私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日、私はこのサイトに於いて、
【我ら夫婦は、風変わりなカップルかしら、と思いながらも・・。】
と題して投稿した後、改めて私の定年退職の前後の日々はどのように過ごしたのかしら、
改めて思いを馳せたりした・・。
序章
ここ3年、団塊世代の方達が定年退職を迎えて、数多くの新聞、雑誌、テレビの番組で特集が報じられている。
私は東京オリンピツクが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしたが、
30代の頃に妻子を養なって家庭生活を思い浮かべると、とても過ごす自信もなく、あえなく挫折した。
やむえず人生軌道を修正し、民間会社は新卒が最優先の時代であったので、
中途入社するひとつの手段としてコンピュータの専門学校に一年間学び、
ある大手会社に何とか中途入社ができたのは、1970(昭和45)年の春で25歳の時であった。
その後まもなくしてあるレコード会社に転籍させられ、
机を並べたのは、新卒の団塊世代の人々が多く、
何かと苦楽を共にしながら勤務に励んだので、身近な存在となっている。
その後まもなくしてあるレコード会社に転籍させられたが、
職場の机を並べたのは、新卒の団塊世代の人々が多く、
何かと苦楽を共にしながら勤務に励んだので、身近な存在となっている。
このような存在の団塊世代の人々であるので、
私なりに気になり、少しばかり齢上の身として、心の中で応援している。
そして、たまたま妹の2人、そして家内も団塊の世代である。
ここ3年前後、こうした団塊の世代から定年退職の挨拶状を頂いたり、
或いは定年前に退職されて第二の人生の挨拶の連絡を頂いたりしたのは、10年前頃の頃でもあった。
こうした思いも重なり、私の実際の定年退職の前後を綴ることにする。
第一章
私達夫婦は、定年退職後の生活を話し合ったのは、
私が本社勤務より出向を打診された55歳の直前だった。
私の勤めているレコード業界は、ピークから下降しはじめ、
各社が合併、大幅な業容の見直し、組織の改定、そして人員整理が行われていた。
私の勤めていた会社は外資で、早期退職優遇制度と称され退職の奨励、人事異動が行われ、
私は同じ業界の関連会社に出向勧告をされた。
家内と結婚後、しばらくして一軒屋を構えた時、
借入れの住宅ローンがあったので、定年の60歳まで務める人生概要設計について、
家内と話し合っていた。
このようなことがあるので、先輩、同僚、後輩の一部の方達が、早期に退職するのには戸惑ったりした。
この出向勧告された直後、家内と具体的に、自分達はリタイアした時、
どのような生活をしたいのか、そして生活資金などを話し合った。
私は定年の60歳まで働き、主(あるじ)としての責務を果たし、
その後は趣味の時間に没頭し自在に過ごしたいので、
現役時代の収支、退職金、退職後の年金推定を算出した。
私達は子供に恵まれなかったので、私達の退職後の生活収支はある程度算出し易かった。
唯、私は1944(昭和19)年生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。
この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたので、
年金が満額となった62歳からの生活の収支は、私達夫婦の共通趣味である国内旅行費を除き、
年金内で生活する収支の概要を作成したりした。
こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に
1998(平成10)年から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れることとした。
私は出向を受けて業界内の関連会社に5年勤め、定年退職日を迎えた。
この間も私の先輩、同僚、後輩の一部の方達は業界から去っていった。
第二章
私は2004(平成16年)の秋、定年退職となった。
この退職日の2ヵ月前から、
家内の父が入退院を繰り返していたが危篤状態となり、家内の母と家内が交代で看病していた。
家内の父が入院した大学病院は、私の家から遠く、夜間に互いに付き添っていたので、
家内の疲労も増してきた。
私は8月末で業務を完了させ、この後は有給休暇として会社の了解を頂き、
定年を迎えたのが実態であった。
この間、家内の父が亡くなり、定年前後の諸書類を進めていたので、多忙な時期となっていた。
そして、失業保険の申請を当初予定として、5ヶ月分の失業手当を頂こうとしたが、
私は勤める意志なく、求職される方達の真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、申請手続きを断念したりした。
こうした家内の父の死去に伴い、
定年退職記念旅行、失業保険の断念は予定外であったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。
退職後の数週間後、家内と銀行を廻り、安全利回りの定期、国債などの金融資産を新たにした。
私は定年後の日常は、趣味の時間に没頭し、日々を過ごす目標であったので、
小説、随筆、歴史書、現代史を読んだりしている。
ときには映画のビデオ、DVDを観たり
音楽のカセット、CD、DVDを視聴したりしている。
そして、文章を綴るのが好きで有り、幸いにしてブログの世界を知った。
家内の父の四十九日の法事、納骨を終えた後、
独り住まいとなった家内の母と3人で墓地から程遠くない所で、
3泊4日の温泉滞在をしたのは晩秋だった。
この旅行中に、私は定年退職をしたのを改めて実感し、
日中の陽射しのうつろいを心に充たすことが出来た。
第三章
退職後の数が月を過ぎると、落ち着きを取り戻した日常生活となった。
私は日の出共に起き、家内の牛乳とコーヒーをそれぞれのマグカップに淹れて、
家内の枕元に置く、茶坊主が一日のはじまりである。
日中は買物の役割となり、その後は散策をしたりしている。
家内の方は、料理、洗濯、掃除と多忙な身であるので、
多少の役目を負った次第である。
そして、ときたま庭の手入れをしたりしている。
日中、夜のひとときは、読書、映画、音楽を楽しみ、
そしてブログなどに綴ったりしている。
夕食の時は、私は晩酌をするので、
純米酒、ビールを呑みながら、家内と他愛ない話をしている。
ときには、家内との共通の趣味である国内旅行をし、
或いは家内の母を誘い、3人で温泉滞在旅行を行ったりしている。
退職後の翌春、私が亡くなった時、家内の老後の生活を考えて、遺言の公正証書を作成した。
私は退職の数年前から、退職後の10年間は五体満足で生かしてくれと念じ、
その後の70歳以降は余生と思っている。
酒も呑み、煙草も喫煙しているので、こうした思いは強いのである。
春先のひととき、健康保険料、住民税の請求を受けると、
私は多少覚悟はしていたが、思ったりより多かったので驚いた。
この2つの要素は、前年の年収に対応し、
私なりに年収1000万円以上の成果を50代の半ばより持続していた反動である。
現役時代は、厚生年金、所得税、地方税、健康保険料などは差し引かれていたので、
ある程度高いかしら、と思っていたが、
年金の片肺の身としては、少しため息が出たのは正直なところである。
こうした要素を過ぎれば、後は日常をいかに自分に対して充たされるか、
と思っている。
私は雑木の季節のうつろいで時の流れを教示され、
或いは買物先、駅前で女性のしぐさ、表情に魅せられ、
好奇心を失くしたらこの人生は終りだ、と思っている。
私のこの間の心情については、退職後から2が月した後、
ブログを投稿しはじめ、このサイトにも綴っている・・。
偏屈と卑屈な半生を歩み、独断と偏見の多い私の退職後の日常の心情にご興味の方は、
このサイトなどをお読み頂ければ、ほぼ余すことなく綴っている。
このような告白めいた綴りをした私は、独りで微笑したりしている。
href="http://www.blogmura.com/">
昨日、私はこのサイトに於いて、
【我ら夫婦は、風変わりなカップルかしら、と思いながらも・・。】
と題して投稿した後、改めて私の定年退職の前後の日々はどのように過ごしたのかしら、
改めて思いを馳せたりした・・。
序章
ここ3年、団塊世代の方達が定年退職を迎えて、数多くの新聞、雑誌、テレビの番組で特集が報じられている。
私は東京オリンピツクが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしたが、
30代の頃に妻子を養なって家庭生活を思い浮かべると、とても過ごす自信もなく、あえなく挫折した。
やむえず人生軌道を修正し、民間会社は新卒が最優先の時代であったので、
中途入社するひとつの手段としてコンピュータの専門学校に一年間学び、
ある大手会社に何とか中途入社ができたのは、1970(昭和45)年の春で25歳の時であった。
その後まもなくしてあるレコード会社に転籍させられ、
机を並べたのは、新卒の団塊世代の人々が多く、
何かと苦楽を共にしながら勤務に励んだので、身近な存在となっている。
その後まもなくしてあるレコード会社に転籍させられたが、
職場の机を並べたのは、新卒の団塊世代の人々が多く、
何かと苦楽を共にしながら勤務に励んだので、身近な存在となっている。
このような存在の団塊世代の人々であるので、
私なりに気になり、少しばかり齢上の身として、心の中で応援している。
そして、たまたま妹の2人、そして家内も団塊の世代である。
ここ3年前後、こうした団塊の世代から定年退職の挨拶状を頂いたり、
或いは定年前に退職されて第二の人生の挨拶の連絡を頂いたりしたのは、10年前頃の頃でもあった。
こうした思いも重なり、私の実際の定年退職の前後を綴ることにする。
第一章
私達夫婦は、定年退職後の生活を話し合ったのは、
私が本社勤務より出向を打診された55歳の直前だった。
私の勤めているレコード業界は、ピークから下降しはじめ、
各社が合併、大幅な業容の見直し、組織の改定、そして人員整理が行われていた。
私の勤めていた会社は外資で、早期退職優遇制度と称され退職の奨励、人事異動が行われ、
私は同じ業界の関連会社に出向勧告をされた。
家内と結婚後、しばらくして一軒屋を構えた時、
借入れの住宅ローンがあったので、定年の60歳まで務める人生概要設計について、
家内と話し合っていた。
このようなことがあるので、先輩、同僚、後輩の一部の方達が、早期に退職するのには戸惑ったりした。
この出向勧告された直後、家内と具体的に、自分達はリタイアした時、
どのような生活をしたいのか、そして生活資金などを話し合った。
私は定年の60歳まで働き、主(あるじ)としての責務を果たし、
その後は趣味の時間に没頭し自在に過ごしたいので、
現役時代の収支、退職金、退職後の年金推定を算出した。
私達は子供に恵まれなかったので、私達の退職後の生活収支はある程度算出し易かった。
唯、私は1944(昭和19)年生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。
この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたので、
年金が満額となった62歳からの生活の収支は、私達夫婦の共通趣味である国内旅行費を除き、
年金内で生活する収支の概要を作成したりした。
こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に
1998(平成10)年から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れることとした。
私は出向を受けて業界内の関連会社に5年勤め、定年退職日を迎えた。
この間も私の先輩、同僚、後輩の一部の方達は業界から去っていった。
第二章
私は2004(平成16年)の秋、定年退職となった。
この退職日の2ヵ月前から、
家内の父が入退院を繰り返していたが危篤状態となり、家内の母と家内が交代で看病していた。
家内の父が入院した大学病院は、私の家から遠く、夜間に互いに付き添っていたので、
家内の疲労も増してきた。
私は8月末で業務を完了させ、この後は有給休暇として会社の了解を頂き、
定年を迎えたのが実態であった。
この間、家内の父が亡くなり、定年前後の諸書類を進めていたので、多忙な時期となっていた。
そして、失業保険の申請を当初予定として、5ヶ月分の失業手当を頂こうとしたが、
私は勤める意志なく、求職される方達の真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、申請手続きを断念したりした。
こうした家内の父の死去に伴い、
定年退職記念旅行、失業保険の断念は予定外であったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。
退職後の数週間後、家内と銀行を廻り、安全利回りの定期、国債などの金融資産を新たにした。
私は定年後の日常は、趣味の時間に没頭し、日々を過ごす目標であったので、
小説、随筆、歴史書、現代史を読んだりしている。
ときには映画のビデオ、DVDを観たり
音楽のカセット、CD、DVDを視聴したりしている。
そして、文章を綴るのが好きで有り、幸いにしてブログの世界を知った。
家内の父の四十九日の法事、納骨を終えた後、
独り住まいとなった家内の母と3人で墓地から程遠くない所で、
3泊4日の温泉滞在をしたのは晩秋だった。
この旅行中に、私は定年退職をしたのを改めて実感し、
日中の陽射しのうつろいを心に充たすことが出来た。
第三章
退職後の数が月を過ぎると、落ち着きを取り戻した日常生活となった。
私は日の出共に起き、家内の牛乳とコーヒーをそれぞれのマグカップに淹れて、
家内の枕元に置く、茶坊主が一日のはじまりである。
日中は買物の役割となり、その後は散策をしたりしている。
家内の方は、料理、洗濯、掃除と多忙な身であるので、
多少の役目を負った次第である。
そして、ときたま庭の手入れをしたりしている。
日中、夜のひとときは、読書、映画、音楽を楽しみ、
そしてブログなどに綴ったりしている。
夕食の時は、私は晩酌をするので、
純米酒、ビールを呑みながら、家内と他愛ない話をしている。
ときには、家内との共通の趣味である国内旅行をし、
或いは家内の母を誘い、3人で温泉滞在旅行を行ったりしている。
退職後の翌春、私が亡くなった時、家内の老後の生活を考えて、遺言の公正証書を作成した。
私は退職の数年前から、退職後の10年間は五体満足で生かしてくれと念じ、
その後の70歳以降は余生と思っている。
酒も呑み、煙草も喫煙しているので、こうした思いは強いのである。
春先のひととき、健康保険料、住民税の請求を受けると、
私は多少覚悟はしていたが、思ったりより多かったので驚いた。
この2つの要素は、前年の年収に対応し、
私なりに年収1000万円以上の成果を50代の半ばより持続していた反動である。
現役時代は、厚生年金、所得税、地方税、健康保険料などは差し引かれていたので、
ある程度高いかしら、と思っていたが、
年金の片肺の身としては、少しため息が出たのは正直なところである。
こうした要素を過ぎれば、後は日常をいかに自分に対して充たされるか、
と思っている。
私は雑木の季節のうつろいで時の流れを教示され、
或いは買物先、駅前で女性のしぐさ、表情に魅せられ、
好奇心を失くしたらこの人生は終りだ、と思っている。
私のこの間の心情については、退職後から2が月した後、
ブログを投稿しはじめ、このサイトにも綴っている・・。
偏屈と卑屈な半生を歩み、独断と偏見の多い私の退職後の日常の心情にご興味の方は、
このサイトなどをお読み頂ければ、ほぼ余すことなく綴っている。
このような告白めいた綴りをした私は、独りで微笑したりしている。
href="http://www.blogmura.com/">
