夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

今宵は、倉本 聰・脚本の『風のガーデン』新番組に期待し・・♪

2008-10-09 19:09:08 | 映画・テレビ
        はじめに

私としては、異例であるが民間のフジテレビで、
今宵から始まる新番組のドラマ『風のガーデン』が10時から放映されるので、
観ようとしている。

http://wwwz.fujitv.co.jp/garden/index.html

今朝の読売新聞のテレビ番組表で、
『試写室』のコーナーで読んで、知った・・。

倉本 聰が北海道・富良野を舞台に書き下ろしたオリジナル作品。
まさか、5日に急逝した緒形 拳の遺作になろうとは・・。

と解説が綴られて、作品のテーマは、
『死と家族の再生』と明示されていた。


私は日頃は、テレビのドラマは観ることが少ないが、
倉本 聰の脚本であったならば、例外としている。

私の作家、シナリオ・ライターの倉本 聰さんの深い思いで敬愛しているひとりであり、
こうした思いは、このサイトでも、
『倉本 聰さま、人の心を洗うもの・・♪』と題して、
2005年5月3日に投稿している。

私が何故、倉本 聰さんを敬愛したのか、
つたない綴りであるが再掲載する。



     第一章

読売新聞の朝刊の特集のひとつとして、
【時代の証言者】というコーナーがある。

本日まで、脚本家・倉本聰・氏の連載が続いていた・・。

すべて読んだかといえば、欠落した日もあったかも知れないが、
以前、『愚者の旅~わがドラマ放浪~』(理論社)が
2002年1月に発売されたのを読了していたので、
この内容を新聞読者に解り易く脚色している、と読み続けていた。

今回の最終回に於いて、わたしが気付かなかった点も含め、
このブログの読んでくださる方に知ってほしく、綴ります。


昔は原作者の小説家に比べて、脚本家の地位は低く、
新聞のテレビ欄にも名前が載らなかった。
向田邦子、山田太一さんはそんな現実に憤り、ともに戦った《戦友》です。

僕らが愛し、懸命に作ってきたドラマの水準は落ちている。
今の制作現場は、多くの先輩が培ってきた長所や技術を継承せず、
自分たちの流儀でよしとしているからね。
最も問題なのは、作り手のサラリーマン化です。

視聴者の好みに合わせて視聴率を取り、
局内で出世したいんでしょうか。
放送後は視聴率の話ばかりで、むなしくなります。

テレビは卑しい方へ、卑しい方へと向かっているように思える。
朝から人のうわさ話に席巻されている。
北海道・富良野の子供からも、テレビが流す品のない言葉を聞くと、
たまらないですよ。

連続ドラマ『北の国から』が放送された時、
富良野塾の塾生たちはまだ生まれていません。
彼らがいま見られるのはビデオのお陰だけれど、罪もある。

テレビが一家に1台の時代は、
多くの人が同時に共感できました。
1人1台に変わったうえ、VTRの浸透によって、
一諸に感動が味わえなくなった。

僕が塾生と芝居作りに力を入れてきたのは、
客席と感動を共有できるからです。

    略

ドラマは人の心を洗うものだと思う。
自分では「洗濯屋のオヤジ」と称しています。
表面だけでなく、心の奥まできれいにしたかどうか常に自問しながら、
これからも作り続けますよ。



このように綴られている。
注・原文を勝手ながら、改行を多くさせて頂きました。


私は以前、ライブドアとフジテレビが騒がれていた頃に、
テレビ局がある程度淘汰されても良い、と綴っている。

程度の低いドラマ、笑い番組が余りに多かったからです。
電波の無駄遣い、とかねがね思っていました。

日本の大衆文化は、程度の低い方に流れていると思ったからである。

従って私は、殆んど民間放送のテレビは、
ここ10年前後は視ません。

次章は創作者の中で、なぜ私が倉本聰・氏に敬愛したかを、綴る。


     第二章

私が倉本聰・氏の作品に初めて触れたのは、昭和50年1月過ぎであった。

『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。

その中に、東芝日曜劇場の『りんりんと』のシナリオがあった。
なんてシリアスなドラマを書く人、と印象が残った。

この雑誌には、『テレビ事件簿』の特集があり、
倉本聰・氏が『テレビドラマに思うこと』を寄稿していた。



テレビは一回しか放映されない。

3年間暖め、大事に大事に育てて来たものでも、
たった1回、1時間に燃え、もうそれきりで消えてしまう。

そのはかなさが、僕は好きである。

しかしそのはかなさを空しく感じてか、
優れたテレビの作家たちが、次々と別世界へ去っていってしまう。

田村孟氏然り、井上ひさし氏然り、藤本義一氏然り。

せめてシナリオ誌上だけでも、
テレビシナリオをもっと優遇してやっていただきたい。

それだけに賭けている者達の為に。



と綴られていたのが、いまだに私の脳裏に残っている。

この昭和50年のシナリオの後、倉本聰・氏の作品は、
私にとって平成元年まで空白の時となった。


     第三章

平成元年の初め、昭和天皇が崩御された頃は、
私はコンピューターの専任者だったので、仕事で忙しかった。

昭和から平成と年号の変換、4月より消費税の対応で睡眠時間を削って働いた。

1月の日曜日の夕方、疲れきった私は、
パジャマ姿で家内が買物に行くのを見送った。

お茶を淹れた後、ラジカセにカセット・テープをセットした。
そして人の尊厳を問うかのように、流れ聴こえてきた・・。


♪エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい

【『エレーン』 作詞・中島みゆき】


私は目頭が熱くなり、涙があふれ出た・・。


このカセットは、私の勤務する会社から発売されていたので、
試聴用として頂いたのを、初めて聴いた訳であった。

倉本聰・監督・脚本の『時計』オリジナル・サウンドトラックである。

この映画に使用された音楽は、

金子由香利の『時は過ぎてゆく』、

五輪真弓の『恋人よ』、

中島みゆきの『エレーン』、

浜田麻里の『ハート・ライン』、

高橋真梨子の『モノローグの九月』、

北原ミレイの『石狩挽歌』、

森昌子の『越冬つばめ』

等であった。

このように各レコード会社の有数な歌手を使用したのて、
発売先が問題があったが、テーマ曲が金子由香利であったので、
私の勤務先の会社で決まった、と上司から聞いている。

中島みゆきを知ったのは、この曲からである。

勤務先の関係より、中島みゆきの名と曲ぐらいは、
当然知っていたが、心の中に溶け込んできたのは、
この『エレーン』をきっかけとなった。


私は今でも、人生のめぐり合わせ、改めて不思議な作用だ、
と思ったりしていた。

私は偶然に、
この『時計』が金子由香利の曲をテーマに選定した倉本聰・氏のお陰で、
私は中島みゆきを識り得たからです。

この後、倉本聰・氏のシナリオ、随筆・映画と、
中島みゆきの音楽と、
私のお2人に対する熱中時代が、
少なくとも平成5年まで続くのである・・。



     第四章

店頭に行き、倉本聰・氏の本を探し始めたのは、平成元年の春だった。

随筆の『北の人名禄』、『冬眠の森~北の人名禄 Ⅱ~』を購入した後、
『谷は眠っていた~富良野塾の記録~』、『ニングル』を入手にした。
そして古本屋で、『さらばテレビジョン』、『新テレビ事情』、
『新・新テレビ事情』等であった。

シナリオとして、『北の国から』。

そして映画としては、
『冬の華』、『駅~STATION~』のビデオを観たした。

平成2年以降は、すべてリアルタイムであり、新刊本が揃っていった。
そして、私の本棚には、34冊の本がある。

この中で映画に関しては、
私の拙い鑑賞歴に於いて、少なくとも洋画は5000作品、
邦画は3000作品あるが、邦画のベストワンは『駅』を選定している。


このような結果、私は倉本聰・氏からは、
生活信条、創作の考え方、環境問題等で、多大なご教示を頂いています。

何はともあれ数多い創作家の中で、私が敬愛する10人の中のひとりある。

《完》



ブログランキング・にほんブログ村へ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 塩野七生・著の『ルネサンス... | トップ | 茜雲(あかねぐも)の朝を迎え... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画・テレビ」カテゴリの最新記事