備忘録として

タイトルのまま

発心

2014-04-05 11:47:25 | 徳島

 3月最後の週末、2番札所極楽寺を散策しているうちに春の陽気に誘われ、にわか発心した。高齢の両親のご機嫌伺いに郷里徳島の実家に戻り、妻と4人で訪れたものである。昨年の帰郷時に、1番霊山寺と5番地蔵寺に行ったので、今回は2番から4番を見てみようと軽い気持ちで出かけた。山門前に横付けされたツアーバスから巡礼の団体さんが降り立ち本堂や大師堂の前で般若心経を唱和していた。赤ちゃん連れの若夫婦が熱心に般若心経を唱えていたのには驚いた。名古屋ナンバーの車に老婆を乗せて札所をまわる母娘らしい二人連れにも会った。私たちのような車巡礼ではなく、笠をかぶり杖をついて巡礼路を歩くお遍路さんを道すがら何人も見かけた。八十八か所巡礼がこれほどまでに人気なのかと驚いた。ただ私の場合、発心といっても信心を発したわけではなく、八十八か所の寺を見てみたいという好奇心を発したのである。真言宗に帰依したのではないことを念のために明記しておく。

徳島市の眉山のふもとで育ったので町を歩くお遍路さんは子供のころから日常の風景だった。ところが、実家の宗旨は母が浄土真宗、父が日蓮宗で真言宗とはまったく無関係である上、両親が異なる宗旨であることからもわかるように両親ともに宗教には基本無関心、そのうえ父は次男坊で家には仏壇がなかったこともあり、宗教には無縁で育った。だから、今も宗教心はない。宗教心はないが宗教に関心はあるということである。

 今年が八十八か所開創1200年にあたることもお遍路人気に拍車をかけているのかもしれない。1200年前814年に八十八か所が開創されたというのだ。空海は774年讃岐に生まれ、793年に驚異的な記憶術である虚空蔵求聞持法を身に着け、797年「三教指帰」を著わし、804年~806年の2年間入唐し密教を持ち帰る。帰国後空海は、嵯峨天皇の庇護のもと異例の出世を遂げる。814年は仏教界で重みを増している頃で、816年には最澄と決別し朝廷より高野山を賜る。八十八か所巡礼がこの年に始まったわけではないようで、巡礼は室町時代から江戸時代にかけて徐々に盛んになっていったという。江戸時代は富士講、大山詣で、伊勢詣でなどの巡礼が盛んだったように、庶民は集団での旅が好きで神でも仏でも特にこだわらず何かにすがっていたかったようだ。今も同じようなものである。

 納経所に行くと奉納経帳に朱印が押され寺名と本尊を表す梵字を、弘法大師相伝かとも思えるような達筆で描いてくれる。極楽寺の本尊は阿弥陀如来である。左のページは1200年記念の特別印ということだった。サンティアゴの道でも宿泊所などでペタペタハンコを押していた。写真左側のお札は納経所で御影袋に入れて渡されたが、このお札をどうするかは聞き忘れた。

極楽寺境内には空海自身が植えたとされる長命杉という大樹が立っている。この老木とは対照的に真新しい仏足石もあった。1番霊山寺や81番白峯寺もそうだったように、巡礼客を喜ばせるためか境内には雑多な物が置かれている。仏像だけでなく神像やマネキンもいる。土産物も充実し、八十八か所巡りは江戸時代の伊勢参りと同じように大衆文化となっている。

今回、2番の極楽寺から、3番金泉寺、4番大日寺とまわり、昨年訪れた5番地蔵寺と1番霊山寺を再訪して朱印をもらい、1番から5番が揃った。徳島県内は帰郷の際にまわればいいので県内は数度の里帰りで回りきれるが、あとは何年かかるか、あるいは興味を持ち続けられるかまったく自信がない。

下は巡礼の前日に行った徳島神山町の明王寺のしだれ桜。明王寺は真言宗だが八十八か所には入らない。


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