夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときには桜花に、『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同』と思いを馳せて・・。

2024-04-10 16:10:25 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の79歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に結婚前後の5年を除き、
74年この地域に住んでいる。


私の住む地域は、3月21日前後に染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始めると、
その後に山桜(ヤマザクラ)、やがて八重桜(ヤエザクラ)が咲くのが、
平年の習わしとなっている。


過ぎし2月に白梅、やがて紅梅が咲き、3月の上旬に桃の花が咲くが、
ここ30数年、早咲きの河津桜などを2月下旬から、気まぐれに咲き始めて、
季節感が狂ってしまうょ、独り微苦笑する時もある・・。

            

古来より2月は梅の花が咲き、3月は桃、やがて桜の花が咲いてきたので、
『桃色(ももづき)』、『桜月(さくらづき)』、『桜見月(さくらみづき)』と称せられてきた。

寒さが長らく続いた冬の季節が過ぎた後で、暖かな春の訪(おとず)れに、
数多くの人々は共有しながら悦(よろこ)び感じて過ごす時節である。


            

私は桜花(さくらばな)に関しては、ここ10数年は三分咲きに心を寄せたりした後、
やがて満開の情景にも愛(めでた)りしてきた。
          
4月の初旬を迎えると、自宅の近くに流れる野川の桜並木の遊歩道を歩いたりすると、
満開の情景から、やがて花びらが散乱して、歩道の脇には絨毯のように花びらが重なったりする。

こうした情景を観ると、 私は立ち止まり、数多くの桜花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり微風が吹くと、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
やがて地上に落下する。

古来より、桜の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきたことに、
思いを重ねたりした・・。

私は桜花に関しては、3分咲きに魅了されるひとりであるが、
やはり花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散る光景に、確かな美を感じてきた。

このような情景に私は見惚(みと)れてたりしてきたが、
遥か千年前の人たちも、私のように感じる人が多いかしら、と思わず微笑んだりしてきた。

          

そして私は桜花を観る時、齢ばかり重ねた身であるが、
今年も大病もせず、天上の神々の采配で生かしてもらっている、と思いが強く、
毎年、花衣(はなごろも)の情景を眺めていると、過ぎし日々に愛惜を重ねることが多い。

或いは野川の水の流れを見たりしていると、
川面は陽春の陽射しを受け、光を帯びながら清き流れとなっていた・・。

そして川辺に枯れた薄(すすき)の群生に、桜花が重なっていて、
やがて水の流れに巻き込まれ、花筏(はないかだ)のように下流に向かい、ゆっくと流れていた。

このような桜花のうつろう情景に心を寄せてきた。

          

こうした中で、自宅の周辺の雑木林を歩き廻ったりしていると、
このようなところに桜があったことは知らなかったよ、と教示されることもある。

そして私は山桜を見かけると、 私が若き34歳の時、
自営業をしていた次兄が、資金繰りが破綻して、突然に自宅で自裁されたので、
私はこの山桜に心を託して、山桜の咲く時になると、次兄の言葉、しぐさを思い浮かべたりし、
何かとお世話になった次兄を思い馳せたりし、早くも45年過ぎている。

          


こうした桜花に思いを秘めている私は、本日も自宅の付近に流れている野川の遊歩道を散策した・・。

やがて桜並木の下を歩いたが、ときおり風もなく、花びらが舞い降りたりし、
まもなく路の片隅には、吹き寄せのように桜花が散乱するだろう、と思い馳せたりした。

          

そして早くも川面を眺めると、数多く花びらが流れていて、古人より花筏(はないかだ)と称してきた情景に、
過ぎし日に愛惜を重ねながら、眺めたりした。

やがて再び歩きだして、ときおり見上げると、多彩な数多くの残り花に見惚れたりした。

そしてボンヤリと歩きながら、不意に『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・』、
漢詩のひとつをが脳裏から舞い降りてきた・・。

            

もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が、
『白頭(はくとう)を悲しむ翁(おきな)に代(かわり)て」と題する詩の第4節ある。

私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)さんの作品から学んだひとつの詩である。

《・・年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・・》

歳月は過ぎ去ってしまえば、実に早いと感じたりし、
毎年この季節は同じように、桜花が巡って、さりげなく咲いているが、
この桜花を観賞できる人は変っている・・。

もとより自然の悠久さと人間の生命のはかなさを対峙させて、人生の無常を詠歎した句であると思われ、
私はこのように解釈しながら、人生のはかなさ、哀歓を若き二十歳の時に、
この詩を学びだし、早くも59年の歳月が流れてしまった。

私は古稀と称せられる70歳を卒業して、早や79歳となり、
私は50代の後半から、私の大切な6人の友人、同世代の知人が不幸にして大病に遭遇して、
やがて逝去され、幾たびか冥福をしたりしてきた・・。

こうした中、つたない人生航路を歩んだ私は、こうして生きている・・。

たまたま本日、桜花を眺めたりすると、このような思いになってしまったりした。

            

やがて痛切感を振り払うように、いつものようにプラス思考に転じて、
角川春樹さんの書誌より学んだ《・・切実に豊かな人生を楽しむことが大事・・》と銘言を思い馳せて、
惰性に過ごすことなく、残こされた人生の日々を大切に過ごそう、と足早に自宅に向い歩き出した。

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