私の生家は京王線の金子駅(現在・つつじが丘)か仙川駅が最寄駅であり、
15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が健在の時は農業をしていたが、
1953(昭和28)年の春に父が病死され、翌年の5月に祖父も死去し、
大黒柱の二つをなくした実家は旧家としては衰退した。
その後、私が小学5年の頃の1956〈昭和31〉年の前後から、
田畑、雑木林、竹林が住宅街に急激に変貌し、都心のベットタウンとなった。
このような状況の中で、私の実家の周辺も住宅街となり、
桐朋学園が徒歩で10分ぐらいの地域でもあったせいか、
桐朋学園の高校生、大学生の人たちが親戚、知人の家を頼り、下宿に利用された家、
或いは生徒の親御さんが転居されてきた家もあった。
私が鮮烈に記憶していることは、1963(昭和38)年の頃、
私は実家に居て大学生の身であり、近所の家からバイオリンの音色が、
毎日ある一定の時刻から聴こえはじめて、数時間は続いていた・・。
練習をしているらしく、今日はスムーズに聴こえてくる、と私なりに感じたりした。
その後、音色は途絶えたので、卒業したのかしら、と思ったりしていた。
数年後、日本の有数なバイオリニストになった、と私は新聞で知った。
この一年前の頃、実家の最寄に、音楽家の夫婦が引っ越されてきた。
斬新なデザインの家屋で、ご主人は、日本のある交響楽団でオーボエを担当され、
奥様はピアニストである、と風の噂で聞こえたきた。
日中からピアノの音色が聴こえ、
私なりに何回も聴いているうちに、そのピアノ独奏曲を覚えてしまった。
私が10数曲覚えた頃、海外に行かれた、と後日知った。
私が23歳になると、このピアニストは日本の国内の有数なホールで、
ピアノ独奏会を開催するまでになった。
数年後、あるレコード会社でレコードを3枚録音し、
ご主人と離婚されて、少し遠方にある小高い丘陵に一軒屋で過ごされている、
と私は知った。
私は映画・文学青年の真似事をして、敗退した後、
1970〈昭和45〉年の春に、ある大手の民間会社に何とか中途入社し、
この中の一部門が、まもなくレコード会社として独立し、私も異動させられて、
音楽の制作する部門でない管理系の情報畑、経理畑、営業畑、管理畑を35年近く奮闘し、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職となった。
私は住む家は実家の近くに住んで、小田急線の成城学園前、喜多見、狛江の各駅、
そして京王線の仙川、つつじが丘の各駅に、買い物とか散策に何かと行ったりしている。
そして仙川方面に往復するたびに、桐朋学園の高校生、大学生の人たちをよく見かける。
こうした時、私の高校生の頃は、棉か絹のブラウスとスカートの容姿で、
楽譜を右手に持ちながら、真摯に音楽を学ぶ生徒さんに眩(まぶ)しく見え、好感したりしていた。
或いは私が27歳前後に、他の音楽専門大学を卒業した25歳の女性でピアニストをめざしている方に、
交際して、やがて私はプロポーズしたが、あえなく断られて失恋した、
苦い体験もある。
こうしたささやかな体験がある私は、現代の桐朋学園の高校生、大学生の人たちを見かけると、
少しばかり複雑な心境で苦笑しながら、今・・頑張ばらなくて・・いつ学びのよ、と心の中で声援したりしている。
私は恥ずかしながら楽譜も読めなく、どの楽器も弾けない拙(つたな)い身であるが、
ただ音楽を聴くのは好きであり、その日に応じた感性で、音楽を聴いたりしている。
ときおり感動するあまりに、涙ぐむ時もある。
しかしながら、音楽にも素養のない私は音楽に直接に携わる人・・アーティストの心情は、
少しは理解できる程度が、無念ながら本音である。
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村

にほんブログ村
15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が健在の時は農業をしていたが、
1953(昭和28)年の春に父が病死され、翌年の5月に祖父も死去し、
大黒柱の二つをなくした実家は旧家としては衰退した。
その後、私が小学5年の頃の1956〈昭和31〉年の前後から、
田畑、雑木林、竹林が住宅街に急激に変貌し、都心のベットタウンとなった。
このような状況の中で、私の実家の周辺も住宅街となり、
桐朋学園が徒歩で10分ぐらいの地域でもあったせいか、
桐朋学園の高校生、大学生の人たちが親戚、知人の家を頼り、下宿に利用された家、
或いは生徒の親御さんが転居されてきた家もあった。
私が鮮烈に記憶していることは、1963(昭和38)年の頃、
私は実家に居て大学生の身であり、近所の家からバイオリンの音色が、
毎日ある一定の時刻から聴こえはじめて、数時間は続いていた・・。
練習をしているらしく、今日はスムーズに聴こえてくる、と私なりに感じたりした。
その後、音色は途絶えたので、卒業したのかしら、と思ったりしていた。
数年後、日本の有数なバイオリニストになった、と私は新聞で知った。
この一年前の頃、実家の最寄に、音楽家の夫婦が引っ越されてきた。
斬新なデザインの家屋で、ご主人は、日本のある交響楽団でオーボエを担当され、
奥様はピアニストである、と風の噂で聞こえたきた。
日中からピアノの音色が聴こえ、
私なりに何回も聴いているうちに、そのピアノ独奏曲を覚えてしまった。
私が10数曲覚えた頃、海外に行かれた、と後日知った。
私が23歳になると、このピアニストは日本の国内の有数なホールで、
ピアノ独奏会を開催するまでになった。
数年後、あるレコード会社でレコードを3枚録音し、
ご主人と離婚されて、少し遠方にある小高い丘陵に一軒屋で過ごされている、
と私は知った。
私は映画・文学青年の真似事をして、敗退した後、
1970〈昭和45〉年の春に、ある大手の民間会社に何とか中途入社し、
この中の一部門が、まもなくレコード会社として独立し、私も異動させられて、
音楽の制作する部門でない管理系の情報畑、経理畑、営業畑、管理畑を35年近く奮闘し、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職となった。
私は住む家は実家の近くに住んで、小田急線の成城学園前、喜多見、狛江の各駅、
そして京王線の仙川、つつじが丘の各駅に、買い物とか散策に何かと行ったりしている。
そして仙川方面に往復するたびに、桐朋学園の高校生、大学生の人たちをよく見かける。
こうした時、私の高校生の頃は、棉か絹のブラウスとスカートの容姿で、
楽譜を右手に持ちながら、真摯に音楽を学ぶ生徒さんに眩(まぶ)しく見え、好感したりしていた。
或いは私が27歳前後に、他の音楽専門大学を卒業した25歳の女性でピアニストをめざしている方に、
交際して、やがて私はプロポーズしたが、あえなく断られて失恋した、
苦い体験もある。
こうしたささやかな体験がある私は、現代の桐朋学園の高校生、大学生の人たちを見かけると、
少しばかり複雑な心境で苦笑しながら、今・・頑張ばらなくて・・いつ学びのよ、と心の中で声援したりしている。
私は恥ずかしながら楽譜も読めなく、どの楽器も弾けない拙(つたな)い身であるが、
ただ音楽を聴くのは好きであり、その日に応じた感性で、音楽を聴いたりしている。
ときおり感動するあまりに、涙ぐむ時もある。
しかしながら、音楽にも素養のない私は音楽に直接に携わる人・・アーティストの心情は、
少しは理解できる程度が、無念ながら本音である。
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪


