夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

蚊帳(かや)、簾(すだれ)、団扇(うちわ)、扇子(せんす)のささやかな想いで・・。

2012-07-30 09:42:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
過ぎし一週間も連日の32度前後の熱さに、何よりも暑さに苦手な私は、
買物や散策する時に扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、
大通りの歩道や遊歩道を歩いたりすることが多い・・。

帰宅後、洗面所で冷たい水で顔を洗った後、
着替えて、居間のエアコンの冷風の下で、冷茶を飲みながら、
団扇(うちわ)を取り出して、冷房の中、扇(あお)いだりしている。

私が愛用している扇子(せんす)は、50代の前半時期に、
たまたまデパートでお中元の品を買い求めた後、紳士の雑貨品売り場のバーゲンで購入した、
普級品の樋口一葉のお札で買えた品であり、
この後も熱い季節に私の友のひとつとなっている。

そして私の現役時代のサラリーマンの時代、退社後に駅で電車を待っている時、
プラットホームは暑いので、扇子を取り出し、扇(あお)いだりしてきた・・。

このようなことをぼんやりと思い馳せたりしていると、
確か私が40代の初めの頃、ある外資系のレコード会社の情報畑で奮闘していた時、
本社のイギリスより、情報の最高責任者が来日されていたことが思いだされた・・。

業務上の会議をした後、上司の指示で、夕食などもしたり懇親し、
私は英語の単語を並べながら、たどたどしく談笑も重ねたりした。

そして、この方が帰国した後、
私は家内と共にデパートに行き、扇子、折り紙を千代紙で包んで、
ささやかなプレゼントとして、彼の奥様宛に、私の不慣れな英文の手紙を添え、郵送した。

扇子は家内の見立てで、雪花染めといって、こうぞ紙を一枚一枚に手染めで仕上げた
若草色した華やかさがあり、
雪の結晶のような模様をした扇子であった。

そして2週間後、この奥様より、丁重な礼状が自宅に着いた。
今では私の大切な宝物になっている。


たまたま私が愛用している団扇(うちわ)のひとつは、
過ぎし2009(平成21)年の『祇園祭』を家内の要望で、私たち夫婦が観に行った時に、
ひととき貴船の川床料理を頂き、料亭を辞する時、
仲居さんが微笑みながら手渡して下さった団扇(うちわ)である。

もうひとつは、ご近所の寿司屋さんから、
我が家に配達で来宅した時、お得意様に、と頂いた団扇(うちわ)である。

この二本の団扇(うちわ)をその時の心情に応じて、使い分けている。

団扇(うちわ)を手にした時、ときおり私は遠い昔の60年前の幼年期の時、
生家で祖父、父たちが畳の上で団扇(うちわ)を扇(あお)ぎ、
家族団らんのひとときを過したのであったが、
この時の情景を思い馳せたりする時もある・・。


私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の児として生を受けた。
祖父、父が中心となり、ときには小作人だった人たちの手を借りながら、
程々に広い田畑を耕していた、
そして、竹林、雑木林、そして田んぼの外れに蓮(ハス)専用の水田を保有していて、
父、祖父が亡くなる小学生の前半までの私は、このような情景で鮮明に心の片隅に残っている。

この当時は、母屋、納戸小屋ふたつ、蔵があり、
母屋の裏手には井戸があり、釣瓶(つるべ)の井戸は使われなくなり、
手こぎのポンプで井戸の水をくみ上げ、一坪ぐらいコンクリートの水辺を設置され、
樽(たる)、桶(おけ)、そして最新のブルキのバケツが置かれていた。

樽(たる)は、夏の時節には、西瓜(スイカ)、瓜(うり)、
桶(おけ)には、茄子(ナス)や胡瓜(キュウリ)などを浮かべ、冷やされていた。

この当時は、もとより水道もなく、母屋に台所、風呂場があるので、
それぞれ使用に応じて、この手こぎのポンプで井戸の水をくみ上げ、使用していた。
確か私も小学一年生の頃になると、
父の妹の叔母に何かと付きいまといながら、風呂の水汲みに手伝だったりした。

梅雨の頃から秋のお彼岸の頃までは、
家の廊下の一部には、茣蓙(ござ)を敷いたり、
各部屋は簾(すだれ)で陽射しをさえぎったりしていた。
そして、団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりし、暑さをしのいだりし、
祖父、父、母、叔母たちは、外出の時は扇子(せんす)を用いていた。

夜になると、和室の10畳のふたつ、8畳の部屋は、
それぞれに蚊帳(かや)が吊られて、少し暗さ増す中、
こうした中で布団が敷かれて、寝室に変貌した。

そして廊下の外れに、風鈴(ふうりん)が微風を受けると、鳴り響いていた・・。


電気は関しては、この当時の生家は、
蛍光灯もなく、それぞれの傘の付けられた電球の灯りに頼り、
テレビもなく、ラジオからニュース、流行歌を聴いたりしていた。
そして都心の裕福な家庭だけが電話がある時代であったので、
郊外の生家はもとより電話もない時であり、緊急の場合は、近所の知人、或いは電報の時代であった。

そしてガスもない時代であり、竈(かまど)で枝葉、薪(まき)、
簡易なコンロで炭(すみ)火、或いは練炭(れんたん)などで、煮炊きしていた時代であり、
風呂も枝葉、薪(まき)で、風呂釜を沸かしていた。

その後、私が中学生になる1957〈昭和32〉年の春の頃には、
冷蔵庫、扇風機、電話、テレビ、プロパンガスが生家に入り、大きく変貌した。


昨今の我が家は毎年、梅雨の晴れ間から秋の彼岸の頃まで、
簾(すだれ)で夏の陽射しをさえぎったりしている。

簾(すだれ)を各部屋に掛け、洋間の場合は、雨戸、網戸、ガラス戸となっているが、
この季節はカーテンを外して簾とする。
そして和室も同様に、雨戸、網戸、障子であるが、簾(すだれ)をつけたりしている。

朝涼(あさすず)が残る朝の9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾(すだれ)にして、庭越しの風を通したりしている。

その後、家内は室内の掃除が終えて、居間のエアコンが静かに作動し、冷気になっているのが、
私が年金生活を始めて以来の習性となっている。

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