夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

英語も苦手な老ボーイの私でも、Spring has come!、と呟(つぶや)くように・・。

2016-03-17 16:20:04 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

今朝、私は家内と共に朝食を頂ただいている時、たまたまテレビで天気情報を視聴していた・・。
朝の6時は5度、昼下がりは18度前後、夕暮れの6時は14度前後、
4月中旬のような陽気に恵まれる日中となります、と報じていた。

やがて9時過ぎに、家内は、新聞に添付されているスーパーのチラシを見たりし、
そして赤のサインペンで丸印を付けたりした。

まもなくして、この赤丸が我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

この後、家内からスーパーのチラシを私は手渡し、
『本日は・・これだけお願い・・』
と家内は私に言ったりした。

私は定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
平素の買物は私が専任となり、家内から依頼された品を求めて、
独りでスーパー、専門店に行く買物メール老ボーイとなっている。

たまたま本日は、チラシを見ると、最寄のスーパーで買い求める品数も少なかった。
            

私は長ズボン、冬用のスポーツシャツにフリースを羽織り、紳士バツクを斜め掛けにして、
颯爽と出かけた。

雲ひとつない青空が拡がる中、もとより寒さも感じることなく、
まもなく春分の日を迎えるので、寒さ暑さ彼岸まで、古人から伝えを思い浮かべて微笑んだりした。

やがてスーパーで責務を終えて、のんびりと小公園に立ち寄ったりした。
そして少し熱さを感じて、私はフリースを脱ぎ、スポーツシャツの姿で歩いたが、
ときおり吹く微風も心地よかった。

陽射しは燦々となる中、のんびりと歩き廻り、私はこれ以上の倖(しあわ)せはないなぁ・・、
と思い深めたりした・・。

やがて帰宅し、少し汗ばみ、洗面所で顔を洗ったりした。

やがて家内とコーヒーを飲んだりしている時、
『xxちゃんさぁ・・さわやかな陽気で、Spring has come!、だょ』
と英語も苦手な私でも、家内に呟(つぶや)くように言ったりした・・。
            

私は中小業の外資系に長らく勤めたが、英語も苦手となっている。
本国の情報部門の最高責任者が来日して、会議の後、
私は上司と共に、食事処で接待した時、困苦したりした。

やむなく英語を思いだすように単語を並べる程度しか言えない私は、手振りを交えて、
表情だけは豊かに応対した苦い体験があったりした。

今回、たまたまSpring has come!、と呟(つぶや)くことができたのは、
中学一年生で生まれて初めて英語の授業を受けて、春が来た、という表現が
余りにも鮮烈で、いまだに心の片隅に残ったりしていた・・。

そして常に英語で表現できたら、つたない我が人生でも、大きく変貌していたよなぁ、
と私は微苦笑したりした。

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木の芽時(このめどき)の時節、齢ばかり重ねた私でも、愛惜と到来する日々に希望を託して・・。

2016-03-16 16:31:12 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後38年ばかりの戸建てに住んでいる。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

我が家の最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。

しかしながら我が家の周辺は、それぞれ住宅が密集している住宅街となっている。
       
こうした中で自宅から3キロぐらいの遊歩道、小公園などを歩きまわている。
そして私は健康寿命を保つには、ひたすら歩くことが肝要である、と思っていたからである。
            

私の住む地域では、平年ならば、11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。

こうした中、私は毎年スキップしたくなるような心情で、公園、遊歩道などを散策をし、
数多くの落葉樹の欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジなど雑木を愛(め)でるいる。

私は幼年期に農家の児として育った為か、
木の芽時(このめどき)から幼いあまたの葉を広げて、萌黄(もえぎ)色に染められる初春、
そして錦繍(きんしゅう)に染められる晩秋、或いは陽射しを受けた冬木立の情景などが、
こうした季節のうつろいを眺めるのが、この世で最も好きな情景のひとつとなっている。
       

たまたま昨日、都立・神代植物園を訪れて、華やかな桃の花、そして早咲きの桜花にめぐり逢え、
長らく見惚れたりした後、園内にある雑木林を歩いている中、
早くも幼い芽、中には幼い葉を広げ始めた樹もあり、眺めたりした・・。
            

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始めた身である。
 
こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
            
                                 
やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。
            

ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。

私は木の芽時(このめどき)の情景を眺めたりすると、齢ばかり重ねた身であるが、
今年も大病もせず、天上の神々か仏(ほとけ)様の采配か解らないが、生かしてもらっている、と思いが強く、
亡くなわれた御方のしぐさ、表情が走馬灯の思い浮かび、過ぎし日々に愛惜を重ねたりしている。
            

やがて立ちすくんだ私は歩きながら、プラス思考に転じて、これから到来する未知の日々に希望を託して、
70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

こうした中で、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで歩き廻ったりして、 季節の移ろいを享受している。
            

余談であるが、私のブログのテンプレートは、昨年の晩秋より冬の花のひとつ『椿(ツバキ)』より、
春の装(よそ)いに伴い、せっかちな私は『新緑』に改定させて頂きました。

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老ボーイの私、今年は梅、桃、そして桜を愛(め)でる中、戸惑いを重ね、やがて微苦笑して・・。

2016-03-15 16:43:31 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身である。

私の住む地域は、平年は2月中旬に純白した白梅の花が咲き、少し遅れて華やいだ紅梅の花が咲く。
やがて全国の女の子を祝福するような桃の節句を過ぎた頃に、桃の花が咲いたりしてきた。

そして3月20日前後から染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始めると、
その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲くが、平年の習わしとなっている。

私は白梅の花に関して、幼年期より好きで、早春の寒さの中、凛と咲く情景に魅了されてきた。

私は幼年期に農家の児として育った為か、生家の庭の片隅にある梅の純白な花が満開を過ぎると、
ときおり微風が吹くと、かすかに花びらが揺れて、やがて花びらが舞いながら地上の黒土に彩(いろど)る情景が、
圧倒的に魅せられてきた。
            

そしては桜花(さくらばな)に関しては、ここ15年ぐらい三分咲きに心を寄せたりした後、
やがて満開の情景にも愛(めでた)りしてきた。
          
私は散策する中、自宅の近くに流れる野川の桜並木の遊歩道を歩いたりすると、
花びらが散乱して、歩道の脇には絨毯のように花びらが重なったりする。

こうした情景を観ると、 私は立ち止まり、数多くの桜花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり微風が吹くと、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、やがて地上に落下する。

古来より、桜の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきたことに、
思いを重ねたりした・・。

私は桜花に関しては、3分咲きに魅了されるひとりであるが、
やはり花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散る光景に、確かな美を感じてきた。

このような情景に私は見惚(みと)れてたりしてきたが、
遥か1000年前の人たちも、私のように感じる人が多いかしら、と思わず微笑んだりしてきた。
                    

そして私は桜花を観る時、齢ばかり重ねた身であるが、
今年も大病もせず、天上の神々の采配で生かしてもらっている、と思いが強く、
毎年、花衣(はなごろも)の情景を眺めていると、過ぎし日々に愛惜を重ねることが多い。

或いは野川の水の流れを見たりしていると、
川面は陽春の陽射しを受け、光を帯びながら清き流れとなっていた・・。

そして川辺に枯れた薄(すすき)の群生に、桜花が重なっていて、
やがて水の流れに巻き込まれ、花筏(はないかだ)のように下流に向かい、ゆっくと流れていた。

このような桜花のうつろう情景に心を寄せてきた。
                       

こうした中で、自宅の周辺の雑木林を歩き廻ったりしていると、
このようなところに桜があったことは知らなかったよ、と教示されることもある。

そして私は山桜を見かけると、 私が若き34歳の時、
自営業をしていた次兄が、資金繰りが破綻して、自室で突然に毒薬を飲み自裁されたので、
私はこの山桜に心を託して、山桜の咲く時になると、次兄の言葉、しぐさを思い浮かべたりし、
何かとお世話になった次兄を思い馳せたりし、37年過ぎている。
          
この間、次兄が生前で、我が家が新築まもない時に、花桃を20数本頂だき、
私たち夫婦は戸惑いながらも微笑んだりした。
            

このような思いで、私は毎年とりとめなく梅、桃、そして桜を愛(め)でてきた・・。


過ぎし1月18日に今年初めて小雪が降り、
やがて28日に我が家より、徒歩45分ばかり歩くと、都立・神代植物園があり、
私は白梅、紅梅、蠟梅(ロウバイ)を愛(め)たりした。

そして2月17日に、遅ればせながら我が家の白梅が咲いたりし、微苦笑したりした。

私が微苦笑させられたは、私は何かと遅れた人生航路を歩み、
読書の魅力に気付かされたのも高校に入学してまもない時であったし、民間会社の中途入社できたのも25歳、
そして結婚したのも31歳であり、何かとこの人生の歩みが遅い航路となったりした。

このように主(あるじ)の私にに似た遅咲きの白梅が、愛(いと)おしく感じて、微苦笑をしたであった。
            
               
やがて22日に、いつもように野川の遊歩道を散策していると、早咲きの大島桜か河津桜の親戚ような桜花にめぐり逢え、
戸惑いながらも悦んだりした。

この後、25日に都立・神代植物園を訪ねて、生れて初めて寒緋桜(カンヒザクラ)を鑑賞した・・。
  

しばらく見惚れた後、少し歩くと樹高5メートルぐらいで淡き桃色が視えて、私は近づくと、『河津桜』と名札が幹に付けられていて、
これが早咲きの桜として名高い河津桜か、と遅ればせながら初めて見て、
清楚で好感するよ、と心の中で呟き、記憶の形見として撮ったりした。
  

この後、白梅、紅梅の残り花、そして椿の花を褒めて帰えろうかなぁ、と思いながら小路を歩いていた時、
園内の奥まった片隅に樹高2メートルたらずで、淡き桃色が視えて、何の花木かしら、と感じ、私は近寄っていた・・。
ひっそりと咲いていた小花に瞬時に魅了されて、私は一期一会だ、と心の中で呟き、撮ったりした。
  

まもなく私は更に近づくと、樹の幹に、小さな紙に『河津桜』と名札が付いていた。
私は多くの方が見過ごしてしまうような奥まった片隅に、ひっそりと咲いていた『河津桜』に、
つたない人生航路を歩んできた私は、情愛を感じて深く魅了されたりした。

こうして予想外に、早咲きの桜花にめぐり逢いができ、このような幸福感はめったにないよねぇ、
と微笑んだりした。


ここ一週間、晴れ間ない日々が続く中、私は何かしら戸惑ったりして過ごしてきた・・。
思い当たるとすれば、桃の花を鑑賞しなくて、早咲きの桜花を愛(め)でてしまって、
何かしら季節の到来に狂いを感じたことに気付いたりした。

そして私は、久々の晴れ間の本日、桃の花を求めて、都立・神代植物園を訪ねた。
やがて華やいだ桃の花を鑑賞して、心は充たされ、
少し愛(め)でる順序こそ違ったが、春の三冠王のような梅、桃、そして桜を愛(め)でることができた・・。
            

この後、園内を歩けば、数多くの早咲きの桜花にめぐり逢ったりした・・。
  

やがて私は、毎年3月20日前後から染井吉野(ソメイヨシノ)の桜、その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)には、
どのように愛(め)でようかしら、と戸惑いを重ねながらも、やがて微苦笑したりした。

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ビートルズを育てた音楽プロデューサーのジョージ・マーティンさんの逝去、つたない私でもご冥福を・・。

2016-03-14 14:21:58 | ささやかな古稀からの思い
ビートルズの数多くの名曲の中に、『イエスタディー』がある。

確か1966年(昭和41年)の初めの頃だったと思われるが、
1948年〈昭和23年〉生まれの妹がビートルズに熱愛して、数多くのレコードを買い求めて、盛んに聴いていたので、
たまたま私はこの曲を知った・・。
            

この頃の私は、大学を中退し、映画、文学青年の真似事をしていて、
食寝を忘れるくらいに映画作品を映画館で観たり、 小説の数多くの作品を読みふけっていたので、
音楽を聴く余裕もなかった時だった。

ときおり妹が、生家の応接間にあるステレオで、ビートルズを大きな音量で聴いていても、
私はうるさいと感じながら、騒音のような音楽としか聴こえてこなかった。

こうした中のある時、メロディー・ラインが良く、英語の詩も良い、と直感した曲が、
この後に、妹から曲名を教えて貰ったのが『イエスタディー』であった。

その後、妹はビートルズが1966年(昭和41年)の6月下旬に来日公演の時、
学校では禁止されていたが、無視して何とか日本武道館に行って、
公演には満足した、と私に言ったりしていた。

このように妹は、団塊世代でこの当時は高校の初めの頃であったから、
何事も一番感化されやすい時であるので、音楽面はたまたまビートルズに熱中した、と思われる。

この当時の私は二十歳を過ぎたせいか、或いは映画・文学に熱愛していたので、
音楽を聴く余裕もない時でもあり、ビートルズからは音楽の影響は受けなかった。
            

その後、私が1970年(昭和45年)にある民間会社に中途入社した前後は、
音楽のポピュラーとして影響を受けたのは、
サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』、『明日に架ける橋』等の一連であった。

私は音楽に関しては、楽譜も読めない素人であり、つたない感性を頼りに聴いたりしているが、
もとよりメロディーも大切であるが、このアーティストは、何を伝えたいのか、という命題を重要視するので、
作詞を優先するひとりである。

まもなくして、私はシャンソンの世界にに魅せられ、百枚程度のアルバムを買い求めたりし、聴き込んだりしていたが、
特にシャルル・アズナヴールには、魅了させられた。

ある程度の大人の年齢になり、若き日の青年時代の愛惜を秘めた『帰り来ぬ青春』(1964年)、
そして『遠い想い出』(1971年)は、私は友人たちに絶賛したりした。

このような時に、ビートルズの『イエスタディー』(1965年)が甦(よみがえ)ってきた。
そしてビートルズのメンバーが、あの若い時に《青春時代》を凝縮させた表現出来たのは、
天才という言葉以外は見つからず、唖然とさせられながら、絶賛した。

この『イエスタディー』の曲は、世界の著名の歌手に多く歌われ、
日本に於いても名のある歌手も多く取り上げていた。

私は、少なくとも10人以上の歌い手のレコード、カセット、その後はCDで聴いて、今日に至っている。
            

こうした間に、映画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)に於いて、
ロバート・デ・ニーロが扮する主人公が駅構内で過去を回想するシーンに、この曲が流れた・・。
私はこの感性には思わずうなり、そして瞬時に魅了された。

映画の音楽は、このように使うと映画の画面が引き立ち、効果のある見本でもある。

このことは、監督・脚本のセルジオ・レオーネ、そして音楽のエンニオ・モリコーネの功績であるのは、いうまでもない。

私はビートルズからは影響は受けてはいないが、このたった一曲の『イエスタディー』の曲だけは、
最初に聴いてから、突出した青春の日々の愛惜歌である、とここ50年絶賛しているひとりである。
            

昨夜、ビートルズ育てた音楽プロデューサーのジョージ・マーティンさんの逝去を知った。

たまたま私は音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
管理畑、情報畑、営業畑などを勤務し、音楽の制作に携わらなかった私でも、
ビートルズ育てた伝説の人、音楽プロデューサーのジョージ・マーティンさんの知名は知っていた。

そして日本にビートルズを普及された御方は、私が勤めた他社の高嶋弘之さんであるが、
少なくとも業界の常識であった。

このように心情を秘めてきた私が、高嶋弘之さんがジョージ・マーティンさんの逝去に伴い、
どのようなコメントをされるか、私は知的な好奇心があったりした・・。

たまたま今朝の読売新聞を読んでいたら、文化面の記事のひとつに、
【 ジョージ・マーティンさんを悼む ビートルズ育てた柔軟性・・・高嶋弘之 】
と題した記事が掲載され、私は精読し、改めてジョージ・マーティンさんに敬意を重ねた。

無断であるが、この記事を転記させて頂く。
            

《・・2014年2月に私がプロデュースしている音楽グループ「1966カルテット」のレコーディングで
ロンドンにあるアビイ・ロード・スタジオを訪れました。

私は日本のレコード会社でビートルズの担当ディレクターをしていたので、ジョージ・マーティンさんが、会いに来てくださったんです。
紳士的で、物腰もやわらか。
「これからのプロデューサーはレコーディングだけではなくて、
コンサートも含め、アーティストの動き全体を仕切らないといけない」と話していました。

90歳近いのに、音楽界のこれからの展望を考えていたんですね。

ビートルズのメンバーは、すごい才能を持っていました。
けれど、彼らをまとめあげたマネジャーのブライアン・エプスタインさんとマーティンさんがいなかったら、
ここまでの成功を収めていないと思います。

別のオーディションでは、落とされた彼らとの契約を決め、レコードデビューさせたんですから。
まだまだ未知数の彼らの才能を見抜いたわけです。
            

マーティンさんは、クラシックの知識やそれまでのプロデューサーとしての経験があったから、音楽的なアイデアも豊富。
「イエスタデイ」に弦楽四重奏を加えるなど、編曲のセンスも素晴らしい。
弦楽四重奏を使うなんて、当時のロックバンドとしては画期的です。

ビートルズは初期のシンプルなサウンドから、サイケデリックロック、インド風など次々と新しいスタイルを取り入れていきました。
それまでの音楽的な常識を打ち破ろうとする4人の若者。
そして柔軟な考え方のできるプロデューサー。
この組み合わせが最高だった。

自分のやり方を押しつけるタイプだったら、ここまで自由にできない。
アーティストの才能を引き出し、一緒に考え、伸ばした。
彼の貢献があってこそ、プロデューサーの地位も上がったと思います。

今年は1966年のビートルズ来日から、ちょうど50年です。
いろいろ聞きたいこともあって、また、おじゃましたいと思っていただけに本当に残念です。(高嶋音楽事務所社長、談)・・》

このように高嶋弘之さんは、ジョージ・マーティンの功績を讃えている。
            

この後、確かスポーツ新聞に掲載されていた記事を私は読み、微笑んだ記事があった。
《・・ポール・マッカートニーはこの日、自身のホームページで追悼。

「僕にとって第二の父のような存在だった。ジョージこそ、5人目のビートルズだ」と断言した。

クラシック出身のマーティンさんとの思い出は「Yesterday」制作時のエピソードを挙げた。
「僕がギターを弾いて、ソロで歌ったらどうかと提案したら、ジョージは『弦楽器の四重奏を入れたい』と。
僕はロックンローラーなんだから、ダメだって答えたんだ」。

だが、実際にレコーディングするとマーティンさんのアイディアが正しかったことが分かり
「何週間も興奮したよ。結局、この曲はフランク・シナトラ、エルビス・プレスリーらがカバーし、
史上最もレコーディングされた曲の一つになったんだからね」とその手腕をたたえた。・・》
            

余談であるが、ジョージ・マーティンさんの略歴は、
1926年1月3日、ロンドン生まれ。オーボエ奏者として活動後に音楽プロデューサーに就任。
ビートルズのほか、ジェフ・ベックら700枚以上のレコードをプロデュースした。

94年に「ザ・フー」の「ロック・オペラ“トミー”」のミュージカル版のアルバムでグラミー賞受賞。96年にはナイトの爵位が授与。
97年のダイアナ妃の葬儀ではエルトン・ジョンが披露した「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」の制作に携わり、
02年にエリザベス女王即位50周年コンサートの総監督を務めた。

そして今回、キャメロン英首相も「音楽の巨人だった。
ビートルズと共に世界で最も不朽のポップ音楽を創り出した」と、追悼のコメントを出した。

このように突出した足跡を遺こされた御方であり、つたない私でもご冥福を祈ったりした・・。

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茶坊主の老ボーイの私、ときには家内から叱咤されて、やがて微苦笑をして・・。

2016-03-13 16:19:09 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

平素は家内と共に朝食を頂き、一時間過ぎた頃、
家内は、新聞に添付されているスーパーのチラシを見たりし、
やがて赤のサインペンで丸印を付けたりしている。

まもなくして、この赤丸が我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

この後、家内からスーパーのチラシを私は手渡し、
『本日は・・これだけお願い・・』
と家内は私に言ったりしたりしている。

私は現役サラリーマン時代の緊張感から解放されて、早や年金生活12年生であり、
体力の衰えも感じている中、せめてボケてはいけないと思い、
『はい! 了解致しました!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をしている。

このような我が家の平素の買物パターンで、私は独りで指定された最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
                      

定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。

2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始めた私としては、
この趣味などのささやかな時間を崩すことは、天敵と確信を深めて、
平素の買物専任者を自主宣言したのであった。

そして買物を終えた後は、やはり独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを
ひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。

家内は従来通り料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめてと私は思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
                      

我が家は煎茶といっても、100グラム1000円前後の深蒸し茶であり、
何かと煎茶をこよなく愛飲している私は、適度に煎茶メーカーを選定してきた。

コーヒーは恥ずかしながらインスタントのゴールドブレンドであり、
結婚して39年になるが、真実一路ように私たち夫婦は、愛飲している。

コーヒーに関しては、それぞれのマグカップに、
私はコーヒーを小さじ1杯強として、砂糖を小さじ4分の1ぐらい加味している。

家内はコーヒーを小さじ1杯で、粉ミルクのブライトを小さじ2杯を淹れている。

こうした中で、いつもように居間の食卓テーブルの前の椅子に座っている家内に、
コーヒーを淹れたマグカップを私は置いたりしている。
            

私は気まぐれで思い込みの激しい性格であり、血液型で表現すればB型であり、
家内は料理、洗濯、掃除なども几帳面にする専業主婦の優等生で、血液型はA型となっている。

こうした風変わりな私たち夫婦であり、
ときには家内は、『コーヒー濃すぎるわょ・・』
或いは『ミルクが多すぎて・・コーヒーの味も香りがしないわょ・・。』
と私に苦言する時もある。

年金生活を始めた当初は、私は『いつもと同じに・・淹れたょ・・』
と私は戸惑いながら家内に言ったりした。

『あなたは専念してコーヒーを淹れないから、このようになるょ・・』
と家内は瞬間湯沸かし器のように私に苦言した。

やがて私は、平素と変わらぬ量で入れているが、食事の前とか後では、賞味が違うと思ったり、
或いは家内は嫌なことがあったかしら、と思ったりしている。

そして家内がコーヒー濃いと感じた時は、粉ミルクのブライトを加味したり、
ミルクが多すぎと感じた時は、コーヒーを加味したりしている。

そして私は、『これから気を付けるょ』、と家内に苦笑しながら言ったりしている。

この後も、こうしたコーヒーに関して、年に数回ぐらい家内から私は叱咤されている。
            

私たち夫婦は年金生活を過ごして、丸11年が過ぎて早や12年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は39年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
年金生活のセカンドライフは、ささやかながら安楽の日々を過ごしてきた。

そして人だれしも長所、短所はあるが、私は幾つになっても短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。

私たち夫婦は、ご近所の方の奥様たちから、あなたたちは仲良しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
しかしながら私たち夫婦は、ボタンの掛け違いのように差異が発生し、険悪になる時もある。

やがて私は、文学、映画、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たち夫婦の人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思いながら、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりする時もある。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。
                              

これからの日々は、お互いに体力の衰えを増すことを実感しながら、
やがていつの日にか、どちらかが不運にも大病になったり、
最悪の場合は死別して、おひとりさまとなったりする。

こうしたことは自助努力も必要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄る。
         
このように思案している私は、こうして過ごしている昨今こそが、
いつまで続くか解らないが、私たち夫婦にとっては最良の日々、と私は感じ深めている。

そして時折、家内から私は苦言を言われても、
家内の日頃のストレスの解消になれば、たやすいこと、と思ったりしている。
            

私は苦楽の激しい中小業の民間会社に35年近く奮戦して、何とか2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたが、
この間、幾たびかリストラがあったりしたが、何とかくぐり抜けたが、最後の5年半はリストラ烈風となる中、
出向となったりした。

こうしたつたないサラリーマン航路を過ごしてきた私は、この間の苦闘を思い馳せれば、
ときたま家内から苦言を言われても、笑い飛ばすことができるひとりとなっている。

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何かと単細胞の私は、キャベツ、タマネギ、そしてブロッコリーは、心身の活力源・・。

2016-03-12 14:40:15 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の苦楽の多い中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始め、早や12年生となっている身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
私は食事に関しては、何かと単細胞の為に、ここ7年ばかり真実一路のようにパターン化している。
            

過ぎ去りし年の2010年〈平成22年〉の秋の健康診断を受診した時、
糖尿病と明示され、茫然としながら、翌日より食事の内容はもとより、ウォーキング、散策をしたりして、
大幅に改善されている。

お酒大好きなの呑兵衛の私は、日本酒の純米酒、ビールを長き45年ぐらい夜のひととき愛飲してきたが、
糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとしてきた。

この間、最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ6年は悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
                       
                      
私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
キャベツを千切って電子レンジで少し温めて、もずく三杯酢をかけて盛大に頂くこともあるが、
天候不順で、新鮮なキャベツにめぐり逢えない場合は、タマネギが代用としている。

こうした時は、タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

やがて十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、カブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリ、
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂くことが多い。

こうした根底には、私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をし、
これが飽(あ)きたら日本人はやめるょ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。
            

家内は時折つきあうが、大半は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、ホット・コーヒーを飲みながら頂くことが多い。
そしてバナナなど果物も食べたりしている。

昼食はフランスバンを三分の一ぐらい私は食べたりしているが、
家内はケーキのような菓子パンを食べることが多い。
そして昼食は、お互いに自由な時間で頂いているのが、実態となっている。

やがて夕食の時は、私は、朝食と同様な前菜を盛大に食べた後、
ブロッコリーを食べている。

そして牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉などのいずれかを野菜を加えて、多めに頂いたりし、
ときにはシイタケ、シメジ、マイタケなどの茸(きのこ)も好きで、食べたりしている。

家内は肉と野菜を食べたりした後、プリンかショートケーキを食べたりしている。

こうした朝食、夕食を頂いている中でも、
私は平素は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、男の癖におしゃべりで、
家内と談笑をしたりしている。
            

こうした中で、ブロッコリーに関しては、少し変貌している。

昨年の秋までは、スーパーの野菜売り場にセロリ、キャベツなど並んでいるブロッコリーを買い求めたりしてきた。
しかしながら天候不順とか季節外れで、新鮮なブロッコリーには、めぐり逢えない時は、
私は落胆したりしてきた・・。

私の友人、知人の同世代の多くは、高齢者向きのビオフルミンとか栄養剤とかマンゴー、ココナツ、ニンニクなど各地から食物を、
通販などで取り寄せて、月に数万円も要して、建康を保っているょ、と私は教えられたりしてきた。

私は栄養剤よりもキャベツ、タマネギ、ブロッコリーを食べていれば充分だ、
と信愛しているひとりである。

こうした野菜のブロッコリーに困苦していた時、家内から、
『冷凍食品のブロッコリーも美味しいわょ・・お母さん時々食べていますから・・』
と家内は微笑みながら、私に助言してくれた。

やがて私は最寄のスーパーに行き、生まれて初めて冷凍食品のブロッコリーを買い求めたりした。

たまたま最寄のスーパーあったのは、ニチレイの『高原育ちのブロッコリー』があり、
一袋には生鮮ブロッコリー約1・3株分で、250グラムである。
            

そして電子レンジで温めた後、ミッカンぽん酢とお醤油をかけて頂いたが、
予期した以上に美味しく感じたりした・・。

私は9割方、ミッカンぽん酢とお醤油をかけて、盛大に食べ、家内は一割を食べ、
お互いに朝、夕食に賞味しているので、我が家は日に2袋愛食している。

そして買物メール老ボーイの私は、この最寄のスーパーに於いて、
年金生活にやさしい冷凍食品の特価日が週2回あり、一袋200円以下の時、盛大に買い求めている。

今朝もタマネギをスライスし、生ワカメとあえたのを盛大に食べた後、
ブロッコリー220グラムを頂いている。

何かしら私は、もとより味も良いし、「自己免疫力」も向上して、
何よりも口の中、食道、胃、大腸まで浄化してくれると思いながら、
私の好物となり心身の活力源と思ったりしている。
            

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

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東日本大震災5年、あの時あなたは・・、無力な私はご冥福を祈った後、やがて・・。

2016-03-11 13:06:31 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
今朝6時半過ぎ洗面した後、玄関の軒下に下り立ち、北の東北地方の太平洋沿岸に向い、襟を正して黙祷した・・。

もとより5年前のこの日、東日本大震災と称される東北地方の太平洋沿岸を中核に、
1万8000人を超える死者・行方不明者の御方に、無力な私はご冥福を祈ったりした・・。
            

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む身であるが、
この日、私は家内と共に最寄の駅前で買物と散策を5時間ばかりして帰宅した後、
まもなく我が家は大揺れとなった。

私たち夫婦は居間にいたが、地震、と気付いたが、長らく揺れた。

この後、本棚が本が床に落ちたり、2階の寝室のテレビが畳の上に落下し、
或いは浴室のタイル壁にひび割れが一部あったりし、
このような強い地震は、我が家としては35年近くでは、初めての体験であった。

やがてテレビでNHKニュースを視聴し、各地域で多大な災害に驚嘆した。
この後、千葉県に住む家内の母宅、私の妹宅に電話連絡をしたり、
お互いの被害状況を確認したりした。

この後の私は、我が家は東京ガスであるので、
ガス供給は自動的に遮断されたので、家屋の外れにあるガス供給元装置で、
添付さている東京ガスの指示マニアルカードを見ながら、復旧させたりした。

そして、この後も余震が続いたりし、不安げにNHKニュースを視聴したりしている。
宮城県北部で震度7に伴い大津波警報となり、仙台で10m大津波が観測され、
岩手や宮城で数多く家屋が流されるいる、と報じられ、私は震撼させられた・・。
            

翌朝、昨日に発生した観測史上最大の地震の東日本巨大地震、
これに伴う大津波などに寄る大惨事に関するニュースを、
読売新聞で読んだり、テレビでNHKニュースを視聴し、各地域で甚大な災害に驚嘆した・・。

私は数多くの記事を読みながら、私は実態を学べば改めて動顚させられたり、涙ぐんだりした・・。
この中のひとつには、【振り返ったら、大津波「防風林越えやってきた」】を無断ながら、転記させて頂く。

《・・「ゴーともザーともつかない、聞いたことのない音がして、
振り返ったら、波が防風林を越えて、こっちへ押し寄せてきた」

7・3メートル以上の津波が押し寄せた福島県相馬市。
同市大迎の会社員荒一志さん(51)は、恐怖をそう振り返った。

大迎地区は海岸から約2・5キロ。
津波は防波堤と防風林、沿岸の集落すべてを押し流し、地区のすぐ手前まで迫ってきた。

「車が数台、波に追われるように必死でこちらへ逃げて来るのが見えた。
いつ津波が来るかわからず、家に戻れない」。
同地区の高台で疲れた様子で語った。

この地区では、瓦が家の中を埋め尽くしていた。
地区の高台からは、住宅街が見渡せるはずだったのに、
今は一面に海水が広がり、取り残された住宅や防風林の残骸が、ぽつぽつと見えるだけだ。

自宅の様子を見に戻って来た若い女性2人は
「なんにもなくなった・・」と、肩を落とした。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私はこの記事を読みながら、平素は温暖なこの地域が、
突然の大地震に寄り、大津波が発生して、海岸から約2・5キロ離れたこの地域に於いて、
防風林をのり越えて、襲来した大津波を思い浮かべると、動顚した。

そして大津波が一時的に去った後は、
《・・一面に海水が広がり、取り残された住宅や防風林の残骸が、ぽつぽつと見えるだけだ・・》
私は読みながら、涙を浮かべた。

この後、《・・自宅の様子を見に戻って来た若い女性2人は
「なんにもなくなった……」・・》
私は読みながら、涙が頬に流れた。

日常はたおやかに過ごされ、生活の糧(かて)である田畑など、
そして肝要の住まいの家は、瓦が家の中を埋め尽くされたり、
或いは流されて跡形もない状況に思いを重ねたりしたのである。

余りにも過酷であり、悲惨である。
            

そして読売新聞の朝刊の一面には、《 東日本 巨大地震 》、《 M8.8 死者・不明多数 》、
《 宮城震度7 10メートル大津波と火災 》と一面に大きく見出しされ、
そして【各地の震度】という図説を私は長らく見つめた・・。

《 震源地 M8.8(14時46分) 》が宮城県の仙台市の遥か海上で、
《 震源地 M7.4(15時15分) 》が茨城県の水戸市の遥か海上で、
《 震源地 M6.6(16時29分) 》が宮城県の栗原市周辺の海上で、

このような図説を見ながら、私は身震いしながら、見つめたりした。


この後、3、4面に於いては、《 観測史上最大 浅い震源 津波強大化 》、《 数百キロ断層動く 》、
《 内陸部 未曾有の被害 》、《 阪神の180倍エネルギー 》
と見出しされた記事を、動顚しながら読んだりした。

この後、私はテレビでNHKニュースを視聴し、各地域で多大な災害に驚嘆し、
特に避難されている各施設に於いて、
停電で電気もない暗い中で、ガスの供給も遮断され寒い中、水や食料もままならない悲惨な状況を、
涙を浮かべながら視聴していた。

そして余りにも悲惨な多くの人たちが未曾有の壊滅的な災害に遭遇し、
特に亡くなわれた多くの人に、無力な私は、ただご冥福の言葉を重ねたりした。

こうした中で、都心のお勤めの方たちが、都心の公共交通機関が止まり、
帰宅がままならない状況を見つめていたりしていた・・。

この間、ときおり我が家も余震があり、深夜に寝室の布団にもぐりこんだが、
不安な心情で寝付いたりした。
            

私は今日まで、東日本大震災と称される東北地方の太平洋沿岸の地震に伴う大津波は天災であるが、
福島原発には人災と思案してきたひとりである。

私は無力な身であり、不幸にも亡くなわれた方に、改めてご冥福を祈ったりした・・。


私は今朝、読売新聞の読んだりした中で、特に精読した記事があった。
12ページに【想う2016】の定例記事があり、
今回は【震災5年「あの日」を 見つめ続けて】と題された記事であった。

《・・東日本を襲った未曽有の災禍から5年、日本はいまだ復興途上にある。
被災地・釜石で人々の命と暮らしを見つめ続ける俳人、そして政府の福島第一原発事故調査・検証委員長を務めた工学者に
「あの日」から5年の想おもいを聞いた・・》と主旨であった。

そして私は企画委員・知野恵子さんが、インタビューされた元政府原発事故調査委員長・畑村洋太郎さんの論説であった。

畑村洋太郎さんは、私は未知の人であったで、略歴を読んだりし、
《・・東大名誉教授。消費者庁消費者安全調査委員会委員長。政府の福島第一原発事故調査・検証委員会委員長も務めた。
専門は失敗学など。失敗や事故を分析し、知識を有効活用する活動を続けている。NPO失敗学会会長。75歳。・・》
と初めて知ったりした。

私は多々教示され、多くの人に共有を求めたく、無断ながら記事を転記させて頂く。
            

《・・「見たくないものは見えない。見たいものが見える」。
東日本大震災が日本に突きつけたのは、そうした人間の心理や行動の問題点だ。

大地震、大津波、東京電力福島第一原子力発電所事故を巡って、「想定外」という言葉が盛んに使われた。
だが、本当にそうか。実際は見ようとしなかっただけではないか。

例えば、福島県沖を震源とする大規模な地震や津波の可能性を指摘する知見が増えていた。
しかし、それに注目しなかった。

三陸海岸や福島第一原発の地域は、過去に大津波に襲われているが、その体験を生かせなかった。


政府や電力会社は、原発事故は、起こらないと言い続けた。
一般の人も同様だ。
原発は安全だ、事故は絶対に起きない、などと言われると、そうなんだろうなと思って、それ以上考えようとしないところがあった。

皆、自分の都合の良いように考え、見たいものだけを見て、見たくないものは見なかった。
そのつけが回ったのが東日本大震災だ。
            

今、日本列島では地震、津波、火山噴火、豪雨など災害が多発している。
いずれ東海・東南海・南海の3連動地震が起きて、大きな被害をもたらす恐れがある。

大災害は、発生の間隔が長い。30年あいたら世代が変わる。
経験した知識を生かせるのは、せいぜい60年だ。

それ以上になると、社会から災害の記憶が消える。
東日本大震災で起きたことや教訓を生かす対策を、次世代に引き継ぐことが今の世代の役割だ。

            

☆想定外の自然

頭にたたき込まねばならないのは、人間が考えることには、限界があることだ。
いくら想定をしても、自然は、それに拘束されない。

人間が気づかない領域が残り、災害時に牙をむく。
自然災害でも原発でも、絶対安全などありえない。
その意味では完全な防災は無理だ。

社会全体のお金や労力にも、限りがある。
何にどう振り分けるか。被害の程度をできるだけ小さくする「減災」に向け、皆で知恵を絞る必要がある。

そうしたことを理解した上で、様々なリスク対策を考えないといけない。

例えば、津波対策として防潮堤の高さを巡る議論が戦わされている。
10メートルにしようとか、いや15メートルは必要だとかだ。

しかし、防潮堤がありさえすれば、津波を防げるわけではない。
防潮堤の大事な役割は、津波の到達を遅らせ、人々が逃げる時間を少しでも多く稼ぐことだ。

だから、15メートルのものを作れるところは作ればいいし、作れないなら10メートルでいい。
ただ、同時に住民が逃げる訓練や演習をすべきだ。
それによって生命を守るには、まだ何が足りないかわかる。

リスクを自覚した上で使うなら、原発はエネルギー供給源として欠かせない。
政府、電力会社は、現在の知識や技術では、解決できない点もあると宣言すべきだ。

しかし「なら、もっとちゃんとやれ」と言われるのを恐れている。
その結果、不可能なのに可能であるかのような、幻想に身をゆだねてきた。
それを打ち破らないと、東日本大震災から学んだことにならない。
            

私は福島第一原発事故に関する政府の調査・検証委員会の委員長を務めた。最終報告書の所感で七つの知見を示した。
「見たくないものは、見えない」のほかに、「形を作っただけでは、機能しない」などを挙げた。

だが、まだどれも改善したようには見えない。
この七つは原発事故だけでなく、ほかのことにも共通する。
膨大な借金を抱える政府、少子高齢化と年金問題、安全保障を取り巻く環境の変化など、
今の日本で起きている様々な問題を考える際に役立つはずだ。

◎委員長の七つの知見

 〈1〉あり得ることは起こる。あり得ないと思うことも起こる
 〈2〉見たくないものは、見えない。見たいものが見える
 〈3〉可能な限りの想定と十分な準備をする
 〈4〉形を作っただけでは、機能しない
 〈5〉変化に柔軟に対応する
 〈6〉危険の存在を認め、議論できる文化を作る
 〈7〉自分の目で見て考え、判断・行動する・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

このようにたえず謙虚さを念頭にした上で、反省をして、それぞれの前向きに言動しなさい、と私は解釈した。

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私たち夫婦は10歳ぐらいお若いわ、お世辞を頂だいても、体力の衰えは隠せず、微苦笑して・・。

2016-03-10 15:50:37 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                                         

こうした私の根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして2004年(平成16年)の秋に定年後の年金生活を始めた私としては、
家内のささやかな時間を崩すのは天敵と確信して、
平素の買物専任者を自主宣言し、午前中のひととき買物メール老ボーイとなったりし、その後も独りで散策している。
            
日中の午後から私は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりする時もある。

こうした中で、家内は料理、掃除、洗濯などを従来通りしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
            

そして私は家内が外出する時は、殆どボディガード兼お供となり、
最寄のホームセンター、スーパーなどに買物に行く時、荷物持ちの責務を果たしている。
 
或いは私がときおり小庭の手入れをする時、年に4回ぐらい家内が手助けをしてくれる。

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、幾たびか各地を旅路を重ねてきた。

こうした私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちは仲良し恋しねぇ、或いはあなたたちお若いわ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
                     
私たち夫婦は年金生活を過ごして、丸11年が過ぎて早や12年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
年金生活のセカンドライフは、ささやかながら安楽の日々を過ごしてきた。
            

私たち夫婦は、子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。

私は何かと母の遺伝を受けたらしく男の癖におしゃべりなので、
家内と結婚前に交際していた時から、
私は家内に対して、XXちゃん付けで呼んだりしている。

そして私たち夫婦は語り合うことが多く、旅先の宿泊の食事処で、会話のないご夫婦を見かけると、
私は幾たびか驚いたりしてきた。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
       
もとより子供がいれば、圧倒的に育てる喜びもあるし、子供の笑顔に何よりも癒(いや)されるし、
ときには苦渋することもあると、知人たちから教えられてきたが、
無念ながらこうしたことの体験は、私たち夫婦は欠落している。
          
こうした為か私の頭の毛は黒髪で、モミアゲだけは白くなってしまったが、人生の苦労が足りない、
と思ったりする時もある。
            

私は定年後の年金生活の中でも、たとえば音楽にしても、若い20代のアーテストの曲も聴いたり、
ご近所の若い30代の奥様とか、ときおり談笑したりしている。

こうした生活をしていると、何かしら65歳以上が高齢者と解りながらも、
私は少し実感が薄いである。
家内も、あたしも確かにそう感じる時もあるわ、と私に言ったりしている。
            

過ぎし2014年6月中旬、私は9月になれば古稀入門の70歳になる時、
ある有力な旅行通販会社から郵送されてくる小冊誌の中に、
源泉かけ流しの温泉地滞在フリープランが掲載されていた。

山形県にある蔵王温泉街にあるリゾートホテルと称される処に4泊5日を滞在するプランで、
お互いに元気で意欲のある今、行きたい所に行ければ良いと思い、
蔵王温泉の周辺を散策したりして遊学した。
          
そしてリゾートホテルに滞在するフリープランの一行は、私たち夫婦と同じように世代ご夫婦が多く、
この後は幾たびか食事処、大浴場、ロビー、街中でお逢いし、談笑したりした。

こうした中で、ある夕食の時、レストランで隣席したご夫婦と私たちが談笑していた時、
『定年後まもない時と思われ、お若くて・・羨ましいですわ』
と隣席の奥様から、私は社交辞令のお世辞を頂いたりした。

『9月になれば・・古稀入門の70歳になりますょ・・』
と私は微苦笑しながら、隣席の奥様に言ったりした。

『主人はひとつ上ですが・・同世代ですょ・・』
と隣席の奥様は微笑みながら私に言ったりした。
            

やがて滞在中、山歩きが好きなご主人が奥様を引率されて、周辺の山なみを殆ど歩かれた、
と私たち夫婦に教えてくれた・・。

私たち夫婦は、ロープウェイに乗車して、山なみが一望できる処を2時間ばかり歩いたり、
温泉街の街並みを歩いたり、中腹にある露天風呂に往復歩いたりして程度であったので、
とても隣席のご夫婦のように体力はなく、と私はユーモアを交えながら、このようなことを隣席のご夫婦に言ったりした。

そして家内が、内(うち)の人・・中腹にある露天風呂に行く時、急登の坂道を15分ばかり歩いた時、
タクシーを利用すればよかったなぁ・・と私に言ったりしていました、
と隣席のご夫婦に微苦笑しながら言ったりした。

このように特に私は、10歳ぐらい若いとお世辞を頂だいても、体力の衰えは隠せないのが、
実態となっている。

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いつの日にか私は、介護にお世話になる前には、地域包括支援センターも良いかしら、と思い馳せて・・。 

2016-03-09 15:23:52 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たちは幸運にも大病に遭遇しないで過ごしているが、
やがていつの日にか齢を重ねれば、介護にお世話になる日がくるので、漠然としながらも介護施設には注視してきた。

今朝、配達された読売新聞を読んでいる中、34ページの【ミドル】面に於いて、
定期連載の【暮らすQ&A】があり、今回は【 地域包括支援センター 日常生活の味方 】と題された記事であった。

私は恥ずかしながら無知であったので、やがて精読した後、微笑んだりした・・。
            

無断であるが、記事を転記させて頂く。

《・・高齢になってくると、健康でも日常生活で不便を感じることが増えてくる。
そんな時に心強いのが「地域包括支援センター」だ。

地域包括支援センターは、だいたい中学校の学区ごとに1か所整備され、全国に約4600か所ある。
住所地で担当のセンターが決まっていて、
介護に精通した主任介護支援専門員、保健師または看護師、福祉制度に詳しい社会福祉士らが
生活全般の相談にのる。

介護の必要がなくても、誰でも利用できる。
例えば「高い場所の窓ふきや、庭の草むしりがおっくうになってきた」などの悩みには、
地域内で生活支援サービスを行うボランティアや業者を紹介してくれる。

また、自治体や各企業が行う配食サービスや買い物に行く時の送迎サービスの利用方法など、
それぞれに適した解決方法を一緒に考えてくれる。

元気な中高年にとっては、介護予防のための体操教室や談話会など役立つ情報も豊富。
イベントやボランティア活動の支え手として活躍の場もある。

川崎市の「レストア川崎 地域包括支援センター」の明石光子センター長は
「元気なうちから気軽に訪れてもらい、職員と顔なじみになってもらいたい」とアドバイスしている。
            

そして記事の横には、『地域包括支援センターを通して受けられる支援の例』が掲載されていた。
◎生活支援
☆外出支援
☆配食サービス
☆家事支援

◎交流
☆地域交流活動(サロン)
☆認知症カフェ
☆料理教室、絵手紙教室

◎高齢者の権利擁護
☆虐待防止
☆成年後見制度の利用・・》
            

我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、私より14歳齢上の後期高齢者である。

家内の父は、私が定年退職時の2004年〈平成16年〉の秋の少し前に、病死されたので、
独り住まいとなった家内の母は、我が家より2時間は要する千葉県の八千代市に戸建てに住み続けて、
年金を頼りに程ほどの貯金を崩しながら、おひとりさまの生活ををされて、早や12年目となっている・・。

こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
ここ11年の恒例のようになっている。

そして家内は殆ど毎夜、家内の母の本日の出来事と安否状況を確認する為、
電話連絡をしている。
          
こうした上 家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、
『要支援2』となっている。
            

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、昨年の6月頃から膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査、治療が加わり、昨今はリハビリ設備が良い病院に転院したりしてきた。
そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなっている。

昨今は家内の妹も支援に加わって頂き、姉妹でお互いに交代で通い、
家内は以前のような7泊8日前後から、短めの駐在期間を幾たびしているが、実態となっている。

そして家内の母は、『要支援2』の福祉サービスとしての配食サービス、家事支援を険悪し、
日々意欲が減退して、すへて娘ふたりに頼っている。

こうした中で、リハビリ設備が良い病院に週2回通院しているが、タクシーで往還しているが、
歩けなくなったら寝たきりになるし、認知症にもなると、娘ふたりは危惧して付近のスーパーなどに母を引率して、
を歩くことにさせている。

しかしながら、私たち夫婦が齢を重ねて、いつ日にか介護の身となっても、子供はいないので、
家内の母のように娘ふたりに、縋(すが)ることもできないである。
            

この間、家内が母宅に行っている時は、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしてきた・・。
         
私は家内より先に、あの世に行くことは漠然としながらも深めているが、
この世の中は、まさかの予期せぬ出来事に遭遇することがあり、
私を残して家内が先き立たつことも考えられるので、
『おひとりさま』の特別演習だ、と自身を叱咤激励して過ごしている。
        
しかしなが平素の私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っているが、
食事、掃除、洗濯の手抜き簡略などに関しては、
このサイトで幾たびか記載してきたので、今回は省略する。
            

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始めた身である。
 
こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
                                 
やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。
            

このように私は学んできたので、ここ数年は私たち夫婦は、ときおり『おひとりさま』になった時の話題を、
ときおりしている。

過日、私たち夫婦は最寄の銀行に行った帰路、ある地域福祉センターを通り過ぎ、
センターから何かしら集会があったらしく、談笑と歓声が私は聴こえてきた・・。

やがて私たち夫婦は、遊歩道を歩くながら、
『僕がおひとりさまになったら・・家に閉じ込まらなくて・・ああした地域福祉センターで、
私は定期便のように通うと思うょ・・』
と私は家内に言ったりした。

私は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、男の癖に小学5年生の頃から、おしゃべりが好きで、
年金生活の今でも、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。
            

私は音楽業界のあるレコード会社に勤め、定年退職の5年半前、リストラ烈風の中、
各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流センターに出向となり、
センター長をはじめ私も含めて5人の正社員の基で、パート女性30代~40代が多い130名前後、
そして契約社員、アルバイトの男性20代が多い10名前後の職場に勤めたりした。

こうした中で休息時間、或いは懇親会などで談笑を重ねて、多々学び、貴重な体験をしてきたので、
数多い人の中でも、公明正大に談笑ができるタイプてもある。


今回、遅ればせながら地域包括支援センターのことを学び、
何よりも《・・介護の必要がなくても、誰でも利用できる。・・》、
《・・介護予防のための体操教室や談話会など・・》を知り、微笑んだりした。
            

私はおひとりさまになってしまった時、相変わらず古惚けた自宅を出て、
トボトボと歩いて、地元にある地域包括支援センターに殆ど毎日通い、数時間を過ごす・・。

そして私はコーヒーを飲みながら、或いは昼食を共に頂きながら、70代が多いと思われるが、
XXさん、と私は呼ばれたり、やがて同世代の女性からでも、
XXちゃん、或いはXXクンと苗字で、呼ばれることを夢想したりしている。

この後、コーヒー代、昼食代を支払い、わずか700円以下が多いと思われ、
何よりも数多く同世代と共に数時間を気楽に共有して、談笑できるので安らぎのひとときと思える。


やがて帰宅後は、この日の夕食、翌日の朝食の為にスーパーに買物した後、
自宅付近の遊歩道、公園を散策する。

その後は、随筆、ノンフィクション、小説、近現代史、総合月刊雑誌などの読書とし、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くと思われ、独りを愉しむ時を過ごす。

このように過ごせば、たとえ私は『おひとりさま』になっても、心身のバランスが保てる、と微笑んだりしている。

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白木蓮(ハクモクレン)、そして紫木蓮(シモクレン)、ささやかな私の想いは・・。

2016-03-08 16:29:56 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
本日の午前中、いつもように買物に行ったが、帰路は住宅街を通り過ぎた・・。

こうした中、辛夷(コブシ)の花は少ないが、純白の木蓮(モクレン)が数多くの家で咲いていたので、
こっそりと撮ったりした。
            

やがて自宅に向い歩いていた時、私は微苦笑したりした。

40年近く前、私は一軒屋を建てようと、住宅ローンの資金融資の依頼で、
駅前の大手の都市銀行を二行ばかり寄ったりした。

私なりの返済計画書を携えて、銀行の融資担当の方に懸命に説明し、
融資の依頼をしたのであるが、いずれも結果として断られたりした。

やがて私は、駅前の二行の銀行から去り、住宅街を落胆しながら、彷徨(さまよ)うように歩いたりした・・。
このような時に、ぽっかりと純白の花が見知らぬ家の庭先で見えたりした。

その後、小さな地方銀行で融資を受けて、
私は一軒屋を構え、18年のローンの重荷となったが、やがて50代の初めに完済がしたりした。

この間、家を建てはじめた後、実家にある紫木蓮があり、
その脇にあった小さな紫木蓮の幼樹を2本を貰い受け、一本は主庭に植え、もうひとつは玄関庭に私は植え込んだ・・。

頼りない幼樹であったが、5年過ぎた頃から、暗紫紅色の花が咲きはじめた・・。
私は幼年期、実家にあった大きな紫木蓮があり、
この世で初めて美麗の花と感じた想いで樹木であったので、私はひとしお喜んだりした。
                    
                     ☆5年前の3月下旬に、たわむれに撮ったりした☆

  
                 ☆一昨年の4月上旬に、たわむれに撮ったりした☆

            
                 ☆昨年の4月上旬に、たわむれに撮ったりした☆

この10年、幹元も10センチ、樹高も高くなり、私は剪定をしたりしている。

この3月上旬には、莟(つぼみ)を数多く枝先があるが、小鳥が定期便のように飛来し、啄(つい)ばんでいる。

私は半分程残してね、と小鳥を見つめているが、玄関庭にある方は9割方食べつくしている。
主庭にある方は、私はときおり小鳥を睨(にら)んだりしているので、2割ほど残っている。


確か10年前頃、駅前に出た時、融資を断られた大手の都市銀行の二行は合併し、
どうしてなの、と微苦笑している。

そして、私が融資を受けた小さな地方銀行は、私は恩義を感じて、年金の振込み先、国債の購入先に利用させて頂いている。

このように私には、純白の香(かぐわ)しい匂いの美麗な白木蓮は、苦い思いが重なり、
紫木蓮は幼年期から、大きな莟の後、暗紫紅色の花が咲きはじめた情景は、
まぎない美と秘かに思い続けているので、片思いのような心情で見惚(みと)れて、60数年ぐらいなっている。

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マイナス金利に伴い、個人のお金 流れ変化を学び、老ボーイの私は微苦笑を重ねて・・。

2016-03-07 16:24:00 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
朝食後に、配達された読売新聞の朝刊を煎茶を飲みながら、読んだりしたが、
ひとつの記事を読んだりした後、やがて微苦笑させられた・・。

私が微苦笑した記事は、2ページの【総合】面に掲載されていたひとつの記事で、
【 個人のお金 流れ変化 】と縦列に大きく見出しされ、【 マイナス金利 】と横列に明記されていた。

そして『住宅ローン』、『運用先』、『若年層にプラス』と3つのテーマで構成されていた記事であり、
私は『住宅ローン』は、50代の初めに完済したので、興味はなく、これ以外を無断であるが、記事を転記させて頂く。

《・・日本銀行のマイナス金利政策で、個人のお金の動きに影響が出始めた。
住宅ローンの金利が下がり、大手銀行4行の2月の借り換え申込件数は、前月の4倍近くに急増している。
一方、預金の金利も大幅に下がり、利息収入を上回る期待がある運用先が注目を集める。
            

☆運用先

一方、銀行は預金の金利も下げている。
大手行の定期預金は年0・010%と、100万円預けても1年後に100円しか増えない。
このため、少しでも有利な運用先を探す投資家が多い。

年0・050%の最低金利が保証されている個人向け国債の販売が急増している。
3月発行分の固定金利型(5年物)の販売額は311億円と、前月の2・5倍になった。

百貨店の顧客向け積み立て優遇サービス「友の会」は、その百貨店でしか積立金を使えない代わりに、利回りが高い。
各社で異なるが、毎月1万円を1年間積み立てて、13万円分の買い物ができる仕組みの場合、利回りに換算すると年約8%だ。
大丸松坂屋百貨店では、2月の新規入会者が前年同月の約3倍になった。

金も売れている。金は比較的価値が下がりにくい資産として注目されている。
地金を販売する田中貴金属工業では、2月の販売量が前月の1・5倍で、広報担当者は「初めて購入する人も増えている」と話す。
直近の地金の価格は1月平均より約1割上昇している。

三菱UFJフィナンシャル・グループは「劣後債」と呼ばれる債券を個人向けに発行する。
比較的リスクが高い代わりに、発行から5年は金利が年0・35%。
人気を見込み、募集額を2000億円と当初の2倍に増やした。
            

☆若年層にプラス

第一生命経済研究所は、住宅ローンと預金の金利の変化の影響を世代別に試算した。
マイナス金利政策で、住宅ローン残高が多い若年層はプラス効果が大きい一方、
預金が多い高齢者層には、悪影響が出そうだ。

29歳以下の場合、ローン負担が年5900円軽くなる。
利息収入も年1100円減るが、差し引き年4800円の恩恵となった。

一方、住宅ローンを完済した人が多い70歳以上の世代では、ローン負担の軽減は年700円。
預金の金利収入は、年1万2500円減り、年1万1800円の所得減と試算された。

政府の家計調査や住宅ローンに関する調査などを基に分析した。
星野卓也氏は「高齢者を中心に、比較的リスクの高い運用先へお金を移す動きが、加速するのではないか」と指摘する。・・》
            

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたが、
この間、幾たびかリストラがあったりしたが、何とかくぐり抜けたが、最後の5年半はリストラ烈風となる中、
出向となったりした。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をすれば、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりした。

そして定年退職後は年金生活を始めて、丸11年が過ぎ、早や12年となっている。
                        

世の中は少子高齢化の時代となり、社会保障費の年金、医療、介護などが膨張のする中、
私たち夫婦が頂いている厚生年金も年々削減されてきた・・。

我が家の年金生活の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

もとより年金は削減されてきたので、貯金は減ることがあっても、増えることがない実態となっている。

こうした中で、私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりする時もある。
                        

こうした中で、我が家の銀行、郵便局、信託銀行などの貯蓄は、安全利回りが原則で、周知の通り金利はわずかである。

2004年(平成16年)の秋に定年退職し、年金生活を始めた直後、私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、
銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約したりした。

こうした時、ある銀行の窓口で私の退職金を引き出した時、支店長から応接間に招待され、
支店長から『一時払い終身保険』を私たち夫婦に説明して頂ながら、勧誘させられたりした。

しかし10年間の運用利回りが良いと言われても、長期に及び資金が固定されてしまうので、
魅力は感じることなく、対象外とした。

この直後、支店長から3分の2はある投資信託で高い金利、残りの3分の1を安全利回りで運用されれば確実に増えます、
と勧誘するように助言されたりした。

そして支店長が自分もしていますよ、と自身の投資額と金利の推移表のカードを
私たち夫婦に見せて、先月は5万少し・・と提示して、微笑みながら勧誘した。

しかし私たち夫婦は、もとより金利の変動は良いことあれば悪いこともあり、
悪化しマイナスになった場合は、残された人生に狂いが生じるので、安全な国債などした。

私は小心者のせいか株、投資信託などのハイリターン、ハイリスクで、
残された大切な人生に一喜一憂するのは、何よりも心身によくないと思ったりした。

そして、貯金関係は殆ど国債の元本保証プラスわずかな金利、そして定期貯金を選定したのである。
                                              

こうした私たち夫婦の根底には、バブル期の終了まじかに、投資信託に失敗したことがあったことが主因であった。
バブル期、私は現役のサラリーマンであり、同僚たちが盛んに株の売買で、高揚していた。

そして私は基本的な私たちの生活資金として、この当時は預貯金は1000万に到達していない上、
小心者の為に株のハイリターン、ハイリスクは避けて、ボーナスを頂くたびに定期貯金に加算したりしていた。

やがてある証券会社より、投資信託の勧誘のパンフレットが郵送され、
何かしら四半期毎に8%~12%の利回りがあった、と直近の四半期実績推移表が添付していた。

こうした中で、私は天下のXX証券が、世界中の資金を運用するプロの集団だから、と信頼して、
取りあえず100万円だけ、我が家は投資した。

やがて一年過ぎた頃、結果として元本の100万円の消えて、精算は85万円にお詫び状が付いていた。
そして我が家は少なくとも15万円も損失したので、これ以来どのような証券会社より勧誘が来ても、
無視をしたりしてきた。
                                 

我が家は国債を二千万円足らずを購入しているが、絶対的に大丈夫、と問われれば、
『国債が駄目になった時は、日本が滅びる時である・・その時は私たちの生命財産はもとより保障されないので・・』
と私は今でも公言をしている。

このように我が家は預貯金に関しては、元本保証プラスわずかな金利主義となっている。

確か年金生活を始めた翌年の2005年(平成17年)頃に、
外資のシティバンクが新聞に《・・金融資産1億円の方に・・》と掲載していた。

私はこっそりと読んだりしたが、金融資産と住宅の敷地の固定資産評価額を加算したら1億円は超えるが、
とても金融資産1億円は・・と項垂(うなだ)れたりした。
            

今回の記事に於いて、《・・金は比較的価値が下がりにくい資産・・》、
或いは《・・「劣後債」と呼ばれる債券を個人向け・・》と記載されていても、
やはり私は小心者のせいか一喜一憂するのは、何よりも心身によくないと思ったりした。

しかしながら《・・百貨店の顧客向け積み立て優遇サービス「友の会」・・》は、
お得感があるよなぁ、と関心をした。

私は家内の指示により、年に数回ぐらい家内と共に、デパートで私の衣服を買い求めたりしている。
そして程ほどの衣服を購入して、最初は旅行、都心で懇親会など外出として、
やがて平素の買物、散策で愛用し、最後には庭の手入れの時に着ているが、
大半は10幾年長らく愛用しているのが実態となっている。

こうした中で、我が家は乗用車、スマホも所有できず、家内だけが遅ればせながら携帯電話を半年前に覚え、
時代遅れの国民となっている。
まして海外旅行は、英語を思いだすように単語を並べる程度しか言えない私は、遠い異国の世界である。

更に世界の有数なクルーズ航路、別荘、ヨットなどは、遥かに遠い彼方のことであり、
せめてと思いながら国内旅行をして、各地の四季折々の旅路を幾たびか遊学している。
                                

平素の私の午前中は、年金生活を始めて以来、 平素の買物は自主的に専任者となった私は、
家内の依頼された品物を買い求めに、独りで殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

我が家は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
                                
帰宅後も、再び独りで自宅から数キロ以内の住宅街、遊歩道をひたすら歩き廻ったりした。

こうしたことは年金生活が丸11年過ぎ、早や12年生になっているが、
国内旅行、冠婚葬祭、都心に買物、天候の悪化がない限り、私の午前中の定例行事ようになっている。

こうした根底のひとつには、認知症だけは勘弁してょ、と念願して歩いたりしている。             

そして私は70代の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら日々散策している。
            

今回の記事で、何よりも微苦笑させられたのは、
《・・高齢者を中心に、比較的リスクの高い運用先へお金を移す動きが、加速するのではないか・・》と読んだ後、
老ボーイの私に取っては、昨今の流行(はやり)言葉で表現すれば、びっくりぽん、である。


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断食を少し学習して、やがて勘弁して欲しい、と軟弱な私は微苦笑を重ねて・・。

2016-03-06 15:05:39 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であり、
昨年9月中旬、市から年に一度の『特定健診』を受診し、
そして希望者には胃がん、大腸がんの検診があり、私は毎年受診してきている。

こうした中で、大腸がんの検診は、事前に指定された容器に検便を前日、当日分として採り、
提出することとなっていたので、予定通り特定健診日に提出した。

やがて2週間が過ぎた頃、『特定健診』の結果の問診を受け、
大腸がんの検診に限り、検便が二つのうちにひとつが少し血が混じっている、と私は担当医師から告げられた。

私は生れて初めてであったので、風の噂で《大腸の内視鏡の検診》は、
肛門から内視鏡で盲腸まで約1メートルを挿入すると聞いてきたので、勘弁してほしい、
と思いながら、もう一度を検便の検査を受けさせて下さい、と私は医師に懇願した。
            
              ☆掲載した写真すべては、本日の散策で撮った☆

そして数週間過ぎた頃、再挑戦したが、やはり二つのうちにひとつが少し血が混じっている、と判定された。

こうした中で、私は白内障の左眼、右眼の手術が迫ってきたので、
《大腸の内視鏡の検診》は、来年にしょうと決意した。

やがて本年の一月下旬、『特定健診』を受けた医院長より、紹介状を頂いた上、
最寄駅の近くにある胃腸科病院で、大腸の内視鏡の依頼した。

やがて担当医師に、検便の状況を報告し、問診を交わした後、
この後、40代の顔立ち綺麗な女性の看護師さんより、私は質問された。

『検査前には腸内を空にする必要がありますので、検査日の当日の朝に来て頂いて、検診されますか?』
と看護師さんは優しく私に言った。

『午前中に何かしら下剤を飲み、腸が綺麗になった後に検査ですので、短期決戦のようですねぇ・・』
と私は看護師さんに言ったりした。

『この他に検査前と致しましては、前日より下剤をお飲み頂く方法がありますょ』
と看護師さんは優しく私に言った。

『高齢者にやさしい検査前の方法で、ソフト・ランディグですねぇ・・』
と私は看護師さんに微笑ながら言ったりした。

『・・』
看護師さんは微笑んだりした。
          
『私は気弱い身ですので、短期決戦のハード・ランディグより、ソフト・ランディグでお願いします』
と私は微苦笑しながらながら看護師さんに言ったりした。
          

この後、看護師さんは具体的に検査前日の食事、下剤薬の説明をして下さった。

◎2月29日(月)・・検査2日前
食事は普段通り。
就寝前に、『下剤(プルゼニド)』を2錠呑む。

◎3月1日(火)・・・・検査前日
便やカスを腸内に残さないように、参考メニューを受けた。
朝食・・おかゆ(練り梅、卵雑炊風、鮭雑炊風に味付け。ただし、ネギなどの繊維質は避ける)
    うどん(素うどん)
    味噌汁、スープ、澄まし汁などは、具を少しにする。

昼食・・朝食と同様

間食・・ビスケット、クラッカーなど5~6枚
    アメ、ガム、氷砂糖
    水分(お茶、炭酸飲料、粒の入っていないジュース、砂糖湯)

夕食・・形のある食べ物は絶対に避ける。
    スープ(具の入っていないもの)

夜9時頃、『下剤(プルゼニド)』を2錠呑む。そして粉末【下剤(マグコロール)】を水150mlに溶かして飲む。

◎3月2日(水)・・・・検査当日
食事は摂(と)らない。
朝7時頃、粉末【下剤(マグコロール)】を水150mlに溶かして飲む。

    水分(お茶、炭酸飲料、粒の入っていないジュース、砂糖湯)
    アメ、ガム、氷砂糖は可。

内視鏡の検査・・・午後1時30分~

このように40代の顔立ち綺麗な看護師さんより、私は説明をして下さった後、
『下剤(プルゼニド)』を2錠の2セット、そして白い粉末の入った2セットと紙コップを私は手をされた。
            

やがて私は、この検査前の指示書に基づき、何かと小心者の私は忠実に守り、
食事、、『下剤(プルゼニド)』の錠剤、或いは白い粉末の【下剤(マグコロール)】を水150mlに溶かして飲んだりした。

そして白い粉末の【下剤(マグコロール)】は、年に一度の『特定健診』の胃の検査で飲みバリウムより、
ジュースのような味が加味されて飲みやすかった。

そして検査日の本日は、昨夜は夕食も摂らず、白い粉末の【下剤(マグコロール)】の効果の為、
早朝4時、やがて10時、12時と三度ばかりトイレに特別便となったが、
宿便はとれたかしら、と私は微苦笑した。

やがて最寄駅の近くにある胃腸科病院に予約時の午後一時半前に、到着して待合室で待機していた。
まもなく60歳前後の看護師さんより、上は作務衣風、
下半身は検査の為、レインウェア風の生地で御尻だけが開けようになっていたので、
私はもっともだよねぇ、と心の中で呟きながら微苦笑した。


そして予定時に40代の顔立ち綺麗な看護師さんより、血液検査の注射、
肩の近くに大腸を静止させるの注射をして頂き、何かと単細胞の私は麻酔を素直に効果し、
この後の肝要の大腸の内視鏡の検診は、気を失って眠っていた。
            

目覚めると60歳前後の看護師さんより、検査は終わりましたので、
水分補給を中核とした点滴をしたが、一時間近く要した。

この間、私は下腹部が張り、こうした状況を60歳前後の看護師さんに尋ねると、
水分不足でおならを出せば、解消するはずです、と享受されて、
私はこっそりと点滴を右腕の手首に受けながら、腰と足を動かして、10回くらいおならをすると、
確かに楽になったりした。

やがて大腸の内視鏡の検診をして下さった医院長より、
大きなポリープはふたつ有り、摘出して傷口は出血防止の為、クリップで縫逢し、
小さなポリープは6ばかり有り、いずれワイヤーで摘出しました、
と私に説明して下さった。

こうした中で、悪性腫瘍であれば、癌に進むこともあり、
よくみられるポリープと思われますので・・と医院長より私は言われて、御礼の言葉を重ねたりした。

そして、今後一週間はおかゆ、うどん、スープなどの消化の良いを食べて下さい、
と教示されたりした

この後、受け付けて精算した後、内視鏡検査(病理検査)の結果は10日過ぎた頃に来院して下さい、
と私は言われたりした。

今回のポリープ摘出費用は、院内の告知表で、一割負担で10、000円前後、3割負担で25000前後から30、000円前後と明記
されていたので、私は二割負担の身であり、多くポリープがあっても20、000円で済み、
私は微笑ながら胃腸科病院を辞したのは、午後5時であった。
            

こうした中、私は一番戸惑ったのは、食事を一時的に断食することであった・・。
今回の場合は、検査の前日の夕食より、検査日の夕方まで、ほほ24時間を断食し、
検査の前日の昼食前まで、或いは検査後の夕食以降も、おかゆ、うどん、スープなどを私は食べたりしてきた。

平素の朝食は、五穀米の入ったご飯で、一汁七菜を愛食し、
夕食は鶏肉、豚肉、牛肉など大好きな私は食べていたので、大きく変貌し、
歌を忘れたカナリアのような心情となっている。

このような状況の為、平素の買物メール老ボーイで独りでスーパーに行っても、
その後の散策をしても、覇気がなく微苦笑を重ねてきた・・。

昨夜、断食はどのような内容かしら、と思い立ち、私はネットで少し学習をした。

そしてめぐり逢ったホームページは、【公的断食施設 五色県民健康村健康道場】であり、
私はこっそりと一部を読んだりした・・。

《・・医学的断食療法(ファースティング)の効果が現れる理由

ファースティングで効果が現れる理由は、大きく分けて3つあります。

1.減量による効果
2.減塩による効果
3.心身相関が高まることによる効果
            

ファースティングは、当然のことですが、最強の減量の方法です。
また、ファースティング中は、ほとんど無塩になりますから、これも最強の減塩法です。
この2つの強力な効果は、よく理解していただけると思います。

問題は、3つ目の心身相関です。
現代の治療医学は、高度に成長した医学ですが、病気になってからの医学です。

治療医学では、健康医学はできません。健康医学は、心身医学でなければなりません。
そして、今後の世界では、心身医学が中心になっていくと思われますが、
その心身医学の素晴らしい方法が、実は、ファースティングなのです。

(略)医学的断食療法(ファースティング)の効果は、心身相関を高めることによるものです。
医学的断食療法(ファースティング)は、心身相関を高める最も強力な方法です。

医学的断食療法(ファースティング)中は、
自分の体に蓄えられた糖分、蛋白質、脂肪を分解してエネルギーに変えて生きていきます。

このために、自律神経系、内分泌ホルモン系が強力に活動しなくてはなりません。
史上最強のレベルでの身体の活性化と言って良いでしょう。

一方、頭の中は、食物のことで一杯になります。
エネルギーは足りているので、空腹感はないのですが、
頭は会社のことも、家族のことも、過去のことも、自分の性格まで忘れて、食べ物の事ばかり考えています。
無にはならなくても無に近くなります。

そのうちハッと気づくと、食べ物のことも忘れ、うきうきとした爽やかな自由を感じています。
心身相関が極めて高まった状態です。

このように、医学的断食療法(ファースティング)の本当のメカニズムと価値は、
心身相関を学んで初めて理解できるものなのです。・・》
            

このようなことを私は読んだりした後、具体的に世にいわれる断食道場に於いて、
日々どのようなスケジュールになっているかしら、と検索したりした。
http://www.fyu.jp/dojo/houhou.htm
☆【公的断食施設 五色県民健康村健康道場】==>『医学的断食療法(ファースティング)の方法』☆

私は短い『7日間(ファースティングは3.5日間)』を見て、
ファースティング中は、脱水を防ぐために、
1杯が100キロカロリーの特製ジュースを朝、昼、晩と一日に3回飲み、
この他に2000cc 以上の水を摂取する、と明記されていた。

こうした状況を私は思い馳せると、私には無理です、勘弁して下さい、と思ったりした。

余談であるが、家内がテレビを視聴して、俳優の渡辺謙(わたなべ・けん)さんが、
胃がんの手術に伴い、三日間断食された、と私は聴こえてきた。
しかし渡辺謙さんは、意志の強い御方であり、私は軟弱な男であるので、とても・・と苦笑した。

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単細胞の私、思い馳せれば幼少年期の頃から、何かと思い込みが強く、思惑も強い児だった・・。

2016-03-05 14:17:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
先程、ぼんやりと小庭にある白梅が満開になった情景を見惚れていたが、
やがて私は幼少年期の頃から、何かと思い込みが強く、思惑も強い児だったよなぁ、と微苦笑したりした。
            

私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。

やがて私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉4月の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして小さな川が所有している田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

母屋の宅地のはずれに土蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

そして小田急線と京王線の間にサンドイッチのような辺鄙な処で、
京王線の最寄駅は『つつじヶ丘駅(当時は、金子駅)』か『仙川駅』であり、
児童の私としては、15分ばかりを歩いて『つつじヶ丘駅』に近い小学校に通ったりしていた。
                 

こうした中で、確か小学2年の晩秋だったと記憶しているが、
いつものように独りで小学校に向かい歩いていた時、
遠い親戚のお姉さんに偶然に逢い、駅前まで一緒に行くことになった。

お姉さんは、スカーフを首に巻きつけて、ワンピース、そしてハイヒールを履いて、
子供心に、かっこいいお姉さん・・、と私は感じたりした。

こうした中で、『お姉さん・・XX短期大学に行っているのょ・・』
と遠い親戚のお姉さんは、私に言った。

『ほんとぉ・・』
と私は答えた。

やがて駅前でお姉さんと別れ、小学校の校門に向かった時、
やさしそうなお姉さん・・短気な人ばかり集めた大学に行くなんて・・お姉さん・・短気の人と思えないが・・
だけど・・女の人って・・分からないょなあ・・》
と私はつぶやいた。
            


この当時、生家のラジオから、『青い眼の人形』の歌も盛んに流れて、幼年ながら鮮明に心に残った。

日本の著作権保護期間が過ぎたと思われるが、名作『青い眼の人形』を転記させて頂く。

♪青い眼をした お人形(にんぎょ)は
 アメリカ生まれの セルロイド

 日本の港へ ついたとき
 一杯(いっぱい)涙を うかべてた
 「わたしは言葉が わからない
 迷子(まいご)になったら なんとしょう」

 やさしい日本の 嬢(じょう)ちゃんよ
 仲よく遊んで やっとくれ
 仲よく遊んで やっとくれ

【『青い眼の人形』 作詞・野口雨情、作曲・本居長世 】

この歌を聴いて、まもなくした後、小学2年生の私はいつものように小学校に通学し、
下校の時に付近にある甲州街道に行った。
            

この当時の1952年〈昭和27年〉の頃は、ときおり自動車、トラックが走るぐらいであったので、
幼年の私としては、物珍しい自動車を見たりしていた。
こうした中で、たまたま進駐軍のジープが府中にある基地から都心に向けて走ってきた。

先頭のジープには、四人の兵士が乗り、後部座席の二人の兵士は、カービン銃を右手に掲げていた。
そして大きな自動車が続き、最後のジープも兵士はカービン銃を右手に掲げていた。
いずれの3台もスピードを上げて、疾走した・・。

こうした情景を見惚(みと)れていた私は、この時に『青い眼の人形』の歌が甦(よみがえ)り、
日本を占領した進駐軍であるが、日本人に対し、アメリカ人と仲良くしてほしい、
と敗戦後に作られ宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのである。

『ちぇ、しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と私は心の中で屈折の多い多感な幼年であったりして思ってしまった・・。
            

日本は1945年〈昭和20年〉8月15日に、世界第二次大戦のひとつの大東亜戦争に敗退した。
そして日本の戦争の終結に際して、
ポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍の連合国最高司令官総司令部が配置され、
「連合国軍」の名の下で、多くの職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人、少数のイギリス軍人で構成されていた。

そして、こうした占領軍は、日本の国民の多くは進駐軍と呼び、ひたすら恐れ慄(おのの)き
その後の1952年(昭和27年)4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効されるまで、
続いたのである。

こうした進駐軍の圧政下、日本人の大人はもとより子供まで感じとっていた社会風潮の時代であった。
このような状況下であったので、幼年の私でも、
『ちぇ、しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と何かと感じ取ることが多かった・・。
            

後年、1966年〈昭和41年〉の若き22歳の前後、文学青年の真似事をしていた時、
野口雨情の『青い眼の人形』を調べた時、1921年(大正10年)12月、童謡雑誌「金の船」に発表と知り、
私は動顛してしまった。

大正リべリズムの下、「国際愛を歌った」と野口雨情は語っていて、
野口雨情は、キューピーから思いついたのは、青い眼の人形であり、
アメリカ生まれのセルロイドは、キューピー人形のことである、と学んだりした。

そして、おもちゃのキューピー人形、青い眼の人形は、
アメリカから親善使節として、日本の子ども達にたくさん送られてきたが、第二次大戦により焼かれる運命を迎えた、
と知ったりした。

人は誰しも誤りがある、と古来より伝えられているが、
幼年期の私は『青い眼の人形』の歌は、敗戦後に作られ進駐軍の宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのは、
もとより大きな誤りであった・・。

遥か以前の1921(大正10)年12月、童謡雑誌「金の船」に発表した作品であり、
初めて気付き、無知ほど怖いものは無い、と大いに反省させられながら、赤面して下を向いたりした。
            

このようなことが幼少年期の頃から、何かと思い込みが強く、思惑も多々あり、
怪我は治ることもあるが、性格は治(なお)らないなぁ、と老ボーイの私は微苦笑したりしている。

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安倍首相の消費増税の再延期案に、真摯に賛意、と無力な私でも、深く思い重ねて・・。

2016-03-04 15:32:59 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
昼食後、ぼんやりとネットでニュースを見たりした。

こうした中で、【 安倍首相の消費増税再延期に 小泉元首相が思わぬ“援軍” 】と見出しされ、
私は好奇心に負けて、クリックして記事を読み、やがて微苦笑を重ねた。

私が読んだ記事は、【週刊文春】2016年3月10日号に於いて、『THIS WEEK 政治』で、
3月3日に公開、配信して下さった記事であり、無断ながら転載させて頂く。

《・・2017年4月に予定する消費税率引き上げを巡り、永田町がざわつき始めている。

2月26日の衆院総務委員会で、安倍晋三首相は「世界経済の大幅な収縮」が起きれば、消費増税を延期する考えを示した。

答弁を受けて、菅義偉官房長官も記者会見で、
「税率を上げて、税収が上がらないようでは、消費税を引き上げることは、あり得ない」と明言したのだ。
            

消費増税再延期に永田町が震撼するのは、衆院の解散時期とも密接に関係するからだ。

「甘利明・前経済再生担当相の政治資金問題や宮崎謙介前衆院議員のゲス不倫問題など、
自民党議員への信頼が失墜する一方で、民主・維新が合流し野党候補の一本化も進んでいる。

参院選単独なら、与党の驕りにお灸を据えたいと、思わぬ厳しい結果が出かねない。
98年の参院選では予想外の大敗で、橋本政権は退陣に追い込まれた。

一方、政権選択の衆院選なら、そこまで厳しい評価にはならないと読んで、
官邸はダブル選挙もできるよう準備を進めている。
その際、増税再延期は解散を打つのに、便利な大義にもなりうる」(自民党関係者)

解散の障害になりかねなかった衆院の定数是正問題でも、
安倍首相は議員定数の10削減で、党内調整を進めるよう指示を出した。

消費税を巡っては、公明党が主張した大幅な軽減税率適用を、官邸の指示で自民党がのまされ、軋轢(あつれき)を生んだ。
            

「麻生太郎財務相の反対を、菅官房長官が押し切る形になり、しこりを残した。
麻生氏は軽減税率に不満を隠そうとせず、今国会でも『混乱は間違いなく、ある程度起きると覚悟していかないと』、
『(中小企業が廃業に追い込まれる)例が1つや2つ、百や千あったとか、いろいろ出てくると思う』と答弁し、物議を醸した。

さらに、1兆円程度の軽減税率の財源も見つかっておらず、安倍氏や菅氏は『ならば増税を見送る』との構えです」(官邸関係者)

思わぬ“援軍”も現れた。
原発政策では安倍首相と対立する小泉純一郎元首相だ。

2月25日に発売された単行本『小泉純一郎独白』で、こう語っているのだ。
「軽減税率なんて、高所得者対策なんだ。公明党は必死でやっているけど、最悪だよ」

「軽減税率を設けるぐらいだったら、消費税率を上げないほうがいいよ」

安倍首相の結論は、小泉氏の持論と一致し、この4年で3回目の解散となるか。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は消費税が現行の8%から、公約したような2017年4月により10%にするは、
反対である。

こうした私の根拠は、政治、経済にも疎(うと)い私が、元財務官僚の橋洋一(たかはし・よういち)さんの書物から多々学び、
昨今では信愛できる御方と思い深めている人である。

たまたま2月24日に、愛読している【現代ビジネス】を見たりしていた中で、
【 アベノミクスついに沈没 「消費税8%」がすべての間違いだった 】
と見出しを見て、橋洋一さんの寄稿文と知り、私は衝撃を受けた。

高橋洋一さんは、元大蔵・財務官僚、経済学者であり、
専門分野は財政学であり、財政、マクロ経済、年金数理、金融工学など専門家である。
もとより金融政策にも詳しく、第1次安倍内閣では経済政策のブレーンを務めた御方である。

この記事の原文は、『週刊現代』2016年2月27日号に掲載されて、
【現代ビジネス 】に2月24日配信された記事のひとつであり、無断ながら転載させて頂く。
                       
《・・
☆失われた20兆円

'12年の年末、アベノミクスが始まった当初、日本のGDP(国内総生産)は順調な成長を続けていた。
アベノミクス開始時のGDPが約517兆円。
これが、'14年3月には実に約535兆円にも達した。

ところが、'14年4月の8%の消費税率導入を境に、状況が一変した。
'14年度第2四半期までに、GDPが一気に約14兆円も急落してしまったのだ。

その後もGDPは伸び悩み、直近野'15年7~9月期の数字は約530兆円。
私の試算では、仮に消費増税さえしていなければ、
GDPはその後も右肩上がりの成長を続け、今頃は約550兆円まで達していただろう。

差額は20兆円。これだけの金額が、増税によって失われたのだ。

この20兆円分の伸びがあれば、物価も上昇し、賃金も消費も好調という、良好な循環が生まれ、
昨年中には「デフレ脱却宣言」ができただろう。
日経平均株価も2万円台、為替も1ドル=120円の水準は保てたはずだ。

そもそも、GDPの6割を個人消費が占めている以上、増税による消費減退で、GDPが下がるのはわかりきっていた。

増税の影響で失われた20兆円のGDPを国民一人頭で割ると、約15万円。
所得が15万円も下がったと考えれば、買い物をする気が失せるのも当然だろう。

いま、日本では格安商品ばかりが売れる、デフレ時代と同じ状況が生まれている。
アベノミクスの目標である、2%の物価上昇に相反する事態が起きているわけだ。
だが、経済学の常識からして、増税すれば物価が下がるのは、自明の理だ。

優秀なはずの財務官僚たちは、そんなことすら理解できていなかった。
自分たちの歳出権を拡大するため、なんとしても消費増税を可決させようと、
「増税をしても、GDPは下がらない」という机上の空論を組み立て、押し切った。
                         

☆5%に戻すしかない

失われた20兆円のGDPから試算される消えた税収は約5兆円。
一方で、消費増税で増えた税収は約8兆円。

「3兆円多いのだから、増税のほうがいいのでは」と思うかもしれない。
しかし、冷静に考えると、増税によって税収を8兆円増やすのと引き換えに、
一人当たり15万円のGDPを吹き飛ばしてしまったのだ。
これが日本経済に与えたダメージは、計り知れない。

収益が上がらないのに税負担だけを増やしたので、企業は苦しみ、賃金も上がらない。
消費も当然伸び悩む。
アベノミクスの理想とは、真逆の悪循環にはまりこんでいる。

結局、無知な財務官僚が身勝手な思惑で、推し進めた増税で、国民は8兆円を取り上げられたあげく、
本来、得られるべき所得までを失ったのだ。

この状況に、本来であれば、「責任をもって2%の物価上昇を達成させる」と明言している日銀の黒田東彦総裁こそが、
「増税で物価が上がらないのなら、失敗を認めて減税するか、景気対策をしてください」と政府に強く進言すべきだろう。

だが、黒田総裁は「消費増税で、成長が大きく損なわれることはない」と繰り返し発言してきた手前、今更もう何も言えない。

起死回生のマイナス金利政策も、消費増税のダメージが大きすぎたため、いまのところ本来の効果が出ていない。
            

もし、安倍政権が予定通り、'17年の春に10%への増税を実行すると、どうなるか。
8%増税の時と同じくらい、いや、それ以上の致命的なダメージを引き起こすだろう。

3%の増税で、GDPが14兆円急落した。
ということは、上げ幅が2%なら、単純計算で約10兆円のGDPが一瞬で失われる。
さらに、今回は中国経済失速などの要因も加わるため、長期的に考えれば、8%増税時を上回る規模のGDPが失われる可能性がある。

消費増税が引き起こした負の連鎖から脱却するには、いますぐにでも消費税を5%に戻すのがベストなのは、言うまでもない。
だが、政府もいまさら引き返せないだろう。
            

それでも、本気で景気回復を目指すのならば、取れる策は消費減税の他にもいくらでもある。

例えば、国の特別会計上で余った資金、すなわち、いわゆる「霞が関埋蔵金」を使う手だ。
「外国為替資金特別会計」には、円安の含み益の約20兆円、「労働保険特別会計」には、約7兆円もの埋蔵金がある。
これを原資に、国民に10兆円規模の給付金を配り、増税の痛みを和らげる。

この「埋蔵金10兆円バズーカ」をぶっ放し、景気に良好な刺激を与えて上向かせたところで、
日銀が一気に、金融緩和を推し進め、国債の購入量を今の80兆円から100兆円まで増やす。

極端な話に聞こえるかもしれないが、ここまでしてようやく、「8%増税の呪縛」は払拭される。
それほどまでに、消費増税が日本経済に与えたダメージは大きい。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は前回2014年4月に8%の消費税率が導入する一年前の頃から、
少子高齢化の中、社会保障費の年金、医療、介護などが毎年1兆円に膨張して・・盛んに大手メディアから報じられて、
私は高齢者の年金生活の身であったので、やむえないなぁ、と安易に賛意した。

やがて実施後、政府はもとより、無力な私でも消費低迷が実感させられて、果たして・・と思ったりしてきた。

思い馳せれば、1997年(平成9年)4月、橋本内閣時代、消費税率を3%から5%に引き上げ、
国内総生産(GDP)は前年度0・7%減となり、23年ぶりのマイナス成長となった。

そして翌年の7月、第18回参院選に於いて、自民党は改選議席61から44へ惨敗し、
翌日に橋本首相は、自民党総裁辞任を表明された。

せっかくの経済復興基調を感じてきた私は、消費税率の引き上げで、芽を摘んでしまった、
と私は悲嘆したりした。

そして欧米主要国と違い、日本は消費税に過敏に険悪する人が多く、消費は低迷するので、
消費税率の引き上げをしなく放置すれば、購買意欲のある日本は消費が向上し、
結果的には全般として税収が高まる、と学んだりしてきた。
            

こうした根拠のひとつには、小泉純一郎首相の長き時代(2001年4月~2006年9月)、
小泉純一郎首相は一度も《消費税》を公言したこともなく、怜悧に国民心情を汲み取った、
と私は感じ深めて、消費税に対する私たち国民が感じる心情を学んだりした。

このような学んできた私としては、2017年4月により消費税率の引き上げ10%にするのは、反対である。

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ひとつの新聞の記事に、慟哭させられて、やがて涙を浮かべて・・。

2016-03-03 17:41:04 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
昨日の朝は6時過ぎ、購読している読売新聞の朝刊を読んだりした・・。

こうした中で、ひとつの新聞の記事を読み終わった後、
慟哭させられて、やがて涙を浮かべたりした・・。

この記事は、一面にある定例記事の【編集手帳】であり、
私は長らく愛読しているエッセイであり、特に昨日の3月2日は、震撼させられたりした・・。

無断であるが、転記させて頂く。
            

《・・頼山陽の『日本外史』巻九に、戦国武将の三好長慶(ながよし)を語った一節がある。
〈長慶老いて病み、恍惚(こうこつ)として人を知らず〉(岩波文庫)。
人を識別できなかった、と。

有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』の表題は、この記述に想を得たという。

いつの世にも悲しい病である。
最高裁は、家族に賠償責任はないとする判決を言い渡した。
認知症で徘徊(はいかい)中の男性が、列車にはねられて死亡した事故をめぐり、
振り替え輸送費など賠償責任の有無が、問われた裁判である。

読売歌壇に載った歌がある。
〈我がいのち一日ひとひ伸ばすに妻はいのち一日縮むる老老介護〉(阿部長蔵)

伴侶や親を見守る目配りに、労を惜しむ人はいない。
高齢者同士の老老介護や遠距離介護では、それでも目の届かぬときがあろう。

認知症患者のもたらす被害をどう救済するかに課題を残しつつも、
まずは穏当な判断と受け止めた方が多いはずである

孝行息子の頼山陽は詩に詠んだ。
〈五十の児に七十の母あり/この福、人間、得ることまさに難かたかるべし〉。なんと幸せなことか、と。

いまは八十の子に、百の母さえめずらしくない長寿社会を、人は生きている。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
           

私の父は私が小学2年の時、肝臓を悪化して、通い医師から治療に基づき、自宅で養護していたが、
まもなく死去された。

そして私の母は私が49歳の時、婦人系の癌が発見された後、日赤病院で入退院を繰り返して、
やがて5年後に無念ながら亡くなった。

家内の父は私が54歳の時、腎臓の癌が発見された後、東邦大学病院で入退院を繰り返して、
やがて私が定年退職時の直前に、死去された。

いずれも認知症にはならず、病死された。

このように我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、我が家から遠い地で独り住まいをしていますが、
家内の母は自身の身の周りは出来ても、長女の家内は季節の変わるたびに、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどで、
7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、ここ11年の恒例のようになっている。

そして家内は殆ど毎夜、家内の母の本日の出来事と安否状況を確認する為、
電話連絡をしたりしている。
          
こうした上 家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、
『要支援2』となっている。

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、
昨年の6月頃から膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査、治療が加わり、
昨今はリハビリ設備が良い病院に通院し、家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなったりしている。
            

だれしも齢を重ねれば、老化し、或いは認知症になる場合があり、
私は亡き母から、遠い親戚の誰それが・・と聞いたりしてきた。

長寿社会の今日、誰しもが避けられない難題であり、
いつの日にか人は遭遇するかも知れず、今回の裁判も私たちに無縁ではないことを告知されている。

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コメント (2)
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