夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑤

2010-05-06 15:49:27 | 定年後の思い
          第4章 私の定年後、初めて『慰霊の日』の思いは・・。

私は民間の中小業の会社を定年退職をした2004(平成16)年の秋であるが、
この翌年の2005(平成17)年の6月20日に於いて、
【『慰霊の日』に寄せて・・。】と題して、投稿していた。


【・・
今朝の読売新聞で、6月23日の沖縄県が制定した『慰霊の日』に寄せて、
ひとつの戦記の記事があった。

無断であるが転記させて頂く。

《・・
沖縄本島の南端に近い摩文仁(糸満市)に1995年6月、
「平和の礎(いしじ)」が建立された。
沖縄戦で最後の激戦地となった場所だ。

真っ青な海を見渡す敷地には、御影石でできた116基の
「刻銘碑」に、戦没者の名前が刻まれている。
今年、新たに720人が加わり、
ここに記される戦没者の合計は、23万9801人となった。

このうち、沖縄県出身者は、約15万人。
この数字は、満州事変(1931年9月)から太平洋戦争の終戦前後までに、
県内外で戦争で亡くなった人の合計だ。

実際に沖縄戦を巡って犠牲となった県民は約10万人、
兵士などを含めた日本人犠牲者の総数は約18万8000人(県推定)とされる。

1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍の猛攻を、
日本軍の兵士だった仲本宗秀さん(80歳)は、
「夜も照明弾で真昼のように明るくなり、米兵に見つからないよう、
絶え間なく襲ってくる砲弾の中で、死んだふりをした」
と振り返る。

最南部の喜屋武岬一帯には、
1ヶ月間に680万発ものの砲弾が撃ち込まれた、という推計もある。

住民の集団自決が相次ぎ、
沖縄陸軍病院に動員された女学生ら136人が犠牲となった「ひめゆり学徒隊」の悲劇など、
筆舌に尽くしたがい惨状とが繰り広げられた。

同年6月23日、軍司令官の牛島満・陸軍中将らが摩文仁で自決。
この後も戦闘は続いたが、日本軍の組織的戦闘が終結した日として、
沖縄県は23日を慰霊の日と定めている。
・・》

以上が記事の全文である。


この沖縄戦は、米軍による圧倒的な軍事力の下で、
戦争の名目を借りた近代歴史の前例にない《大虐殺》である。

米軍としては、本土に控える日本軍への見せしめに行なった
《大虐殺》でもある。

この沖縄戦は、硫黄島、ノルマンディーと決定的に違うのは、
圧倒的な軍事力の基で、抵抗が殆んど出来ない住民が多く、
住民を巻き込み、住民を蹂躙した戦況による《大虐殺》が実情なので、
今後もアメリカ・サイドによる戦争映画としては一般大衆が観る映画化は出来ない、
と確信を深めている。

そして何よりの沖縄の悲劇は、地理的な位置にある。
太平洋のアメリカに寄る、飛び石戦略、位置。

そして、敗戦後の冷戦による、反共封じ込めの軍事上の重要な位置・・。

私は、日本の本土の犠牲となった沖縄の人々を
正常な神経を持ち続ける限り、感謝の念を忘れることは出来ないだろう。

・・】

                                 《つづく》


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