夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときには私の死後の世界は、里辺の草花の中で・・と思い馳せ・・。

2023-02-08 14:26:00 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住んでいる年金生活の78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、いつものように午前中のひととき、
自宅の周辺を散策している中、ベンチに腰掛けて、
冬晴れのまばゆい陽射しの空を見上げたりしていた・・。


やがて漠然としながらも、幼年期のある日、危篤の状況なったことが、
脳裏から舞い降りてきた・・。




私は今住んでいる近くに生家があり、1944年 (昭和19年) の秋に、
農家の児として生を受けた。

この当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であり、生家は祖父と父が中心となって、
程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊となったが、
この当時は戦時中で、食糧、医療条件が乏しく、やむなく病死することもあったが、
跡継ぎの候補は、兄ふたりのいずれかとなって、万全と思え、
このような中で、祖父と父は三番目の児として女の子を期待していた思いがあった。

やがて、私の下に1947年 (昭和22年) の1月に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は、女の子を待ち焦がれたように溺愛したりした。

このような状況を見て、私は幼児なりに疎外されたように感じ、
いじけた可愛げのない児となったり、無口のひとりとなったりした。


このような状況下で、私は3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、
診察を受けたした・・。

父と母は、幼児を放置していたかのような状態に、医師から叱咤を受けたりした。

しかしながら、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、
富山の薬の販売員が、担当地域のそれぞれの家を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。

そして家族の誰かが風邪などの場合は、この常備薬の風邪薬を飲んでいたし、
腹痛、歯の痛みなどは、この常備薬に対応した薬を飲んで、治したりしていた。

まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
1955年 (昭和30年)の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院が開業された時代であった。




私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、ときおり呼吸が困難となり、やがて危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言された。

この後、やむなく祖父は、親戚のひとりに、
3番めXXX(私の名前)が危篤状態であるが、無念ながら助からない、
と意味合いの言葉を親戚、隣人、知人に伝達するように依頼をしたりした。

私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が30分ぐらい続き、
死の淵をさまよう表情に苦悶し、
まもやく祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたりした・・。

私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。

そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだりした。


このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『残念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と言いながら、強心剤の注射をした。

そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生した・・。


こうしたことは、父は私が小学2年、まもなく祖父も亡くなった後、
まもなく父の妹のひとりの叔母から、私は教えて頂いたことである。

その後、長兄とか次兄に、
私が二十歳になるまで数回、
『XXXの・・死に水・・俺は飲まされた・・』
と苦笑しながら、私に言ったりした。

或いは叔母のひとりが何かの会合の時、
『XXXは・・一度死んだ身なので・・長生きするわょ』
と私に励ましの言葉のような意味合いで、言われたこともあったりした。



私の父は肝臓を悪化して42歳で亡くなったので、
私は中学生の頃から、父の死の42歳を乗り越える責任がある、と漠然と思ったりした。

やがて私が42歳になった時は、せめて60歳のサラリーマン定年退職までは、
生きる責務を強く感じてきた。

そして、定年退職の5年前の55歳の頃は、リストラで遠い勤務先に勤め始めた時、
定年後10年間だけは、何とか五体満足に生かして貰らえれば、
あとの70歳以降は余生と思ってきたりした。

私は、


こうした時、私がいつの日にか、この世と別れを告げた後、
暖かな陽差しを受けたクヌギ、コナラ、白梅などの冬木立の中、
地表は水仙、福寿草、たんぽぽがひっそりと咲き、
このような状況で私は迎えられれば、私にとっては天国だ、
と夢想したりしている。
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