私は過ぎし3日の夜、ネットで『日経トレンディ』の「ヒット商品ベスト10」を読み、
無学な私は翌日の4日に、最寄りのコンビニに立ち寄り、
日経トレンディ12月号(11月4日発売)を購入し、先ほどまで読んだりしていた。
今回の12月号に於いては、特集内容の本年の【2011 ヒット商品ベスト30】、
そして来年の【2012 ヒット予測ランキング】掲載されている。
こうした心情の根底には、世の中の流行も知らず、せめてヒット商品を誌上で学び、教示され、
何事も好奇心をなくしたら、この人生は終わりだ、
という秘かに生活信条としている私は言動のひとつあるからである。
この中の記事のひとつに、【ヒットの裏側 ② ツイッター VS フェイスブック 】に於いて、
《・・
『ツイッター派』
「本音、シンプル」
、『フェイスブック派』、
「実名、身近」
・・》
好みで分かれる、大きく明記されて、詳細に丁重に綴られていた・・。
私は携帯電話さえ使えない国民ととして稀(まれ)なひとりであり、
まして『ツイッター派』、『フェイスブック派』、と問われても、大いに戸惑ったりしている。
何よりも国家の動乱時、或いは災害などのの緊急時ならともかく、
平穏時には、スマートフォン(多機能携帯電話)は、過剰な情報機器と思っているので、
世の中の時流から取り残され、世捨て人のひとりになったか、と微苦笑している。
このような偏屈者の私は、『ツイッター』で盛んに《 つぶやき 》などが流行っている昨今、
おかしな社会になっている、と苦笑している私である。
このような社会の時流に、私の心情を発露し、このサイトで今年の1月25日に於いて、
【 『ツイッター』は、まぎれなく日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』に最適と思い・・。】
と題して投稿したが、あえて再掲載をする。
【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の66歳の身であるが、
定年退職の2004(平成16)年の後、まもなく『ブログ』の世界を知り、
殆ど毎日、ブログの投稿文をしている。
そして確か2007(平成19)年の頃から、
急激に普及した『ツイッター』に関しては、私は発信できないでいる。
『ツイッター』は短い綴りで、つぶやくような文章と私は解釈しているので、
短い言葉で私の今の心情を発露するようなことは、無念ながら私には筆力がないので、
利用したことがないのである。
しかしながら、ある程度の長い文章の綴りであるならば、
つたない私なりに『ブログ』の投稿文として、
日常の思い、或いは思索したいることなどを心の発露として綴ったりし、
ここ6年ばかり投稿している。
昨今の日本の社会に於いて、『ツイッター』の利用される方の一部で、
少し心の礼節を失くした方の発信文が問題となっている、と風の噂で聞いたりしている。
昨夕、読売新聞の夕刊(2011年1月24日)に於いても、この問題の記事が掲載されている。
《・・
ツイッターに詳しい武田徹・恵泉女学園大学園教授(メディア論)は、
「ブログに比べて、ツイッターは公私の差があいまい」
と指摘する。
つぶやきは通常、自分の書き込みをチェックしている人(フォロワー)に向けられているため、
友人や家族に話す感覚に近くなる。
実際には自分のフォロワーの先には、さらにフォロワーがいて、
大きな波及力があることが忘れられがちだ。
ツイッターを使いやすくするスマートフォン用ソフトも出ており、
見たことをその場で書き込んでしまうことも、軽率なつぶやきを生みやすい。
武田教授は、
「書き込んだ本人が特定されれば、損害賠償を求められる可能性もある」
と注意する。
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私はこの記事から、『ツイッター』の世界を多々学び、
『フォロワー』という言葉も初めて教示され、スマートフォンも使えないひとりであり、
この社会の流れに困ったなぁ、とため息を重ねたりした。
日中のひととき、いつものように、近くに流れる野川の川沿いの遊歩道を散策した。
陽だまりの良い処で、白梅の純白の花が七分咲きとなり、
私は立ち止まり、見惚(みと)れたりしている。
こうした時、脳裏から『ツイッター』こそは、
まぎれなく日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』などに最適だ、
と思ったりしたのである・・。
短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれている。
俳句は、五・七・五の三句十七音から成る定型詩であり、
「季語」さえ含めば、内容も自在であり、江戸時代から多くの方に愛されてきている。
そして川柳は、五・七・五の十七音の定型で、
ユーモアに富んだ言葉使い、或いは世の中を風刺した作風で、
江戸時代に発生し、明治時代の頃から、多くの方たち慕われてきた。
このように私は思いながら、『ツイッター』を利用される方たちは、
短歌や俳句の一句を詠まれたり、或いは川柳の一句でも吐くことをされれば、
この上なく日本文化は隆盛し、何よりも当人は更に心が豊かになる、と確信を深めたりした。
尚、私は無念ながら短歌や俳句を詠む素養はなく、
『ブログ』の世界で散文のようなつたない綴りを殆ど毎日投稿をしている。
・・】
このように投稿しているが、若い方たちが、つぶやき、など安易な言葉よりも、
ご自身の心情の発露、或いは思考していることの表現は、
短歌、俳句の一句を詠むか、川柳の一句でも吐くことをされれば、或いは散文をブログで綴られれば、
貴重な時間の浪費にならないのに・・妄想を重ねている。
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無学な私は翌日の4日に、最寄りのコンビニに立ち寄り、
日経トレンディ12月号(11月4日発売)を購入し、先ほどまで読んだりしていた。
今回の12月号に於いては、特集内容の本年の【2011 ヒット商品ベスト30】、
そして来年の【2012 ヒット予測ランキング】掲載されている。
こうした心情の根底には、世の中の流行も知らず、せめてヒット商品を誌上で学び、教示され、
何事も好奇心をなくしたら、この人生は終わりだ、
という秘かに生活信条としている私は言動のひとつあるからである。
この中の記事のひとつに、【ヒットの裏側 ② ツイッター VS フェイスブック 】に於いて、
《・・
『ツイッター派』
「本音、シンプル」
、『フェイスブック派』、
「実名、身近」
・・》
好みで分かれる、大きく明記されて、詳細に丁重に綴られていた・・。
私は携帯電話さえ使えない国民ととして稀(まれ)なひとりであり、
まして『ツイッター派』、『フェイスブック派』、と問われても、大いに戸惑ったりしている。
何よりも国家の動乱時、或いは災害などのの緊急時ならともかく、
平穏時には、スマートフォン(多機能携帯電話)は、過剰な情報機器と思っているので、
世の中の時流から取り残され、世捨て人のひとりになったか、と微苦笑している。
このような偏屈者の私は、『ツイッター』で盛んに《 つぶやき 》などが流行っている昨今、
おかしな社会になっている、と苦笑している私である。
このような社会の時流に、私の心情を発露し、このサイトで今年の1月25日に於いて、
【 『ツイッター』は、まぎれなく日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』に最適と思い・・。】
と題して投稿したが、あえて再掲載をする。
【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の66歳の身であるが、
定年退職の2004(平成16)年の後、まもなく『ブログ』の世界を知り、
殆ど毎日、ブログの投稿文をしている。
そして確か2007(平成19)年の頃から、
急激に普及した『ツイッター』に関しては、私は発信できないでいる。
『ツイッター』は短い綴りで、つぶやくような文章と私は解釈しているので、
短い言葉で私の今の心情を発露するようなことは、無念ながら私には筆力がないので、
利用したことがないのである。
しかしながら、ある程度の長い文章の綴りであるならば、
つたない私なりに『ブログ』の投稿文として、
日常の思い、或いは思索したいることなどを心の発露として綴ったりし、
ここ6年ばかり投稿している。
昨今の日本の社会に於いて、『ツイッター』の利用される方の一部で、
少し心の礼節を失くした方の発信文が問題となっている、と風の噂で聞いたりしている。
昨夕、読売新聞の夕刊(2011年1月24日)に於いても、この問題の記事が掲載されている。
《・・
ツイッターに詳しい武田徹・恵泉女学園大学園教授(メディア論)は、
「ブログに比べて、ツイッターは公私の差があいまい」
と指摘する。
つぶやきは通常、自分の書き込みをチェックしている人(フォロワー)に向けられているため、
友人や家族に話す感覚に近くなる。
実際には自分のフォロワーの先には、さらにフォロワーがいて、
大きな波及力があることが忘れられがちだ。
ツイッターを使いやすくするスマートフォン用ソフトも出ており、
見たことをその場で書き込んでしまうことも、軽率なつぶやきを生みやすい。
武田教授は、
「書き込んだ本人が特定されれば、損害賠償を求められる可能性もある」
と注意する。
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私はこの記事から、『ツイッター』の世界を多々学び、
『フォロワー』という言葉も初めて教示され、スマートフォンも使えないひとりであり、
この社会の流れに困ったなぁ、とため息を重ねたりした。
日中のひととき、いつものように、近くに流れる野川の川沿いの遊歩道を散策した。
陽だまりの良い処で、白梅の純白の花が七分咲きとなり、
私は立ち止まり、見惚(みと)れたりしている。
こうした時、脳裏から『ツイッター』こそは、
まぎれなく日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』などに最適だ、
と思ったりしたのである・・。
短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれている。
俳句は、五・七・五の三句十七音から成る定型詩であり、
「季語」さえ含めば、内容も自在であり、江戸時代から多くの方に愛されてきている。
そして川柳は、五・七・五の十七音の定型で、
ユーモアに富んだ言葉使い、或いは世の中を風刺した作風で、
江戸時代に発生し、明治時代の頃から、多くの方たち慕われてきた。
このように私は思いながら、『ツイッター』を利用される方たちは、
短歌や俳句の一句を詠まれたり、或いは川柳の一句でも吐くことをされれば、
この上なく日本文化は隆盛し、何よりも当人は更に心が豊かになる、と確信を深めたりした。
尚、私は無念ながら短歌や俳句を詠む素養はなく、
『ブログ』の世界で散文のようなつたない綴りを殆ど毎日投稿をしている。
・・】
このように投稿しているが、若い方たちが、つぶやき、など安易な言葉よりも、
ご自身の心情の発露、或いは思考していることの表現は、
短歌、俳句の一句を詠むか、川柳の一句でも吐くことをされれば、或いは散文をブログで綴られれば、
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