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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

堤 剛(つつみ・ つよし)氏の発露された言葉、私は遥か遠い50数年前の情景を思い馳せ・・。 【下】

2011-09-03 13:56:25 | 定年後の思い
私の生家は京王線の金子駅(現在・つつじが丘)か仙川駅が最寄駅であり、
15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が健在の時は農業をしていたが、
1953(昭和28)年の春に父が病死され、翌年の5月に祖父も死去し、
大黒柱の二つをなくした実家は旧家としては衰退した。

その後、私が小学5年の頃の1956〈昭和31〉年の前後から、
田畑、雑木林、竹林が住宅街に急激に変貌し、都心のベットタウンとなった。

このような状況の中で、私の実家の周辺も住宅街となり、
桐朋学園が徒歩で10分ぐらいの地域でもあったせいか、
桐朋学園の高校生、大学生の人たちが親戚、知人の家を頼り、下宿に利用された家、
或いは生徒の親御さんが転居されてきた家もあった。


私が鮮烈に記憶していることは、1963(昭和38)年の頃、
私は実家に居て大学生の身であり、近所の家からバイオリンの音色が、
毎日ある一定の時刻から聴こえはじめて、数時間は続いていた・・。
練習をしているらしく、今日はスムーズに聴こえてくる、と私なりに感じたりした。

その後、音色は途絶えたので、卒業したのかしら、と思ったりしていた。

数年後、日本の有数なバイオリニストになった、と私は新聞で知った。


この一年前の頃、実家の最寄に、音楽家の夫婦が引っ越されてきた。
斬新なデザインの家屋で、ご主人は、日本のある交響楽団でオーボエを担当され、
奥様はピアニストである、と風の噂で聞こえたきた。

日中からピアノの音色が聴こえ、
私なりに何回も聴いているうちに、そのピアノ独奏曲を覚えてしまった。
私が10数曲覚えた頃、海外に行かれた、と後日知った。

私が23歳になると、このピアニストは日本の国内の有数なホールで、
ピアノ独奏会を開催するまでになった。

数年後、あるレコード会社でレコードを3枚録音し、
ご主人と離婚されて、少し遠方にある小高い丘陵に一軒屋で過ごされている、
と私は知った。


私は映画・文学青年の真似事をして、敗退した後、
1970〈昭和45〉年の春に、ある大手の民間会社に何とか中途入社し、
この中の一部門が、まもなくレコード会社として独立し、私も異動させられて、
音楽の制作する部門でない管理系の情報畑、経理畑、営業畑、管理畑を35年近く奮闘し、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職となった。


私は住む家は実家の近くに住んで、小田急線の成城学園前、喜多見、狛江の各駅、
そして京王線の仙川、つつじが丘の各駅に、買い物とか散策に何かと行ったりしている。
そして仙川方面に往復するたびに、桐朋学園の高校生、大学生の人たちをよく見かける。

こうした時、私の高校生の頃は、棉か絹のブラウスとスカートの容姿で、
楽譜を右手に持ちながら、真摯に音楽を学ぶ生徒さんに眩(まぶ)しく見え、好感したりしていた。

或いは私が27歳前後に、他の音楽専門大学を卒業した25歳の女性でピアニストをめざしている方に、
交際して、やがて私はプロポーズしたが、あえなく断られて失恋した、
苦い体験もある。

こうしたささやかな体験がある私は、現代の桐朋学園の高校生、大学生の人たちを見かけると、
少しばかり複雑な心境で苦笑しながら、今・・頑張ばらなくて・・いつ学びのよ、と心の中で声援したりしている。


私は恥ずかしながら楽譜も読めなく、どの楽器も弾けない拙(つたな)い身であるが、
ただ音楽を聴くのは好きであり、その日に応じた感性で、音楽を聴いたりしている。
ときおり感動するあまりに、涙ぐむ時もある。
しかしながら、音楽にも素養のない私は音楽に直接に携わる人・・アーティストの心情は、
少しは理解できる程度が、無念ながら本音である。


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堤 剛(つつみ・ つよし)氏の発露された言葉、私は遥か遠い50数年前の情景を思い馳せ・・。 【上】

2011-09-03 10:12:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
昨夕、いつものように門扉の近くに設置してある郵便受け入れ箱を覗(のぞ)いたら、
調布市文化・コミュニティが発行する月刊誌『ぱれっと』が入っていた。

私は地元の調布市にある文化施設の『たづくりグリーンホール』の今後の音楽会などの案内書であり、
玄関の軒下で見たのであった。

今回の9月号のトップ記事として、11月27日に於いて、
堀 正文(ヴァイオリン)、堤 剛(チェロ)、清水和音(ピアノ)3氏に寄る
ピアノ三重奏のベートーヴェンの『大公』、チャスコフスキーの『偉大な芸術家の思いで』を演奏曲として、
明示されていた。

この記事の右側に、堤 剛氏のインタビューの記事が掲載されて、
《チェリストであり、桐朋学園大学学長の堤剛氏を、
桐朋学園仙川キャンパスの学長室に訪ねました。
堤氏は、ご自身も桐朋学園のご出身です。》
と明記されていたので、我が家から徒歩10分ぐらいにあるので、
少しばかり親近感を抱きながら、インタビュー記事を読みはじめた・・。

《・・
「私が仙川に通い始めたころ、このあたりは畑ばかりで、
キューピーの工場だけがありました。

藤沢の自宅から仙川までの通学は大変だったので、
一年ほど下宿していたのがチェリストの藤原真理さんの家でした。
ほら、そこが真理さんの家」
と堤氏は学長室から指してくださいました。

堤氏は8歳の頃、日本で戦後初めて作られた1/2サイズのチェロに出会います。
そしてご縁あって紹介されたのが、
小澤征爾氏や多くの音楽家を育てた斎藤秀雄氏でした。

「母と初めて斎藤先生のお宅に伺った時、母の方が緊張していました。
私は先生の前で悠々とブラームスの子守歌を弾いてみたところ、
入門が許可され、お月謝が500円と言われました」
・・》

こうしたインタビュー記事が掲載されていたのであるが、
《・・私が仙川に通い始めたころ、このあたりは畑ばかりで、
キューピーの工場だけがありました。・・》
と発露された言葉により、私は50年前後の情景を思い馳せられたのである。


堤剛氏は1942(昭和17)年7月生まれであるので、私より2年ばかり齢上のお方であり、
《・・父親からチェロの手ほどきを受け、8歳で第1回リサイタルを開催。
桐朋学園でチェリストで指揮者の斎藤秀雄に師事、
桐朋学園高校音楽科卒業後にインディアナ大学へ留学しヤーノシュ・シュタルケルに師事した。
1963年よりシュタルケルの助手を務める。

1957年、第26回日本音楽コンクールのチェロ部門で第1位と特賞を獲得、
1960年、NHK交響楽団の欧米演奏旅行に同行し、評判を博した。
その後、1963年ミュンヘン国際音楽コンクールで第2位、ブダペスト国際音楽コンクールで第1位を獲得し、
世界各地のオーケストラと多数共演、演奏活動を行う。
西オンタリオ大学准教授、イリノイ大学教授、インディアナ大学教授を歴任し後進の指導にもあたる。

ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル他より収録CD、演奏曲を多数発表。
古典音楽から現代音楽まで幅広い演目をもつチェリスト。
・・》
このように輝かしい世界的に著名なチェリストであり、
8歳の少年期の頃から、京王線の『仙川』駅から程近い桐朋学園の周辺の情景を知っているので、
私はこの当時の情景に思いを思いを重ねた・・。


私は調布市で農家の三男坊として、1944(昭和19)年に生を受けた。
そして、1951(昭和26)年の春に地元の京王線の金子駅(現在・つつじヶ丘駅)の近くにある小学校に入学した。

この当時の情景は、駅周辺は商店街があったが、この街を過ぎると、田畑が広がり、
雑木林などで緑豊かな地域であった。

私の生家は金子駅より15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が中心となって農業をしていた。
田畑の中に1メートルぐらいの川幅のある小川が流れ、長兄、次兄たちに竹に針を付けたりして、
ときおり鰻(ウナギ)を釣り上げたりしていた。

私は小学校を下校する時、ときおり遠回りして帰宅した。
校門を出て新宿駅方面のひと駅は仙川駅であり、この間の周辺を歩いた。
校門から少し歩くと畑道があり、その先は田んぼのあぜ道であった。
そして前方に丘のように少し切立った国分寺崖があり、この高台に仙川地域となっていた。

この間の田んぼのあぜ道の近くに流れる小川を眺めたり、
或いは崖下の小道を歩き、湧き水を見つめたりしていた。
そして授業の図画の写生の時などで、先生に連れられて、
崖の周辺の丘陵にあった高射砲台の跡地の見晴らしの良い場所で、クレヨンで描いていた。

こうした時代に調味料のひとつのマヨネーズ・メーカーのキューピーの工場ができたのであるが、
仙川、金子の駅の周辺から15分前後の地域が、次第に都心のベットタウンに変貌するのは、数年後であった。

いつの頃か確かでないが、夕暮れになる頃、
何かもの悲しいが何か先が明るいような不思議なメロディーが、私の家の畑からも聞こえてきた・・。

学校の小学3年の級達とお互いに何だろうなぁ、噂をしていた時、
音楽の女の先生が、
『あの丘陵に建った工場から夕方に流れるメロディのことねぇ・・
あなた達には・・少し難しいけれど・・ ドヴォルザークという作曲家の『新世界』なのょ・・』
と先生は私達に教えてくれた。

『先生・・ドヴォル・・何とか云う人・・難しくて・・解からないけれど・・
何となく悲しいようで・・でも、明るいような・・』
と私は先生がかっこいいので、無理に言葉を重ねていた。

その後、周辺は都心のベットタウンと急速に変貌し、田畑が消えうせた・・。


このような情景を思い浮かべながら、確か仙川駅はこの当時の1951(昭和26)年の頃は、
地上に建設された木造駅舎で、この下に今と同じように少し窪地に駅のプラットホームがあった。

そして南の方面を歩くと商店街があり、和菓子店、理容店、美容室、八百屋、魚や、
蕎麦屋、ラーメン屋、和服衣料店、洋服屋、鍋物などを扱う金物屋、
ハム、豚肉、牛肉の肉や・・などがあり、
こうしたこの当時の商店街の情景は、郊外のどこの町でも見られた商店街であった。

商店街の終わりには塘路の交差点があり、
左側の前方に教科書、書籍、雑誌、文房具を扱う書店があり、
右側には桐朋学園の正門があり、奥に程広い敷地に幾つかの白くペンキで施(ほどこ)した木造の校舎があった。

私は小学一年生のトボトボ遠回りした下校がえりの身ながら、
音楽専門学校、と叔母たちから教えられてきたが、
いじけた農家の児であったせいか、何かハイカラな校門、校舎を遠い世界を視(み)るような感じで、
この校舎から脇道を10分程とぼとぼと歩きながら、生家に帰宅した。

             
                           (つづく)

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