夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

単細胞の私、思い馳せれば幼少年期の頃から、何かと思い込みが強く、思惑も強い児だった・・。

2016-03-05 14:17:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
先程、ぼんやりと小庭にある白梅が満開になった情景を見惚れていたが、
やがて私は幼少年期の頃から、何かと思い込みが強く、思惑も強い児だったよなぁ、と微苦笑したりした。
            

私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。

やがて私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉4月の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして小さな川が所有している田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

母屋の宅地のはずれに土蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

そして小田急線と京王線の間にサンドイッチのような辺鄙な処で、
京王線の最寄駅は『つつじヶ丘駅(当時は、金子駅)』か『仙川駅』であり、
児童の私としては、15分ばかりを歩いて『つつじヶ丘駅』に近い小学校に通ったりしていた。
                 

こうした中で、確か小学2年の晩秋だったと記憶しているが、
いつものように独りで小学校に向かい歩いていた時、
遠い親戚のお姉さんに偶然に逢い、駅前まで一緒に行くことになった。

お姉さんは、スカーフを首に巻きつけて、ワンピース、そしてハイヒールを履いて、
子供心に、かっこいいお姉さん・・、と私は感じたりした。

こうした中で、『お姉さん・・XX短期大学に行っているのょ・・』
と遠い親戚のお姉さんは、私に言った。

『ほんとぉ・・』
と私は答えた。

やがて駅前でお姉さんと別れ、小学校の校門に向かった時、
やさしそうなお姉さん・・短気な人ばかり集めた大学に行くなんて・・お姉さん・・短気の人と思えないが・・
だけど・・女の人って・・分からないょなあ・・》
と私はつぶやいた。
            


この当時、生家のラジオから、『青い眼の人形』の歌も盛んに流れて、幼年ながら鮮明に心に残った。

日本の著作権保護期間が過ぎたと思われるが、名作『青い眼の人形』を転記させて頂く。

♪青い眼をした お人形(にんぎょ)は
 アメリカ生まれの セルロイド

 日本の港へ ついたとき
 一杯(いっぱい)涙を うかべてた
 「わたしは言葉が わからない
 迷子(まいご)になったら なんとしょう」

 やさしい日本の 嬢(じょう)ちゃんよ
 仲よく遊んで やっとくれ
 仲よく遊んで やっとくれ

【『青い眼の人形』 作詞・野口雨情、作曲・本居長世 】

この歌を聴いて、まもなくした後、小学2年生の私はいつものように小学校に通学し、
下校の時に付近にある甲州街道に行った。
            

この当時の1952年〈昭和27年〉の頃は、ときおり自動車、トラックが走るぐらいであったので、
幼年の私としては、物珍しい自動車を見たりしていた。
こうした中で、たまたま進駐軍のジープが府中にある基地から都心に向けて走ってきた。

先頭のジープには、四人の兵士が乗り、後部座席の二人の兵士は、カービン銃を右手に掲げていた。
そして大きな自動車が続き、最後のジープも兵士はカービン銃を右手に掲げていた。
いずれの3台もスピードを上げて、疾走した・・。

こうした情景を見惚(みと)れていた私は、この時に『青い眼の人形』の歌が甦(よみがえ)り、
日本を占領した進駐軍であるが、日本人に対し、アメリカ人と仲良くしてほしい、
と敗戦後に作られ宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのである。

『ちぇ、しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と私は心の中で屈折の多い多感な幼年であったりして思ってしまった・・。
            

日本は1945年〈昭和20年〉8月15日に、世界第二次大戦のひとつの大東亜戦争に敗退した。
そして日本の戦争の終結に際して、
ポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍の連合国最高司令官総司令部が配置され、
「連合国軍」の名の下で、多くの職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人、少数のイギリス軍人で構成されていた。

そして、こうした占領軍は、日本の国民の多くは進駐軍と呼び、ひたすら恐れ慄(おのの)き
その後の1952年(昭和27年)4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効されるまで、
続いたのである。

こうした進駐軍の圧政下、日本人の大人はもとより子供まで感じとっていた社会風潮の時代であった。
このような状況下であったので、幼年の私でも、
『ちぇ、しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と何かと感じ取ることが多かった・・。
            

後年、1966年〈昭和41年〉の若き22歳の前後、文学青年の真似事をしていた時、
野口雨情の『青い眼の人形』を調べた時、1921年(大正10年)12月、童謡雑誌「金の船」に発表と知り、
私は動顛してしまった。

大正リべリズムの下、「国際愛を歌った」と野口雨情は語っていて、
野口雨情は、キューピーから思いついたのは、青い眼の人形であり、
アメリカ生まれのセルロイドは、キューピー人形のことである、と学んだりした。

そして、おもちゃのキューピー人形、青い眼の人形は、
アメリカから親善使節として、日本の子ども達にたくさん送られてきたが、第二次大戦により焼かれる運命を迎えた、
と知ったりした。

人は誰しも誤りがある、と古来より伝えられているが、
幼年期の私は『青い眼の人形』の歌は、敗戦後に作られ進駐軍の宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのは、
もとより大きな誤りであった・・。

遥か以前の1921(大正10)年12月、童謡雑誌「金の船」に発表した作品であり、
初めて気付き、無知ほど怖いものは無い、と大いに反省させられながら、赤面して下を向いたりした。
            

このようなことが幼少年期の頃から、何かと思い込みが強く、思惑も多々あり、
怪我は治ることもあるが、性格は治(なお)らないなぁ、と老ボーイの私は微苦笑したりしている。

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