夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

だががタケノコ、されど筍(たけのこ)、ささやかな私の筍(たけのこ)の思いは・・。

2012-04-11 14:42:54 | 食べ物、お酒
昨日の朝、NHK総合テレビの『あさイチ』で筍の特集を家内が視聴していて、
たまたま私も少し見たりしました、
私は幼年期は農家の児として育ち、ささやかな筍に関しては思いもあり、
これまで家内には幾たびか筍の話題を話し合ったりしてきた・・。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の67歳の身であるが、
日常の私は、殆ど毎日、付近の遊歩道を歩いたりし、周辺の情景を眺め、
季節のうつろいを享受している。

ときおり遠方に散策したりする時、偶然に孟宗竹の竹林に出会った時は、
思わず足を止めて、しばらく眺めたりしている・・。

或いは国内旅行の旅先で、孟宗竹の竹林を観た時も、
私は時間が許す限り、眺めたりしている・・。


私が小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。
そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、物置小屋と称した納戸などがある農家であった。

そして竹林は、孟宗竹だけでも2反(600坪)程あり、
4月の終わりの頃になると、筍を殆ど毎日のように、数週間ぐらい青果市場に出荷していた。

秋になると、祖父と父は地表に根が出そうになったのを最低50センチぐらい堀起こし、、
枯れた竹の葉、肥料を施して、地中に埋めた。
次兄と私は、穴が掘られた後に子供心にいたずらをし、父によく怒られた。

春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。
地割れと土壌が固くなるので、私たち子供は近寄れなかったのである。

4月の下旬から5月の初め、
柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、筍を掘り出すためであった。
この微かな地割れを専用のスコップで60センチぐらい堀り、やがて大きな筍を掘り出した。
すべて地中で育ち、根元は最低10センチ以上あり、
少しでも地上に芽が出たものは身が固くなるので、商品価値が激減するのである。

地上から5センチ以上芽がだした筍は、皮は黒ずみ、身が固くなるので
子供心でも、カラス、と呼んでいた・・。
このカラスは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
地中にあった良質の筍は、市場に出荷していた。

それから残した筍は、日増しに大きくなり、若い竹となり、
子供心でも著しい成長を眺め、感嘆した心を躍らせていた・・。


夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、ときたま風が吹くと、
さわさわとした葉ずれの音を聴き、心地よいひと時を感じたりした。

秋のある日、竹細工の方が買い付けにきたりした。
この当時は、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用とかで何処の家も使われていた。
その後、1953〈昭和28)年の春に父は病死し、翌年に祖父も他界した。

私の生家、周辺の農家も、この後に急速に変わり、竹林も無くなった。


この間、私が小学生の頃、付近の崖に面した傾斜地に著名な小説家の邸宅があった。
傾斜には竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があった。

私は小学4年ぐらいの時、級友たちの間で小説家が引っ越してきた、と噂が広がり、
私は独りで下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた。

『あれが小説家かょ・・何か難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、高校生になった私は駅前の本屋に行った時、
店内の壁面に色紙と写真が掲げられていた。
そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤かょ、と気づかされたのである。

私が大学入学後、ある体育系の部に所属した時、
同期の方が福井県、福岡県の友がいた。
地上から5cm以上、芽を出し伸びたものは筍じゃない、と言ったりした時、
半信半疑の目付きをされたので、困ったりした。

私の新婚旅行の時、京都市内の外れで、筍の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。

私の生家では、少なくとも30センチ、根回りが10センチ以上が基準値であったので、
これが筍かょ、と感じた。

このような思いがあり、地方のお方は理解してくれるかしら、と思い続けていた。

幸いにして、確か2006〈平成16〉年の五月に、
読売新聞に於いて、【彩事記】が随時掲載をされている記事であり、
私の思いに近い記事で、榊原智子・記者が綴られた記事を無断ながら引用させて頂く。

《・・
今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、
例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、タケノコ狩りのピークを迎えているという。

タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。

とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、
身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。

これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。

それほど盛んに栽培されたタケノコだが、
関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。
(略)
・・》
このように時代の趨勢を綴られていた。


その後、私は2009〈平成21〉年の4月、私たち夫婦は家内の母を誘い、
鹿児島市内と霧島温泉に5泊6日の旅をした時である。

この中で、鹿児島市の郊外にある島津家の別邸で名高い磯庭園と称せられた『仙厳園』に、
私は独りで観て廻ったりした。

この時は、四年前に、家内と団体観光ツアーでこの『仙厳園』と隣接された『尚古集成館』を訪れた時は、
わずか二時間半ばかりで慌(あわ)ただしく拝見した程度であり、
何かと心残りがあったのも本心でもあった。

一時間近く歩き廻り、喉の乾きを覚えたので、
『竹徑亭』に寄り、抹茶を飲みながら、和菓子を頂き、
窓辺からはボタンの花がたわわに咲き、それぞれの色合いに染められ、
この時節を教示してくれた。

この後、中国の江南地方より移植された孟宗竹の竹林を長らく私は見つめていた・・。
そして、この地から孟宗竹は日本各地に広まった、と解説されていた。


ここ30年近く、私が住んでいる近くに生家だった長兄の宅より、
この時節になると毎年頂いている。
長兄の宅の宅地のはずれに、五、六坪の竹林があり、
手入れも昔ほど出来なくなり、地表に出た、カラスを掘り起こしている。

このカラスと称した筍であるが、家内に料理してもらい、
私は3日も続けて食べたりし、家内に飽きられながらも、
幼年期の愛惜感も増して、この世の最上の食べ物のひとつである、と思いを深めながら頂いている。

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1 コメント

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お花見行ってきました。 (ロッキータイガー)
2012-04-11 19:45:11
お父さん
こんばんわ
奥様が実家に行っていて
花見には行けないのではとコメント
拝見いたしましたが、
友人3人で都立水元公園に行ってきました。
皆さん年配の方ですが
自転車乗っていてもスムーズでびっくりです。
69歳59歳42歳
変な組み合わせ。
まるで仕事仲間みたいですが
サウナ温泉仲間なんですよ。
今週でお花見も終わりそうだってので
また変わったことなど
報告したりますね。
では。
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