夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

雑談は一番良く脳を使うと知り、男の癖におしゃべりな私は、微苦笑を重ねて・・。

2016-03-29 15:13:30 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
過日、居間で家内がテレビを視聴していた時、私は近くのソファで新聞を読んいた。

何かしらテレビより、雑談は一番良く脳を使う・・と私は聴こえ、
テレビを見ると、脳学者の茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)さんが語っていた・・。

『XXちゃんさぁ・・聴いていた?
脳学者の第一人者の御方が・・雑談は一番良く脳を使うだって・
そうだったら、おしゃべりな僕は、ボケなくて長生きするかなぁ・・』
と私は家内に言ったりした。

『あなたは・・男の癖におしゃべりで・・ときには煩(うるさ)いくらいょ・・』
と家内に微苦笑しながら私に言った。

『だけど・・前にも幾度も言った通り・・昔は無口だったんだょ・・』
と私は苦笑しながらに家内に言ったりした。
            

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

そして私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたりの叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。

そして私たち子供は母と叔母に支(ささ)えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。
                      

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償の時代であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡された・・。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。

そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏していても・・PTAの会費ぐらいは・・払おうよ・・』
と次兄は怒ったような声で母に言ったりした。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない生家の畑で農作物を採り、
程近くに広い敷地にある国際電電公社(現・KDDI)の数多くの社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、何とか私は人並みにPTAの会費を支払うことができた。

長兄は旧家の跡取りであったので、亡き父の願い、祖父の遺言もあり、国立大学付属の中学校を通学する中、
たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。
               
このした中で、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。

そして学校に行くのが苦手な児となった・・。
        
この当時の私は、クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。

何かと平素は無口の癖、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島は、幾10数年ごとに爆発する活火山の由来だった。
                      
        
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さんと私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして父の妹でこの当時未婚だった叔母も驚いていた・・。

これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。

定年後、多々の理由で年金生活を始めると、
家内はもとより、ご近所の奥様、ご主人など談笑をしたりしている。

そして旅先で、食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、
私は話しかけて談笑したりしている。
            

私が男の癖におしゃべりなのは、亡き母から色濃く素直に受け継いだ、と確信を深めたりしている。
長兄と妹ふたりと談笑する時、何故かしら私が七割ぐらい話すことが多く、
後で微苦笑したりしている。

世の中には、沈黙は金、という名言があるが、私に取っては死語だょ、と思ったりしている。

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