていることと関係しているかもしれません。
また、ウイルスの生存期間が、比較的長いことを示唆する報告もあります」(大谷さん)
そして、新型コロナウイルスには、インフルエンザウイルスにあるような治療薬や
ワクチンはまだない(治療は基本的に対処療法のみ)。
また、連日報道されているように、検査体制が整っておらず、簡易検査キットもまだできていない。
これが多くの人を不安にさせている大きな要因になっている。
だが、検査や治療薬については、明るい話題もある。
ウイルスを特定するための「PCR検査」が、これまでは1日に限られた件数しかできず、
医師が保健所に要請しても、断られるケースがあったが、
今後、保険適用されることになり、この問題は解消される可能性が出てきたのだ。
また、治療薬については、新しい薬を開発するのには1年以上の時間がかかるものの、
一方で「既存の薬を適応外使用することが検討されています。
新型コロナウイルス感染症にも効果が出る可能性があります」と大谷さん。
WHO(世界保健機関)では、ロピナビルやリトナビルといった抗HIV薬や、
抗ウイルス薬のレムデシビルの試験を始めており、3月半ばには結果が出るとしている。
日本でも、新型インフルエンザ薬「アビガン」(一般名ファビピラビル)などの試験を始めた。
これらが新型コロナウイルス感染症の治療薬として使えるようになるかもしれないのだ。
●予防の基本は「手洗い」 30秒以上かけて
現時点で私たちができる予防策をまとめておこう。
新型コロナウイルスの感染ルートは、主に2つとされている。
「飛沫感染」と「接触感染」だ。
飛沫感染感染している人のくしゃみ・咳によって、空気中にウイルスなどの病原体が「飛沫」として排出され、
それを吸い込むことによって起こる感染。
だいたい1~2メートルの距離で感染する。
接触感染感染ウイルスが含まれた鼻汁、唾液などに直接触れることで、
手にウイルスがつき、その手で口や鼻を触ることで感染する。
これらへの対策は、従来のインフルエンザと同じで、「徹底した手洗い」が最も重要になる。
外出先から戻ったとき、トイレに行った後、食事の前などには、必ず石けんで手を洗うようにしよう。
軽く水で流す程度の手洗いはNG。
石鹸を使って30秒以上かけて、しっかり洗うことが大切だ。
ノロウイルスと違って、新型コロナはアルコールでも、消毒できるので活用したい。
☆マスクは間接的な効果が期待できる
マスクでは、新型コロナウイルスの感染を防げないといわれているが、間接的な予防効果はある。
「マスクをしていると、喉の乾燥が防げます。
喉が乾燥すると、気道の防御システムの力が弱まるので、喉の乾燥を防ぐことには意味があります。
また、マスクできちんと鼻や口を覆えば、
不必要に指などで鼻や口に触れてしまうことを避けられるので、結果的に接触感染の予防にもなります」(大谷さん)
ただし、マスクは、正しい使い方を守らなければ意味がない。
例えば、サイズが大きいものを使っていると、隙間ができてウイルスの侵入を許してしまう。
また、つけ外しするときは、ゴム紐の部分を持って行う。
特に外すときにフィルター部分を触ってしまうと、指にウイルスがつく可能性があるので注意だ。
もちろん、自分に感染症の疑いがあるときも、マスクを着用しよう。
感染が広まるのを防ぐには、そもそも人が集まる場所に行かないこと。
風邪のような症状があれば、感染を広げないために外出を控え、できれば仕事も休んでほしい。
これからの季節は、スギ花粉症が本格化するのも問題だろう。
「新型コロナウイルスは、鼻の中にもいるので、くしゃみで飛沫感染が増えてしまいます。
また、花粉症の人は。気になって鼻などを指でつい触ってしまいます。
すると、接触感染が増えやすくなるので注意が必要です」(大谷さん)。
花粉症に悩まされている人は、今年は必ず薬をのんで症状を抑えるようにしたい。
また、新型コロナウイルスは、飛沫よりも粒子が小さい「エアロゾル」による感染も
取りざたされている(参考記事「新型コロナウイルスで可能性が指摘された「エアロゾル感染」とは?」)。
「エアロゾル感染の可能性があるのなら、部屋の換気も大切になります。
空気清浄機を使うのもいいでしょう。
0.1マイクロメートル(0.0001mm)の粒子でも、吸着する空気清浄機であれば、
インフルエンザやコロナウイルスでも吸着できます」と大谷さんはアドバイスする。
肺炎は、新型コロナウイルスに関わらず、日本人にとってとても身近な怖い病気だ。
現在、日本では年間で13万人を超える人が肺炎で亡くなっている
(誤嚥性肺炎を含む。厚生労働省の平成29年「人口動態調査」より)。
新型コロナウイルスによる肺炎を正しく恐れることができるならば、将来の肺炎対策につながるはずだ。
(図版制作:増田真一、イラスト:堀江篤史) ・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
先程、ときおり愛読している公式サイトの【介護ポストセプン】を見ていたら、
『 黒柳徹子 話題のインスタ「衝撃写真」と 攻める終活の理由 』、
と題された見出しを見たりした。
黒柳徹子・・攻める終活の理由この記事の原文は、『女性セブン』の2018年11月22日号に掲載された記事のひとつで、
関連の公式サイトの【 介護ポストセブン 】に2018年11月13日に配信され、
少し古い記事であるが、『終活』は時空を超える難題でもあり、多くの御方と共有致したく、
無断であるが記事の大半を転載させて頂く。
《・・今から65年前。
日本でテレビが誕生したその時から、テレビタレントとして第一線で活躍してきた黒柳徹子。
戦後最大の800万部のベストセラーとなった『窓際のトットちゃん』でも知られるが、
彼女自身多くの明言を残している。
その黒柳が人生の壁に当たった時に、繰り返し思い出す言葉があるという。
85歳を迎えた黒柳が明かした胸を打つ言葉とは――。
☆インスタグラムにアップした衝撃の写真
ピンク色の髪に青いモヒカン、目にはブルーのアイシャドー。
頬には、カラフルな涙がつたい、赤いコウモリが羽を広げる。
「Happy」「Halloween」の文字をデザインした両手の甲を見せて、決めポーズ──。
黒柳徹子(85歳)が10月30日、自らのインスタグラムにアップした衝撃の写真。
85歳にして100円ショップでシールを買い、見事に仮装してみせた。
「黒柳さんのインスタは、約2年前に開設して以降、フォロワーは100万人超え。
投稿の中でも注目されるのは、H&Mなどのファストファッションをたびたび披露してきたこと。
いわゆるブランドもので着飾るのではなく、安くてセンスのいいものを取り入れていて、
若い人たちの間でも、ものすごい人気なんです」(ファッション誌記者)
☆意識している最期の時
いつまでも若々しく、好きなことを楽しむ姿を見せている黒柳。
しかし、その一方では、いつかは誰にでも訪れる、「最期の時」も意識しているという。
「2016年7月の大橋巨泉さん、2017年6月の野際陽子さんなど、
次々に親しい人の訃報が届くことに、ものすごく寂しさを感じているそうです。
そのため、自分なりの『終活』をしているそうです。
それも彼女らしい方法で」(黒柳の知人)
冒頭の写真をインスタでアップした5日後の11月4日、
黒柳は昔の写真とともに、こんなコメントをアップした。
《草原の輝き 花々が咲き乱れて素晴らしい光景、
もうそれらを見ることができなくなっても、あなたは嘆くことはないのです。
すでに、あなたは、人生の奥深くを分かって、前に進んでいるのだから》
その言葉は、1961年公開のアメリカの青春映画『草原の輝き』に出てくる、
イギリスの代表的なロマン派詩人であるウィリアム・ワーズワースの詩の一節だ。
『草原の輝き』は、世界恐慌になる前のアメリカを舞台にした男女の恋愛物語で、
その恋模様が悲劇的に切なく描かれている。
ウォーレン・ベイティの出世作となり、ナタリー・ウッドはこの作品でスターの座を確たるものにし、
アカデミー賞では脚本賞にも輝いた名作だ。
タイトルはワーズワースの詩からとられ、劇中ではその詩が朗読されるシーンがある。
「この頃、黒柳さんはまだ20代。
何度も映画館に行っては、字幕を見て、詩の言葉を必死に書き写したそうです。
年齢を重ねたからか、友人や知人が亡くなることが多く、
寂しさや心細さを感じた時には、この言葉を思い出すことで生きる勇気をもらっているとか。
黒柳さんは、“自分もいつそうなるかわからない”と思い、
自分を支えてきてくれたこの言葉を、多くの人に伝えたかったのだそうです」(前出・知人)
インスタには、その胸打つ言葉にフォロワーから《前向きになる一篇です》、
《恩人を亡くした後なので、慰められました》といった共感のコメントが書き込まれた。
過去のものから現在の姿まで、インスタを通じて自分を晒し続ける黒柳。
「それが黒柳さん流の『終活』なんでしょう。
樹木希林さんが持ち物を減らしていったように、
多くの人の場合、終活といえば『断捨離』することであり、身の回りを整理していく。
でも、黒柳さんは、“私は捨てない”という考えを持っているそうで、
自分の歩んできた人生を紹介し、その経験を伝えることで終活しているのだと思います。
その“攻める終活”に、共感を得ている人は少なくない」(芸能関係者)
☆クマのぬいぐるみを抱えた幼い頃の写真もインスタにアップ
『草原の輝き』の詩以外にも、写真とともに自らが経験したことをインスタにあげている。
昨年10月には、クマのぬいぐるみを抱えた10代前半の写真をアップ。
幼い頃の写真で、今の黒柳の面影はほとんどない。
写真のコメント欄には、戦争の疎開のため、そのぬいぐるみを家に置いて出て行ったと書いている。
「思い出したくもない暗い時代のことでも、あえてインスタにあげることで、
客観的に自分の歴史を振り返れて、しかも、不特定多数の人の記憶の中にとどめることができます。
また、戦争の経験を、それを知らない世代に引き継ぐこともできる。
“自分が生きた証”を残すということは、幸せなことです。
私も黒柳さんのように“仕舞いたい”と思うようになりました」(60代女性ファン)
終活カウンセラーの武藤頼胡さんが解説する。
「終活として断捨離を行うことは、遺品整理といった家族への負担を減らすことができます。
でも、大切なものを捨てることがつらい人もいて、無理に断捨離しようとすると
残された時間がつらく虚しいものになってしまいかねません。
黒柳さんのように、自分の人生を見せることで、多くの人に教訓を伝え、
それが自分自身にとっても、ひと区切りつけることにつながる。
黒柳さんは、また別の終活のあり方を示してくれたのだと思います」
☆前向きな生き様をみせる「終活」
もちろん、終活といっても「過去の自分」一辺倒ではない。
冒頭のハロウィンのインスタのように、黒柳は私生活でも仕事でも前向きだ。
「『徹子の部屋』(テレビ朝日系)は、毎週月曜日に3本、火曜日に4本収録しているそうです。
レギュラー以外でも、今年9月には舞台『ライオンのあとで』に約1か月にわたって主演するなど、
現役バリバリです」(テレビ局関係者)
最近では、10月31日放送の『徹子の部屋』で、ゲストの女優・奈良岡朋子(88歳)と車の運転談義になり、
「私はしていません、もう。この間の免許証の書き換えの時にやめました」と、
運転免許証を更新しなかったことを打ち明けた。
「これも、高齢ドライバーによる事故に対する問題喚起の一面があるのでは、ないでしょうか」(前出・テレビ局関係者)
黒柳の生き様は、多くの人の心を打っている。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
今回、黒柳徹子さんの前向きな『終活』を学び、無力な年金生活の75歳の男性の私でも、
多々教示されたりした・・。
特に《・・黒柳さんは、“私は捨てない”という考えを持っているそうで、
自分の歩んできた人生を紹介し、その経験を伝えることで終活しているのだと思います。
その“攻める終活”に、共感を得ている人は少なくない・・》
そして終活カウンセラーの武藤頼胡さんが解説する。
《・・終活として断捨離を行うことは、遺品整理といった家族への負担を減らすことができます。
でも、大切なものを捨てることがつらい人もいて、無理に断捨離しようとすると
残された時間がつらく虚しいものになってしまいかねません。
黒柳さんのように、自分の人生を見せることで、多くの人に教訓を伝え、
それが自分自身にとっても、ひと区切りつけることにつながる。
黒柳さんは、また別の終活のあり方を示してくれたのだと思います・・》
私も『終活』に於いて大胆に整理してしまうと、
これまで歩んできた記憶のかたみが断片させられるようで、
ためらいながら、やはり手元に残しておく・・ことを体験したりしてきた。
私は殆ど毎日のように自宅の3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を散策している。
こうした中、ときおりイギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、
湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何10キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をしているかしら、と微笑んだりする時もある。
私は無念ながらイギリスの湖水地方には訪れたことはないが、
確か20年前の頃、 NHKのBSに於いて、湖水地方について連続番組を視聴し、
少しだけ情景は学んだりした。
そして肝要のイギリスを代表するワーズワースには、
何かと海外文学に苦手な私は、 詩にも素養がなく、恥ずかしながら無知なひとりである。
過ぎし確か2016年12月30日に於いて、投稿しているが、
私がワーズワースには、たったひとつ記憶しているは、私が高校2年生の下校時、
映画館に立ち寄って観た作品からであった。
エリア・カザン監督の『草原の輝き』(1961年)で、
ナタリー・ウッドが扮する高校女学生が、 教室で詩を朗読するシーンであった。
草原の輝き 花の栄光
再びそれは還(かえ)らずとも
なげくなかれ
その奥に秘めたる 力を見出すべし
私はストリーに涙ぐみ、そしてこの詩には瞬時に魅せられ、そして二回目を見て、
字幕スーパーを薄暗い座席でノ-トに書き留めて、
詩を創られた御方が、ワーズワースと知ったのが、私は17歳の時であった。
私は後年になると、ワーズワースも波乱に満ちた人生航路を歩んだと学んだが、
もとより詩に託した才能で、後世にも多くの方に敬愛されている人である。
そして私は《・・ワーズワースは、生まれ育った地で、生涯にわたってこの地を散策し続けた・・》に、
つたない私でも、瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始めたのであった・・。
このような私の深い思いを秘めたりしている。
今回、黒柳徹子さんが、まだ20代の頃、
《・・何度も映画館に行っては、字幕を見て、詩の言葉を必死に書き写したそうです。・・》、
と私は読みながら、黒柳徹子さんも同じように感銘して、転記されていたんだ、
と私は微笑みを重ねたりした・・。
先程、ときおり愛読している公式サイトの【 マネーの達人 】を見ていたら、
『 新型コロナで日本はどう変わるか
100年に一度起こるバンデミック(流行病)からみる経済 』
と題された見出しを見たりした。
今回、この記事は経済ジャーナリストの荻原 博子さんの寄稿文と知り、
私は微笑んだりした。
私は民間会社に35年近く奮戦してきたが、定年退職を迎えたのは2004年の秋であったが、
最後の5年はリストラ烈風の中、私は出向となったのは55歳の時であった。
やがて定年退職時になると、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまい、
やむなく年金生活を始めた身である。
この出向の間、経済にも疎(うと)い私が、経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの
数多く著名人の寄稿文を読んだりした。
そしてデフレ経済の蔓延している中、定年時に持家(マンションか戸建て)のローンは返済完了となり、
預貯金が3000万円あれば、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
少しづつ取り崩して生活すれば、少しばかりゆとりのある年金生活ができるかしら、と学んだりした。
これ以来、私は経済ジャーナリストの荻原博子さんの書物を購読して、多々教示されて、
何かと信愛を深めている。
今回《・・新型コロナで日本は・・経済はどう変わるか・・》、無力な年金生活の私でも学びたく、
記事を精読してしまった。
この記事は、公式サイトの【 マネーの達人 】に3月4日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。
《・・新型コロナウイルスが、世界的に猛威を振るっています。
私は病気の専門家ではないので、新型コロナウイルスにどう対処するのかは、
その道の専門家の方に解説していただくとして、
今回の新型コロナウイルスが、社会にどんな影響を与えることになりそうかということを考えてみましょう。
今の時点では新型コロナウイルスが、バンデミック(広範囲に及ぶ流行病)になるかどうかはわかりませんが、
仮にこうした状況になるとすれば、直近の経済には大打撃を及ぼします。
特に、資本力がなく自転車操業で運営している旅館業や旅行業などは、
3か月客が来ないと倒産する、と言われています。
消費税引き上げのダメージで、昨年の10~12月のGDPは、年率でマイナス6.3%でした。
けれど、ここには新型コロナウイルスの影響は織り込まれていませんから、
今年1~3月の新型コロナウイルスの被害が織り込まれたGDPが出ると、
目も当てられない数字になることが予想されます。
これに対して、政府も、日本政策金融公庫などを介して、低利融資をしていますが、
資本力が弱い中小零細企業にとっては、収束まで厳しい状況は、倒産と背中合わせになりそうです。
☆100年に1度の「パンデミック」は社会を変えている
今の新型コロナウイルスがパンデミック(広範囲に及ぶ流行病)になると、社会の様相も変わってくることが予想されます。
実は、世界的なパンデミックは、ほぼ100年に1度起きています。
■1918年「スペイン風邪」の大流行
今から100年前は「スペイン風邪」が大流行しました。
1918年から19年にかけて流行し、当時の世界の人口約16億人のうち、5億人が感染したと言われています。
人類の3分の1がこの病に感染し、世界で約5000万人から1億人が死亡しています。
「スペイン風邪」は、致死率10~20%にもなり、日本でもこの感染症で39万人が死亡しています。
当時ヨーロッパは、第一次世界大戦の真っただ中だったのですが、
「スペイン風邪」流行したことで、戦争が早期に終結したと言われています。
■1820年「コレラ」の大流行
その約100年前の1820年には、コレラが大流行しました。
19世紀は産業革命で、都市に多くの人が集まりましたが、労働者は劣悪な環境で働かされたために、
コレラがまん延しました。
結果、衛生環境や労働環境に目が向けられ、公衆衛生という考え方が生まれました。
■1720年「ペスト」の大流行
その約100年前の1720年には、フランスでペストが大流行しました。
ペストは黒死病とも呼ばれ、それ以前も度々流行していました。
しかしこの時期に多くの労働者が死んだため、ヨーロッパでは領主などが力を持つ荘園制が崩壊し、
国王の中央集権が進み、集権化による防疫体制が整備されました。
ヨーロッパは、それ以前も何度かペストが大流行していますが、
防疫体制が整備されて以降は、ほとんどペストのパンデミックは起きていません。
今回の「新型コロナウイルス」は、何を残すのでしょうか。
私は、「情報型・非接触型の社会」が、大きく進むのではないかと思います。
すでに、インターネットやスマホで、「情報型・非接触型の社会」は出現していますが、
これがさらに速度を速めることでしょう。
1か所に集まらなくても、3Dホログラムで遠隔地から会議に出席できるようになるでしょう。
また、わざわざ会社に行かなくても、同僚とスムーズに仕事ができる社会が、
あたりまえになってくることでしょう。
すでに、実証実験が始まっていますが、宅配は、ドローンでの無人配達が標準的になるでしょう。
また、診療も、スマホを使って目視とデータ通信で行うという社会がやってくることでしょう。
こうした方向は、新型コロナウイルスのパンデミックがなくても、早晩やってくる社会です。
それが、一気に早まる可能性があるということです。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
今回、経済ジャーナリストの荻原 博子さんの寄稿文に導かれて、多々教示されたりした。
もとより《・・100年に一度起こるバンデミック(流行病)・・》には、遭遇すれば、
震撼させられる程に動顛はするが、私は回避できると願っている。
今後の日本は、「情報型・非接触型社会」への進展が進む、と教示され、私は微苦笑したりした。
私は恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えない拙(つたな)い身である。
その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら、有線の据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。
このように無線のモバイル情報機器に、遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
このような拙(つたな)い身であるので、「情報型・非接触型社会」への進展が加速されれば、
情報格差で取り残された情報迷子になるかしら、と微苦笑したりした。
しかしながら齢を重ねれば、少しボケるので、
やむなくスマホを購入して、首からネクタイのようにぶら下げて、
外出の時に、迷子にならないように、お守り代わりにしょうかしら、と苦笑したりとしている。
先程、ときおり愛読している公式サイトの【文春オンライン】を見ていたら。
『 新型コロナ 「自分の家族に兆候が出たら・・」
医師21人が打ち明けた具体的な対策とは? 』、
題された見出しを見たりした。
感染の有無を調べる検査を受けるための手順が複雑なことは、メディアでもたびたび紹介されているが、
そもそも医療機関が受診を断るケースも散見されており、
もし自分や家族に感染の兆候が出たら――と考えると、途方に暮れてしまう。
こうした不安の元には、“新型コロナ”という歴史上初めて接する未知のウイルスに対して
人類が持つ情報が限られている――という現実がある。
しかし、それでも医師は、少なくとも私たちよりは、その限られた情報から、
有益な行動を選べるのではないだろうか。
そう考えた編集部では、21人の医師に
「もし自分や家族に感染の兆候があったらどうするか?」
という緊急アンケートを実施した。
今回はその「初動篇」。
最初の質問は、自分や家族に感染の兆候があった場合の「受診するタイミング」について尋ねた。
「医療機関を受診」、もしくは「保健所や相談センターに連絡」をするタイミングとして、
一番多かったのは「37.5度以上の発熱が、4日続いた時点」で7人だ。
「5日経過後」が2人、他に「呼吸困難に陥ったら」が1名いた。
つまり、この項目に回答した18人のうち10人は、明確な時間的基準を持っていた。
さらに、「兆候があれば、すぐに病院に行く。自宅療養はしない」
(A医師=50代男性、消化器内科)と回答した1人を除いて、
それ以外の17人は、「自宅待機」を基本としている。
最も代表的な回答は、行った先の病院での感染リスクにも言及した下記のコメントだろう。
「病院は、最もリスクの高い場所なので、4日間は自宅で対症療法をする。
その上で酸素飽和度の低下や呼吸困難があれば、保健所に相談する」(B医師=50代男性、消化器内科)
そのほかには次のような回答があった。
「発熱がある場合は、出勤しないように指示が出ているので、自宅療養。
4日以上症状が続いて、呼吸苦などが出た場合は、自院の感染対策室の指示を仰ぐ」(C医師=50代男性、泌尿器科)
「自宅内で、家族と分かれて簡単な隔離。
開業医なので、自分でインフルエンザの迅速検査だけは、しておく。
4日経過して新型コロナウイルス感染の疑いが濃厚なら、保健所に相談」(D医師=50代男性、漢方内科)
「家族に感染の兆候があるなら、フローチャートに従うが、
医師である自分に兆候がある場合、自分の患者への感染だけは絶対に防ぐ必要があるので、
病院長に相談して、その指示に従う」(I医師=50代男性、整形外科)
☆受診するならどこに行くのか?
ここでいう「フローチャート」とは、
厚労省が示した「新型コロナウイルス感染症についての相談・受診の目安」を指す。
かぜの症状や37.5度以上の発熱、強いだるさや息苦しさがある人は4日以上、
ただし高齢者や糖尿病、心不全、呼吸器疾患などの基礎疾患がある人などは、
同じ症状でも2日以上の症状継続で「帰国者・接触者相談センター」に連絡し、
同センターが勧める医療機関を受診する――という流れが定められている。
大部分の現場の医師たちは、この厚生労働省が示している受診の基準には納得し、従う意思があることが窺える。
もちろん、積極的な自宅療養派がいる一方、「仕方なく・・」という意見もある。
「それが正しいかどうかは別として、厚労省の指示に従うしかない。
いきなり医療機関を受診するのは、混乱や二次感染の元になるので」(E医師=40代女性、泌尿器科)
「医療機関を直接受診しても、同じ指示をされると思うので」(F医師=60代男性、心療内科)
では、受診するとしたら、どこに行くのか。
勤務医は、やはり自身が勤務する病院を受診する、という回答が目立つ一方、
開業医の場合はそうはいかない。
「自分が開業医なので、自分で保健所に連絡して、検査を要請する」(J医師=40代女性、循環器内科)
「相談窓口に連絡し、行くべき病院の指示を仰ぐ」(K医師=60代男性、感染症・膠原病内科)
むやみに病院に行くのではなく、行政の指示に従うという意見が多かった。
次に、「自宅療養する場合、家の中でどう過ごす?」という質問をした。
19の有効回答のうち、7人が「感染が疑われる家族を隔離する」と答えた。
「自分の感染の疑いがある時は、普段は物置代わりに使っている部屋にこもる」(L医師=40代女性、耳鼻咽喉科)
「居室を別にし、動線を明確にする。触れたものの消毒を徹底」(K医師=60代男性、感染症・膠原病内科)
「自分に感染の疑いがあるなら、ホテルに泊まって部屋から出ない」(H医師=50代男性、消化器内科)
「自室があれば、可能な限りそこで過ごす。
2階建てで各階にトイレがあるなら、感染者用と非感染者用で分ける」(E医師=40代女性、泌尿器科)
とはいえ、「自宅でレッドゾーン(危険な場所)と
グリーンゾーン(安全な場所)を作るのはまず不可能」(O医師=50代男性、眼科)、
「一般の家庭でゾーニングは不可能。感染はやむを得ない」(C医師=50代男性=泌尿器科)など、
「家族間での感染は、避けられない」との前提に立った意見も目立つ。
「単なるインフルエンザかもしれないのに、ホテルなどに行くと、
そこで感染する危険性もあるので、自宅で過ごしているほうがいい」(O医師=50代男性、眼科)
という意見がある一方で、
「インフルエンザに較べれば、新型コロナは恐くないと思っているので、
職場には行かないが、自宅で普通に過ごす。食事も一緒で」(Q医師=50代男性、脳神経外科)
「免疫を高めるために、自室にこもって筋トレをする」(R医師=40代男性、脳神経外科)という声もある。
では、食事はどのような気遣いが必要なのか。
これは医師の中でも判断が分かれたが、「できるだけ食事は、別で取りたい」という意見が多かった。
「『直箸をしない』というだけで、食事は一緒で構わない。
食事をするタイミングはずらす」(H医師=50代男性、消化器内科)
「部屋は一緒でも、食事だけは別で取りたい。
ウイルスの経口感染が一番ハイリスクなのは、食事だと思います」(G医師=40代女性、整形外科)
「食事は、別にした方がよい。
使い捨ての割りばしなどを活用する」(K医師=60代男性、感染症・膠原病内科)
「食事は、真空パックや冷凍食品などを活用し、ディスポーザブルの食器を使用する。
共用の物品は使わない」(E医師=40代女性、泌尿器科)
「食事は一緒にするが、
咳が出るようなら、感染の疑いがある者は、別室で食べる」(T医師=50代男性、小児科)
感染が疑われる状況から無事に脱したとして、いつから職場や学校に戻るべきなのか。
その基準についても訊ねた。
「症状がなくなったら、すぐに職場復帰する」と答えた医師は4人。
「症状消失から1~2日様子を見て仕事に戻る」が4人。
「1週間程度は自宅で療養」が2人。
その他、以下のような回答があった。
「14日間は自宅療養。院内感染の元凶になるわけにはいかない」(G医師=40代女性、整形外科)
「復帰の基準がないので困る。“コロナ陰性”の証明が欲しい」(B医師=50代男性、消化器内科)
医師も職場復帰のタイミングには、迷いがあることが垣間見える。
☆単身なら「自宅に籠もる」
今回、回答を寄せてくれた医師の大半が家庭を持っているが、
あえて「もしあなたが単身者だったら?」という質問をしてみたところ、
18の有効回答のうち17人が、「自宅から出ない」と答えた。
「震災の経験から、つねに水などの準備はしているので、それで凌ぐ。
『怪しい』と感じたら、完全に身動きが取れなくなる前に、
完全防備で近所のコンビニへ行き、可能な限りの備えをしておく」(O医師=50代男性、眼科)
「食料や生活用品は、ネットで購入し、置き配にする」(B医師=50代男性、消化器内科)
「外出しなくても、生活できるよう必要なものを、
知り合いに持って来てもらい、ドアの外に置いて帰ってもらう」(T医師=50代男性、小児科)
その上でいよいよ進退窮まった時は――。
「保健所に相談し、救急車要請のタイミングなどを確認しておく。
その上でSNSなどを通じて、友人や知り合いに状況だけは発信しておく」(S医師=40代男性、緩和ケア科)
「呼吸苦などの重症化症状が出たときは、救急車を要請」(C医師=50代男性、泌尿器科)
さすがは医療者だけあって、救急要請のハードルがきわめて高い。
医師である彼らが最も恐れるのは、「自分が感染源となって、ウイルスを拡散すること」なのだ。
医師たちも、一つ一つ迷いながら対応している新型コロナウイルスだが、必要以上に恐れるのではなく、
淡々と、あるいは粛々と、その状況に応じた対応していく冷静さが必要なのだろう。
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
昨夜、パソコンを立ち上げて【 ヤフー 】に掲載されている記事の中で、
『 年間180冊読んでいた芦田愛菜 本棚にある気になる5冊 』
と題された見出しを見たりした。
そして小さな写真も掲載されていて、過ぎし日に家内と共に夕食の時、
たまたま視聴していたテレビに出演されていた若き女性だ、と私は気付いたりした。
私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。
読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。
そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしたりした。
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。
この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、小説の習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、こうしたことを三回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970年(昭和45年)の春であった。
この間、何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年(昭和45年)の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。
まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
こうした中、出向先は遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
この間、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活の中では、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、浅田次郎の
各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。
やがて2004年(平成16年)秋に定年退職後の年金生活の中で、
単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野眞一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。
雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は50年ばかり購読し、
毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読してきた。
或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読してきて、
季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読してきた。
このような拙(つたな)い身であるが、75歳になれば体力は衰え、気力も欠けることもあるが、
やはり読書だけは・・何かと優先する年金生活をしている。
こうした深情を秘めている私は、最近の若い女学生はどのような本を読んでいるのかしら、
好奇心に負けて、記事を精読してしまった。
この記事の原文は、『女性セブン』の2019年8月1日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の公式サイトの【 女性セブン 】2019年7月19日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。
《・・女優としては“天才子役”として名をとどろかせ、学業では偏差値70超えの超難関中学校に進学。
そんな芦田愛菜ちゃん(15歳)の支えとなったのが、たくさんの本との出会いだった。
愛菜ちゃんの愛する「本棚」の一部を初めて公開する。
《とにかく文字を読むことが好きなんです!
本や読むものが手元にない時は、たまたま置いてあった調味料のビンの裏に書いてある「原材料」、
「製造元」なんて文章を読んでいるくらいです(笑い)》
そう“活字中毒”ぶりを明かしたのは、芦田愛菜ちゃん。
愛菜ちゃんが自身の「本好き」、「活字好き」について赤裸々に明かした著書『まなの本棚』(小学館刊)が、
7月18日に発売された。
「愛菜ちゃんがデビューしたのは6歳。
ドラマ『Mother』(日本テレビ系)で虐待される少女役を熱演し、“天才子役”の名を欲しいままにしましたが、
その頃から楽屋でも、移動中の新幹線でも、ずっと本を読んでいたのは有名な話です。
それから7年が経った2017年には女優として多忙な中、
偏差値70超えの超難関名門私立中学校に合格しました。
愛菜ちゃんは、小学生の時は年間180冊の本をリアルに読んでいた。
これまでどんな本を読んできたのかは、ほとんど明かされてきませんでしたが、
今回は絵本から海外作品までお気に入りの本が紹介されるということで、
世間の母親世代から大注目を集めていますよ」(芸能関係者)
愛菜ちゃんの“天才脳”をつくったのは、まぎれもなく「読書」といわれている。
「愛菜ちゃんにとって読書の魅力は、“自分とは違う誰かの人生や心の中を知ること”だそうで、
そんな『疑似体験』ができるのは、お芝居と読書との共通点だそうです。
また、自分の想像力で物語の世界に入り込めることも、読書にしかない魅力の1つで、
“ページをめくるたびに広がる世界に、どんどん吸い込まれていく”と熱く語っていました」(前出・芸能関係者)
愛菜ちゃんにとって、読書はもはや日常の一部。
著書によれば、歯を磨きながら本を読んでいたら内容に夢中になってしまい、
20分も磨き続けていたということもあったという。
電子書籍が普及した近年では、スマホやタブレットで読書を楽しむ人も多いだろう。
しかし、愛菜ちゃんは、「モノ」そのものとしての本が好きだそうで
《ハードカバーの新品の本は、最初に表紙を開くと、
製本でとじているノリがはがれて、パキパキッと音がするのですが、これが、もうたまりません!》
というのだから、筋金入りだ。
◆愛菜ちゃんがハマった女流小説家
著書では、愛菜ちゃんが大切に思う「本棚」から100冊を厳選し、本への愛情を語り尽くしている。
その中から、気になる5冊を紹介しよう。
まず、彼女の好奇心を広げるきっかけになったのが、『花火の図鑑』(写真・文/泉谷玄作)。
花火の仕組みや花火玉の中身を解説した本だ。
愛菜ちゃんは、花火に限らずさまざまな生物や道具に対して
“この中はどうなっているんだろう?”と気になることが多く、
ボールペンの中が気になって分解したこともあるという。
花火のように自分で中をのぞくことができないものは、図鑑を開いて解決というわけだ。
本書では、花火玉の中の断面図が載っており、
花火を美しく見せるために職人がどのような工夫を凝らしているのかが強く感じられたそうだ。
また、『学習まんが ドラえもん からだシリーズ』(キャラクター原作/藤子・F・不二雄)は、
体の仕組みに興味を持つきっかけとなった。
ドラえもんが、のび太たちと体の中のさまざまな場所を巡っていくという設定で、
消化の仕組みや骨や筋肉の働きなどの身体機能が、まんが仕立てで理解できるようになっている。
本書を読んで自分の体で何が起きているのかを知り、
驚きと不思議さでいっぱいになったという愛菜ちゃん。
体への興味はどんどん深まり、小学3年生の頃には、誕生日プレゼントに人体模型をおねだりしたのだとか。
今でもその興味は尽きず、著書でも《「唾液っていい仕事してるな」って思うんです(笑い)。
酸っぱい物を食べたら自然と唾液が出て口の中を中和するとか、
普段は気にしていないけど、実は重要な役目をしているんですよ!》と語っているほどだ。
考え方やものの見方が広がった本として紹介しているのは、『よろこびの歌』(著/宮下奈都)。
主人公は、音大附属の高校の受験に失敗し、普通科の高校に進んだ女子高生。
毎日どこか楽しめずにいた彼女が、合唱コンクールの指揮者を任されたことから日常が変わっていく。
本書は、6人の登場人物の視点から描かれた7つの短編で構成されており、
《いろんな角度から、一つのできごとを見ることができて、物語をよりいっそう深く読み込めるのが楽しい》
と愛菜ちゃんは綴っている。
彼女は、本書をきっかけに身の回りのことに対しても
「実はこういうことなのかもしれない」
と別の受け止め方ができるようになったことを明かした。
◆外見だけに惑わされないように…
お気に入りの海外文学についても触れられている。
その1つが、カフカの名作『変身』だ。
ある日、大きな「毒虫」に変身した男の人生を描いた作品で、
最初は心配していた家族も、次第に男を邪険に扱う様子が描かれる。
愛菜ちゃんは、
「形や外見が変わったら、それまでのように大切に思えなくなるのだろうか」
とショックを受けたそう。
《この物語は、「人を形で判断していませんか? ちゃんと相手の中身まで見ていますか?」
という警鐘のように思えます》と綴り、
外見だけに惑わされず正しい判断ができるようになりたいという教訓を得たという。
一度読み始めたら止まらない本の一冊として挙げているのが『ツナグ』(著/辻村深月)だ。
登場人物が、使者「ツナグ」を通じて死んだ人と一夜だけ再会し、
生前に伝えられなかった思いを伝えるというストーリーで、5つの短編から構成される。
なかでも愛菜ちゃんが感情移入したというのが、
亡くなった親友と再会した女子高生の物語。
女子高生と親友双方の気持ちを考えてとても切なくなり
《時間は巻き戻せないからこそ、後悔しないために、毎日、前向きな気持ちを失わないでいたい》
と感じたのだそうだ。
この本をきっかけに、辻村作品にハマったそうで、著書では辻村さんとの対談も収められている。
ほかにも、不朽の名作からちょっとマニアックなものまでが幅広く取り上げられ、
愛菜ちゃん流の読書術も紹介される。
彼女と同年代の子供たちはもちろん、大人にとっても本の新たな魅力を教えてくれる一冊が見つかりそうだ。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
今回、遅ればせながら芦田愛菜さん(15歳)の読書に関しての熱き思いを学び、
75歳の私は、圧倒的に魅了されて、好感させられた・・。
私は都心の郊外の調布市に雑木が多い小庭の中で、古惚けた戸建に住んでいる。
そして近くに生家があり、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。
こうした中、この頃に生家にある本と云えば、農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶にない。
やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、私は少年心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。
こうした中で、私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、
独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
やがて都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら授業は楽しく感じて、
読書の魅力にも取りつかれたりした。
こうした中、新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。
今回、芦田愛菜さんの幼少期を初めて私は学んだが、
芦田愛菜さんの母上は、情操教育のひとつとして本を与え、
芦田愛菜さんは応(こた)えて、読書の魅力に関心を深めた、と私は好感させられたりした。
そして芦田愛菜さんの素質の素晴らしいことは、
《・・愛菜ちゃんにとって読書の魅力は、“自分とは違う誰かの人生や心の中を知ること”だそうで、
そんな『疑似体験』ができるのは、お芝居と読書との共通点だそうです。
また、自分の想像力で物語の世界に入り込めることも、読書にしかない魅力の1つで、
“ページをめくるたびに広がる世界に、どんどん吸い込まれていく”と熱く語っていました・・》
《・・考え方やものの見方が広がった本として紹介しているのは、『よろこびの歌』(著/宮下奈都)。
主人公は、音大附属の高校の受験に失敗し、普通科の高校に進んだ女子高生。
毎日どこか楽しめずにいた彼女が、合唱コンクールの指揮者を任されたことから日常が変わっていく。
本書は、6人の登場人物の視点から描かれた7つの短編で構成されており、
《いろんな角度から、一つのできごとを見ることができて、物語をよりいっそう深く読み込めるのが楽しい》
と愛菜ちゃんは綴っている。
彼女は、本書をきっかけに身の回りのことに対しても
「実はこういうことなのかもしれない」
と別の受け止め方ができるようになったことを明かした。・・》
こうしたことをはじめとする数多くの要素に、齢を重ねた私でも、強く共感させられて、
芦田愛菜さんは、素敵な若き女性・・と思いを深めている。
私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。
こうした中、私が多々の理由で年金生活を始めた2004年(平成16年)の秋の当初から、
我が家の平素の買物は、 私は自主的に買物専任者として宣言し、 家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、我が家より歩いて、スーパー、専門店など歩いて行き、 買物メール老ボーイとなっている。
この後は、やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、年金生活丸15年を過ごしてきた。
そして私は寝たきりなどは、日常のささやかな願いも制約されるので、
殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩き、
ときおり認知症とか心筋梗塞などは勘弁してねぇ・・と秘かに祈願しながら歩く時もある。
ここ三寒四温の時節の中、気温の激しい変化に私は体力の衰えの為か、
戸惑ったりしているが、人生は気合だ、と自身を叱咤激励をしたりしている、
そして紳士バックを園児の真似事をして斜め掛けで、颯爽と歩いたりしている。
こうした中、高齢者は脱水症は天敵と学んできたので、ペットボトルの煎茶をコンビニなどで買い求めて、
ときおり水分補給をしながら、歩くことが多い。
ただ、「(日本では、イベントの中止や外出を控えている現状があり)人が集まらなくなると、
下火になっていく可能性がある・・一時はまだまだ増える。
3~4週間後くらいに山の頂上が見えてきて、減りだしてくれたらいい」と、
1ヶ月後くらいが、ピークなのではないかと予測した。・・》
このようなことを私は学び、あと1ヶ月を過ぎれば終息化に向かっていくかしら、
と思い馳せたりして、無力な私は念願したりした。
そして4月中旬を過ぎ、重苦しい閉塞感から解き放たれて、
陽春の時節、平年通り私は、小躍りして遊歩道、公園を歩き廻りこと思い浮かべたりしている。
先程、パソコンを立て上げて、『ヤフー』に掲載されている記事を見ている中、
『 新型コロナ、広がる「巣ごもり消費」 道内、感染防止で外出控える 』、
と題されて見出を見たりした。
☆ネットスーパー飽和状態、DVDまとめ借り
新型コロナウイルスの感染拡大を受け、外出をせずに、
家の中で過ごすための「巣ごもり消費」の傾向が、石狩管内で強まっている。
ネットスーパーは、配達予約が飽和状態で、
DVDや漫画本のレンタル、書籍販売のほか、出前などの利用が伸びている。
外出を控える住民が多いことが原因で、
専門家は感染が収まるまで、こうした傾向は続くとみている。
新型コロナウイルスの感染による肺炎患者が、道内で初めて確認された1月末ごろから、
札幌市東区のイトーヨーカドーアリオ札幌店では、
インターネットで注文した商品を配達する「ネットスーパー」の売り上げが増えている。
2月下旬からは、例年を3~5割上回る注文があり、
日持ちする食品などをまとめ買いする買い物客が多い。
1日で配達できるのは、平日で250件前後で、最近は受け付けを始めるとすぐにいっぱいになる。
同店は配達枠の拡大を検討している。
鈴木直道知事が外出自粛を要請した2月29日と3月1日の週末。
札幌市中央区のレンタルDVD店では、知事の自粛要請の直後から通常の2~3割多い貸し出しがあった。
店長は「旧作ドラマやアニメ映画などをまとめて借りる人が多かった」と語った。
☆「飲みに出ず家で楽しむ人増えた」
石狩管内で17のレンタルDVD店や書店を展開するTSUTAYA(東京)によると、
映画作品やコミックのレンタルに加え、
学校が臨時休校となった小中学生向けの児童書や参考書などの売り上げが増えている。
同社は鈴木知事の外出自粛要請を受けて、
道内の利用者に対し、返却が遅れた人への延滞金免除を4日まで行った。
同社の広報担当は「こういう状況だからこそ、自宅で楽しめる娯楽の需要がある。
同時に店内の感染防止策をさらに強化していきたい」と話した。
札幌市中央区の飲食店「そば処(どころ)丸長本家」は、
店舗への来客が大きく減る一方、出前は普段と変わらないという。
この週末は、天丼やざるそばなど出前の定番メニューに加え、
焼き鳥や唐揚げ、酒などをセットで注文する客が目立った。
伊藤輔晃社長(39歳)は「飲みに出ずに、家で楽しむ人が増えたと思う」と話した。
日本総合研究所(東京)の小方尚子主席研究員(マクロ経済、家計経済)は
「問題が長期化すれば、消費は店からオンラインへとさらに傾く可能性がある」と指摘している。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
今回、道知事の外出自粛要請を受け、もとより感染の拡大をさけて、
沈静化するまでの道民の多くは、日常生活の変貌が余儀なくされ、
やはり信愛できる御家庭で、生活される時間帯が多くなっていると思われる。
そして東京の郊外に住む私はでも、<time> </time>
先程、ときおり愛読している公式サイトの『マネーポストWEB』を見ていたら、
『 コロナ感染拡大が『年金支給額引き下げ』につながる重大懸念 』
と題された見出しを見たりした。
この記事の原文は、『週刊ポスト』の2020年3月13日号に掲載された記事であり、
関連の公式サイトの『マネーポストWEB』に3年3日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。
《・・コロナ感染拡大が『年金支給額引き下げ』につながる重大懸念
国の専門家会議が「1~2週間が感染拡大を抑えられるかどうかの瀬戸際」と発表した直後、
経済の“パンデミック(広範囲に及ぶ流行病)”が先に日本を直撃した。
追い打ちをかけるように国際オリンピック委員会(IOC)の最古参委員ディック・パウンド氏が、
「東京五輪の開催の判断期限は、引き延ばせて3か月だ」
と五輪中止への最後通牒を突きつけた。
中止となれば、五輪後を含めて「32兆円」と試算されている経済効果が吹き飛んでしまう。
そうなると国民生活への影響は、感染の危険だけではない。
「新型コロナウイルスによる経済へのダメージは長引く。
株価が低迷し、年金引き下げにつながる可能性はありうる」
そう指摘するのは金融論が専門の相沢幸悦・埼玉学園大学経済経営学部教授だ。
「国民の年金積立金169兆円を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は、
年金財政上、毎年一定の運用益を稼ぎ出さなければならない。
そのため資産の5割をリスクの高い株に投資している。
国内株と外国株を25%ずつが原則だが、株価が下がれば、利回りどころか評価損が発生する。
今回のコロナ暴落は、世界同時に起きており、株価の回復が遅れて、
年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の資産が大きく毀損すると、
場合によっては、年金生活者の支給額を引き下げなければならない事態も起きる」
安倍首相も年金減額の可能性に言及している。
かつてチャイナ・ショック(2015年の上海市場の大暴落)をきっかけにした
世界同時株安で、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は、3か月間に約8兆円もの運用損失を出した。
当時、国会で年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が
予定の運用益を出せなかった場合の対応を問われた首相はこう答えた。
「年金積立金を運用しているわけで、想定の利益が出ないということになれば当然、年金の支払いに影響してくる」
年金減額は、シナリオの一つとして想定されていることがわかる。
株価が急落しても、すぐに年金支給額が減らされるわけではないが、
心配なのは今回の新型コロナ危機が、これまでの経済危機と全く違うことだ。
「バブルが弾けたり、金融システムの破綻であれば、それが解消されれば、経済は回復に向かう。
ところが、新型コロナの被害が長引くと、人とモノの動きが止まってしまう。
一部の企業はテレワークでしのげても、工場は社員が出社しなければ、生産ラインが動かない。
そうした負のスパイラルが続くことで、株価はどんどん下がり、
年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の年金資産が失われていく」(相沢氏)
☆待ち受ける復興増税
国民生活が脅かされるのは、年金減額だけではない。
国内では、宿泊客が激減したホテルの「コロナ倒産」が始まり、
観光、運輸、小売業界など売り上げが大幅に落ち込んで、経営難に直面している企業が増えている。
五輪を招致した安倍首相にすれば、面子にかけても、東京五輪の中止はさけたい。
いまホテルや観光業者に、バタバタ倒産されては困る。
そこで大型の“コロナ復興予算”を編成して、全国に補助金をバラ撒き、
「日本は健在」を世界に示そうとするはずだ。
その後にやってくるのが、財源をまかなうための国民への「復興増税」である。
国民は、政府の対応の失敗で、感染の危機にさらされているうえ、
これから年金減額、“コロナ復興増税”という三重の苦しみが待ち受けている。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
今回、金融論が専門の相沢幸悦・埼玉学園大学経済経営学部教授<time> </time><time> </time>
先程、パソコンを立て上げて、『ヤフー』に掲載されている記事を見ている中、
『 新型コロナウィルス 集団感染が起こりやすい場所は?・・ 』、
と題されて見出を見たりした。
こうした中、何かと無知なことが多い私は、
今回の『 新型コロナウィルス 集団感染が起こりやすい場所 』って、
具体的にどのような場所なの・・と思いながら記事を精読してしまった。
この記事の原文は、高橋史弥(たかはし・ふみや)さんの寄稿文であり、
『ハフポスト日本版』の2020年3月2日に配信され、
無断であるが記事の大半を転載させて頂く。
《・・新型コロナウィルス 集団感染が起こりやすい場所
厚生労働省は3月1日、新型コロナウイルスについて、
1人の感染者が、複数の人に感染させる経路の特徴を明らかにした。
換気が悪いなどの3つの共通点があり、
厚労省はイベントを開催する場合などには、風通しの悪い空間を作らないよう呼びかけている。
☆実際に複数人が感染した場所は
厚労省によると、患者のおよそ8割は、他の人に感染させていない。
一方で、特定の場所では、複数人に感染させていたという。
実際に複数人への感染が起きたとみられる場所は以下の通りだ。
・スポーツジム
・屋形船
・ビュッフェスタイルの会食
・雀荘
・スキーのゲストハウス
・密閉された仮設テント
厚労省は、これらの施設の具体的な場所や感染者数は公表していない。
ただ、スポーツジムに関しては、
少なくとも千葉県市川市のジムで複数の利用者が感染したことがわかっている。
また、屋形船については、1月中旬に東京都内でタクシー運転手らの新年会が開かれ、
そこで広まった可能性が高いと、東京都が公表している。
☆こうした集団感染には3つの共通点がある。
それは「換気が悪く」、
「人が密に集まって過ごすような空間」で
「不特定多数の人が接触する恐れのある場所」だということだ。
そのため厚労省では、イベントの開催にはついては必要性を検討するとともに、
仮に開催する場合であっても、風通しの悪い空間を作らないよう呼びかけている。
上記3つの特徴に当てはまると思われるのは、都会の満員電車だ。
厚労省に満員電車に対する見解を聞いたが
「今は例示していない。今後のことはわからない」と答えるのみだった。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。