夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

華やいだ『ひな祭り』、ぼんやりと幼年期の頃を思い馳せて、微苦笑して・・。

2021-03-03 14:31:40 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、
令和3年3月3日、と明記されていた。

そして何かと単細胞の私は、3が三つ連続した表示であったので、
何か良いことがあるのかなぁ・・と思ったした。

こうした中で、小さく『ひな祭り』と朱記されたことに気付き、

日本の女の子を全国的に祝う日である、
と瞬時に理解して、微苦笑をしたりした・・。

我が家は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭であり、
無念ながら、もとより孫娘もいないが、
少しボケた私でも一年で最も華やいだ認識している。



本日の午前中のひととき、いつものように家内から依頼された平素の買物の品を求めて、
私は独りで、最寄りのスーパーに行ったりした。

やがて私は、我が家の平素の買い物の専任者なので、

最寄りのスーパーに行ったりした。


やがて店内で、家内から依頼された品を探している中、何かしら華やいだ桃の花が飾られて、
はまぐりと菜の花が入った『ひなまつり 五目ちらし』、穴子の入り『ひなまつり 五目ちらし』などがあり、
この片隅には『いちごのショートケーキ』、いちごの『あまおう』、『とちおとめ』などもあったりした・・。


やがて私は、家内も女性の身なので、私は『ひなあられセット』を平素より少しばかり高価な品、
そしてプリンの代わりに桜餅、草餅などを買い求めたりした。

そして帰宅後、ぼんやりと小庭に咲いている白梅を眺めたりした。
       
          


やがて遠い昔の70年前の頃、私の生まれた実家の『ひな祭り』の情景が甦(よみがえ)ってきた・・。

私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
 祖父と父が健在だった頃までは、私が今住んでいる近くで、農家をしていた。


そして、戦前の小作人だった御方たちの助力を得たりし、
程々の広さの田畑を耕し、雑木林、竹林などがある家であった。

こうした中、長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、

幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、暗黙の了解で跡継ぎとなる長兄、

この当時は幼児は病死することもあったが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、

幼年心にいじけたりすることがあった。

やがて私の後に妹がふたり生まれ、 
祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
 私は益々いじけたり、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。



       

       
こうした中、早春の2月の下旬になると、母の実家から贈られたひな人形を
父が宅地の隅にある蔵から出してきて、母や父の妹の未婚だった時の叔母に手渡していた。

まもなく10畳の一角にひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりしていた。

ひし餅は、父が端正こめて育成してきた餅米を、
やがて収穫して保存していたのを、精米所に持ち込んだ後、
数日後に父が杵(きね)で臼(うす)の中にある蒸された餅米を搗(つい)たりした。
そして何故かしら菱形にして、三色にしていた。

後年の60歳になった頃の私は、初期の菱餅は草色だったが、江戸末期になって、真ん中の一枚が白くなり、
更に明治時代になってから、上の一枚に小豆(アズキ)で色をつけて、
今のような桃色に仕上げるようになった、と知ったりした。

そして一枚目の紅は桃の花、二枚目の白は雪を、三枚目の緑は若草を表わす、と学んだりした。




桃の花は、宅地の外れにある陽当たり良い所に3分咲きを活(い)け、
 何かしら華やぎ、かぐわしい香りがしていた。

このような情景を私は、ぼんやりと眺めていたが、
華やかな桃の花、3色のひし餅、そして絢爛(けんらん)な17人の人形を見つめていた。

そして、私はため息を吐(つ)きながら、
『女の子はいいよなぁ・・家族そろって・・皆に大事にされるから・・』
といじけた私は思ったりしていた。

そして、人形の中のひとつ、護衛のようになっている人形を見つめ、
あのように綺麗な格好でいられたらいいよなぁ、と眺めたりしていた。

やがて 『桃の節句』の行事が終り、翌日になると母は五段飾りを撤去し、蔵に仕舞う準備をしていた。
私はせっかく飾ったのだから、せめて桜の咲く頃まで、
このままにして置けばよいのではないか、と幼年心に感じたりしていた・・。

       


このような思いを抱いた後、桜の咲き始めた頃、私は地元の小学校に入学したのは、
1951年(昭和26年)の4月であった。

やがて私が小学2年の3学期の終る早春に父は42歳の若さ病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、生家は没落をしはじめた・・。

そして確か2年後には、『桃の節句』が到来しても、
私の生家は、ひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりする余裕もなくなり、
これ以降、私は見かけることはなくなった。

このようなことを私はぼんやりと、思いだしたりし、
齢を重ねた私は、70年前の頃に、そうだったよなぁ、と微苦笑したりした。




我が家は無念ながら、あどけなく可愛らしい孫娘もいなく、
今としては『ひな祭り』は、見果てぬ夢のひとつとなったりしている。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 私たち夫婦の合言葉、何かと... | トップ | 我が家の周辺を散策して、7... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ささやかな古稀からの思い」カテゴリの最新記事