私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
昨日の朝、配達された読売新聞を読んだりしている中、やがて新刊本が評論されている【本よみうり堂】を読んだりした。
やがて阪本節郎・著作の『シニアマーケティングはなぜうまくいかないのか』(日本経済新聞出版社)について、
経済学者・東京大教授の柳川範之さんが評論されていたのを私は読んだりした・・。
そして読んだりした後、微笑んだりした。無断であるが転記させて頂く。
《・・高齢化時代の将来設計
「シニアと呼ばれても、50代の9割は、自分のことだと思わず、60代の9割も、そう呼ばれたいとは思わない」。
本書を何気なく開いたときに、目に飛び込んできたのが、この文章。
確かに、50代読者の多くは、「え、俺ってシニアなの? それはないよ」と思われるに違いない。
60代の方々でも、「人生まだまだ、これからだ」と、思っている人々のほうがきっと多いだろう。
少子高齢化の時代は、長生きできるようになった時代でもある。
単に長く生きられるだけでなく、気力も体力も向上している。
一説には、20歳位若返っていて、今の60歳は、昔の40歳と同じだとか。
そんな時代には、昔とは違った新しいライフスタイルが求められるはずだ。
本書は、タイトルだけみると、典型的なマーケティングの本にみえる。
いや、実際に、優れたマーケティングの本だ。
でも、単に、どんな人にどんなものを売ったら良いか、という視点でだけ読むのはもったいない。
むしろ、これからの50代、60代が、どう考え、どんな風に未来を設計していったら良いか、
そんな生き方像、生活像を示している本として読むと、面白い示唆がたくさん得られそうだ。
自分だけが、従来の世代と違うと感じることが多いのも、この世代の特徴らしい。
こんな風に考えるのは、自分だけではなかったんだ、という実感や、気づきも本書から得られるかもしれない。
何歳になっても若々しく前向きな意識を持ち続けたいと思っている。
人生下り坂ではなく、自然体で若々しくセンスの良い大人になって、人生最高のときを、これから実現させたい。
本書が浮かび上がらせているのは、そんな風に考えている50代、60代だ。
少子高齢化時代を本格的に迎えて、50代、60代の人たちが、
生活のポイントをどこにおくべきか等についても、興味深い考察がなされている。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

私は今でも、ときおり少年のように無我夢中となる言動をすることがあるが、
サラリーマン時代は苦楽の激しい中小業の民間会社で35年近く鍛えられた為か、
根は現実楽観主義のひとりである。
私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。
この中のひとつとして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。
そして年金生活を始める時、秘かに私は残された人生の日々に、
『清く貧しく美しく』と信条を掲げた。
この発想の根源は、定年後の年金生活を始めた当初、ご近所の奥様と立ち話などをした時、
60歳のお若いのに、悠々自適な生活で羨(うらや)ましいわ、と言われたりしたが、
もとより私は一流大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進(まいしん)され栄達したエリートのお方たちと違い、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態であった。
その上、私は屈折した日々の多い半生を歩み、何とか定年を迎えることができたので、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。
そして私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
或いは、その分野で専門知識があり優れた人の前では、謙虚となりながらも卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。
私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944年〈昭和19年)9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。
程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に、未知の年金生活に向い、自身を励ます意味合いも含めて人生信条を掲げた。
そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの日々の生活実態と思われ、
『清く貧しく美しく』とした。
この根源は、敬愛している松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏の脚本・監督された『名もなく貧しく美しく』(1961年=昭和36年)、
そして宝塚歌劇団の『清く正しく美しく』から、言葉を重ね合わせ、
何かしら慎(つつ)ましい年金生活に相応しいと確信した。
こうした『清く貧しく美しく』の人生信条を掲げた中で、
日常生活を過ごす目標として、『野に咲く花のように』とした。
『野に咲く花のように』の発想の語源は、
古人の利休が、花は野にあるように、という銘言は私なりに知っていたが、
私は40歳の初めに、夏季休暇で家内と共に旅先で、実感させられ、まもなく私なりに命名した。
海辺のリゾートホテルに滞在していた私たち夫婦は、
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、支配人から家内が誘われ、
私も末席としてお供した。
家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。
結婚して、3年後に家を建てた時、多額な借入となったが、私は何かと単細胞の性格で、
何かに夢中になると、あなたしか視(み)えないような熱中となることが多く、
その上に若さの勢いとして、家屋の中で茶室まで設けた。
私は茶事に関しては無知であったが、
家内が免許状の昇進と共に、礼金も重なったりし、こうしたことは暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。
そして無知な私でも、リゾートホテルの庭園にある茶室は、
掛け軸、花入、茶花も簡素で、素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたりした。
やがて茶室から庭園に出た私たち夫婦は、その後に私は家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。
私はこの1985年〈昭和60年〉の夏の時節以来、
人生のささえる確かな言葉として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしてきた。
こうして私は年金生活を始めて1年を過ぎた頃、
たまたま作家・城山三郎の著作の『無所属の時間に生きる』を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を瞬時に圧倒的に魅了され、この時から教訓としている。
《・・人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。・・》
そして私は亡き城山三郎氏の遺(のこ)された言葉を秘かに指針として、日々過ごしている。
そして恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器と称せられる鏡・剣・玉があるが、
平民で無力な私は、『清く貧しく美しく』、『野に咲く花のように』、そして『人生を深く生きる』言葉を
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。
このようなことを根底に私は過ごしてきているので、
野に咲く花は、素朴で気負いもなく、何かとやすらぎを覚えたりしてきた。
このように私は三つの言葉をささえに、年金生活を過ごし、11年半が過ぎている。
こうした中で、数多く60代の諸兄諸姉は、これまでの人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人からの便りを受けたりしてきた・・。
私も長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
そして70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。
私が現役サラリーマンだった58歳の時に、同僚の死去に接したり、
そして年金生活を始めて数年過ぎる中、先輩、同僚だった人たちの死去を知り、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈ったりしながらお通夜に参列したりした。
私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せず、今日に至っている。

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛しているひとりである。
そして『生きがい』を最優先とし、次に『健康』、そして程ほどの『お金』と思いながら、
年金生活11年半が過ぎている。
もとより家内は、過ぎし年の40年前の結婚式で、白無垢の新妻を見て以来、
どのような人生の荒波に遭遇しても、世界で私だけが専守できる責務と固く誓ってきたので、別格である。
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昨日の朝、配達された読売新聞を読んだりしている中、やがて新刊本が評論されている【本よみうり堂】を読んだりした。
やがて阪本節郎・著作の『シニアマーケティングはなぜうまくいかないのか』(日本経済新聞出版社)について、
経済学者・東京大教授の柳川範之さんが評論されていたのを私は読んだりした・・。
そして読んだりした後、微笑んだりした。無断であるが転記させて頂く。
《・・高齢化時代の将来設計
「シニアと呼ばれても、50代の9割は、自分のことだと思わず、60代の9割も、そう呼ばれたいとは思わない」。
本書を何気なく開いたときに、目に飛び込んできたのが、この文章。
確かに、50代読者の多くは、「え、俺ってシニアなの? それはないよ」と思われるに違いない。
60代の方々でも、「人生まだまだ、これからだ」と、思っている人々のほうがきっと多いだろう。
少子高齢化の時代は、長生きできるようになった時代でもある。
単に長く生きられるだけでなく、気力も体力も向上している。
一説には、20歳位若返っていて、今の60歳は、昔の40歳と同じだとか。
そんな時代には、昔とは違った新しいライフスタイルが求められるはずだ。
本書は、タイトルだけみると、典型的なマーケティングの本にみえる。
いや、実際に、優れたマーケティングの本だ。
でも、単に、どんな人にどんなものを売ったら良いか、という視点でだけ読むのはもったいない。
むしろ、これからの50代、60代が、どう考え、どんな風に未来を設計していったら良いか、
そんな生き方像、生活像を示している本として読むと、面白い示唆がたくさん得られそうだ。
自分だけが、従来の世代と違うと感じることが多いのも、この世代の特徴らしい。
こんな風に考えるのは、自分だけではなかったんだ、という実感や、気づきも本書から得られるかもしれない。
何歳になっても若々しく前向きな意識を持ち続けたいと思っている。
人生下り坂ではなく、自然体で若々しくセンスの良い大人になって、人生最高のときを、これから実現させたい。
本書が浮かび上がらせているのは、そんな風に考えている50代、60代だ。
少子高齢化時代を本格的に迎えて、50代、60代の人たちが、
生活のポイントをどこにおくべきか等についても、興味深い考察がなされている。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

私は今でも、ときおり少年のように無我夢中となる言動をすることがあるが、
サラリーマン時代は苦楽の激しい中小業の民間会社で35年近く鍛えられた為か、
根は現実楽観主義のひとりである。
私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。
この中のひとつとして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。
そして年金生活を始める時、秘かに私は残された人生の日々に、
『清く貧しく美しく』と信条を掲げた。
この発想の根源は、定年後の年金生活を始めた当初、ご近所の奥様と立ち話などをした時、
60歳のお若いのに、悠々自適な生活で羨(うらや)ましいわ、と言われたりしたが、
もとより私は一流大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進(まいしん)され栄達したエリートのお方たちと違い、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態であった。
その上、私は屈折した日々の多い半生を歩み、何とか定年を迎えることができたので、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。
そして私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
或いは、その分野で専門知識があり優れた人の前では、謙虚となりながらも卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。

私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944年〈昭和19年)9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。
程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に、未知の年金生活に向い、自身を励ます意味合いも含めて人生信条を掲げた。
そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの日々の生活実態と思われ、
『清く貧しく美しく』とした。
この根源は、敬愛している松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏の脚本・監督された『名もなく貧しく美しく』(1961年=昭和36年)、
そして宝塚歌劇団の『清く正しく美しく』から、言葉を重ね合わせ、
何かしら慎(つつ)ましい年金生活に相応しいと確信した。
こうした『清く貧しく美しく』の人生信条を掲げた中で、
日常生活を過ごす目標として、『野に咲く花のように』とした。

『野に咲く花のように』の発想の語源は、
古人の利休が、花は野にあるように、という銘言は私なりに知っていたが、
私は40歳の初めに、夏季休暇で家内と共に旅先で、実感させられ、まもなく私なりに命名した。
海辺のリゾートホテルに滞在していた私たち夫婦は、
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、支配人から家内が誘われ、
私も末席としてお供した。
家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。
結婚して、3年後に家を建てた時、多額な借入となったが、私は何かと単細胞の性格で、
何かに夢中になると、あなたしか視(み)えないような熱中となることが多く、
その上に若さの勢いとして、家屋の中で茶室まで設けた。
私は茶事に関しては無知であったが、
家内が免許状の昇進と共に、礼金も重なったりし、こうしたことは暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。
そして無知な私でも、リゾートホテルの庭園にある茶室は、
掛け軸、花入、茶花も簡素で、素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたりした。
やがて茶室から庭園に出た私たち夫婦は、その後に私は家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。
私はこの1985年〈昭和60年〉の夏の時節以来、
人生のささえる確かな言葉として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしてきた。

こうして私は年金生活を始めて1年を過ぎた頃、
たまたま作家・城山三郎の著作の『無所属の時間に生きる』を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を瞬時に圧倒的に魅了され、この時から教訓としている。
《・・人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。・・》
そして私は亡き城山三郎氏の遺(のこ)された言葉を秘かに指針として、日々過ごしている。
そして恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器と称せられる鏡・剣・玉があるが、
平民で無力な私は、『清く貧しく美しく』、『野に咲く花のように』、そして『人生を深く生きる』言葉を
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。
このようなことを根底に私は過ごしてきているので、
野に咲く花は、素朴で気負いもなく、何かとやすらぎを覚えたりしてきた。
このように私は三つの言葉をささえに、年金生活を過ごし、11年半が過ぎている。

こうした中で、数多く60代の諸兄諸姉は、これまでの人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人からの便りを受けたりしてきた・・。
私も長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
そして70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。
私が現役サラリーマンだった58歳の時に、同僚の死去に接したり、
そして年金生活を始めて数年過ぎる中、先輩、同僚だった人たちの死去を知り、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈ったりしながらお通夜に参列したりした。
私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せず、今日に至っている。

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛しているひとりである。
そして『生きがい』を最優先とし、次に『健康』、そして程ほどの『お金』と思いながら、
年金生活11年半が過ぎている。
もとより家内は、過ぎし年の40年前の結婚式で、白無垢の新妻を見て以来、
どのような人生の荒波に遭遇しても、世界で私だけが専守できる責務と固く誓ってきたので、別格である。
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ポスト団塊の自分は、燃えるスクラムの街から置いてきぼりをされたような時代の気分の中、青春を過ごしました。
社会への関心が私生活への関心へと矮小化された70年代後半です。
社会人の初期にバブルを迎えましたが、何か浮かれてはいられないぞ、と感じていました。
そしてバブル崩壊、失われた20年の後、アベノミクスとかいう怪しげな状況下で、職業生活の終わりを迎えようとしています。
貴兄のような確固たる人生のモットーを持ち得ず、ここに至りました。
自分も楽観主義の人間ですから、まあ、何とかなるかと思ってますが(苦笑)
四月の後半から読ませていただいています。 野に咲く花のように。大好きな歌のフレーズを思い出しました。
軽い脳梗塞で済んだ夫と暮らしています。 夫もサラリーマン生活最後の5年間出向しました。
単身赴任で、三重県で、工場閉鎖に行きました。優秀な方から、どんどん転職されたそうです。
最後は、パートさんと高齢者の介護をしてる方と働き無事に閉鎖して元の会社に戻りました。
その後まもなく定年退職しました。夢達人様と同じように感じていると思っています。
リアルでは、なかなか口に出さないので こちらのブログで読んで 夫もかなと推測しています。9661
>やはりその世代には特有の世界観、時代認識があるのですね。
>ポスト団塊の自分は、燃えるスクラムの街から置いてきぼりをされたような時代の気分の中、青春を過ごしました。
>社会への関心が私生活への関心へと矮小化された70年代後半です。
私は昭和47年(1972年)の頃、実家から離れ母の宅に住んで、
日曜日の午前中のひととき、
近くの喫茶店のカウンター席で煙草を喫いながら、コーヒーを飲んだりしていた時代の時でした。
この喫茶店のマダムは、音楽好きで、クラシックから邦楽まで、
レコードを店内で流していました・・。
こうした中、店内から、
♪都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
・・
【『傘がない』 作詞、作曲・井上陽水 編曲・星 勝 】
流れはじめ、私は思わず聴き、心の動揺し、座っている椅子から転げ落ちそうになりました・・。
若い人が政治、社会に無関心が増えていた社会風潮であったので、
余りにも的確に表現された詞に驚いたりした次第です。
この曲を聴き終えた私は、喫茶店のマダムに、このレコードを問いかけて、
初めて井上陽水の『傘がない』という曲を知ったりしました。
私はこのシンガーソング・ライターに魅了され、レコードのアルバム(LP)を買い求めて、
その後は、『心もよう』、『いっそセレナーデ』、『最後のニュース』、『少年時代』、『結詞』等は、
少なくとも百回以上を聴いたりしてきました。
そして、多彩なこの人は、他の歌い手に『飾りじゃないのよ 涙は』、『ワインレッドの心』等の名曲を提供しています。
時は流れ、レコード、カセット、そしてCDを買い求めてきたが、
私は定年退職の少し前に、改めてベスト・アルバムのCD『井上陽水 ゴールデン・ベスト・スーパー』を購入したりしました。
年金生活の今、時折このアルバム全45曲収録された名曲の数々を聴いたりしていますが、
その時代の社会風潮を切り取ったり、叙情、世情のジャンルを多彩に発表された稀(ま)れな創作者である、
と感じたりしています。
そして、これだけ多岐にわたり長年に作詞・作曲を出来る人は、
私の拙(つたな)い音楽愛好歴からして、このお方・井上陽水さんと中島みゆきさんの両氏以外、
私は知りません。
>社会人の初期にバブルを迎えましたが、何か浮かれてはいられないぞ、と感じていました。
私の同僚らも、株式投資に無知な人で、盛んに株を購入して一喜一憂していました。
私は休日の時、自宅の小庭の草むしりをしていた時、
日本の株式時価総額でアメリカの広大な土地がふたつ購入できる、と新聞などで報じられ、
世の中は狂っている、と感じながらバブルを憂いたりしていました。
>そしてバブル崩壊、失われた20年の後、アベノミクスとかいう怪しげな状況下で、職業生活の終わりを迎えようとしています。
>貴兄のような確固たる人生のモットーを持ち得ず、ここに至りました。
>自分も楽観主義の人間ですから、まあ、何とかなるかと思ってますが(苦笑)
貴兄の大型連休の過ごし方、貴兄のブログを読ませて頂き、存じています。
6泊7日の旅路、宿泊先からコメントを頂き恐縮している次第です。
貴兄は勤務上などで出張などで、外出はベテランと思いますが、
御気を付けて過ごして下さい。
>四月の後半から読ませていただいています。
つたない私の投稿文をお読み下さり、恥ずかしながらも嬉しく、感謝致します。
>野に咲く花のように。大好きな歌のフレーズを思い出しました。
確かダ・カーポという男女のグループで、『野に咲く花のように』歌が、
1983年の頃に聴いた記憶があります。
>軽い脳梗塞で済んだ夫と暮らしています。 夫もサラリーマン生活最後の5年間出向しました。
>単身赴任で、三重県で、工場閉鎖に行きました。優秀な方から、どんどん転職されたそうです。
>最後は、パートさんと高齢者の介護をしてる方と働き無事に閉鎖して元の会社に戻りました。
>その後まもなく定年退職しました。夢達人様と同じように感じていると思っています。
私のサラリーマン現役時代は、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
1998年(平成10年)に業界のCDを中核とした売上げがピークとなり、その後は業界全体が縮小し、
この前後に、それぞれの会社が再構築がよぎなくされ、リストラなども行われたりしていました。
私たちの同世代は、定年退職時が60歳であり、
暗黙として、お互いに定年退職まで、頑張ろうとする意志は大半ありまして、
若き入社当時から人生設計の主軸として過ごしてきた次第です・・。
こうした中で、私の知人の多くは50代となり、
組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、そして早期退職優遇制度による退職などの烈風となり、
このような形で、同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、業界から去った人も数多くありました。
やがて私自身も1999年(平成11年)の初春、55歳の少し前に、
あえなく出向となってしまった次第です。
私の出向先は、各レコード会社がCD、DVD等の音楽商品を委託した物流情報会社であり、
通勤としては、ほど遠く、この中のひとつの物流センターに配属されました。
センター長をはじめ私も含めて5人の正社員の基で、パート女性30代~40代が多い130名前後、
そして契約社員、アルバイトの男性20代が多い10名前後の職場に勤めたりしました。
私の住む自宅からバスに乗った後の最寄り駅は、小田急線の成城学園前であり、
30年近く情報畑、管理畑に勤めた本社で勤務していた時は、
自宅を8時過ぎに出て、都心に向かって一時間で通勤していました。
そして出向先は、自宅を6時過ぎのバスの始発に乗車し、成城学園前からは下り方面の本厚木駅に行った後、
バスに乗り換えて物流倉庫の多い処まで、一時間半ばかりで通ったしだいです。
職場状況、そして通勤状況も大幅に変貌したので、初めの半年ぐらいは戸惑いながら、
つたない私でも、もとより出向は本社機能の戦力から不必要だと烙印を押されたことであるので、
まぎれなく都落ちで、敗北感が充満し失墜感で気落ちした次第です・・。
この後、何とか半年後に私は職場の業務にも馴染み、
この間に、私の勤めていた出向先の物流情報会社も大幅なリストラがあったり、
かって30年近く勤めていた出向元のあるレコード会社も幾たびかリストラが実施され、
こうした中で、私なりに奮戦し、定年退職を迎えた次第です。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった次第です。
>リアルでは、なかなか口に出さないので こちらのブログで読んで 夫もかなと推測しています。
貴女様の《・・リアルでは、なかなか口に出さない・・》のお言葉通り、
私はせめてながら、ブログで綴ったりしている次第です。
今後ともよろしくお願い致します。
尚、貴女様のブログを読ませて頂きたく、よろしかったならばURLを教えて下さい・・
(例・・私の場合は、http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai)