備忘録として

タイトルのまま

シュリービジャヤ

2012-02-05 12:39:28 | 東南アジア

 以前、神保町の古本屋で買っておいた永積昭著「東南アジアの歴史」講談社現代新書を読んだ。長く東南アジアに住んでいるのに東南アジアの歴史を通観したことがなかった。考古学的には紀元前5000年(紀元前1世紀という説が有力らしい)というタイのバーンチェン遺跡に始まり、文献史学で最初に登場する国はメコン川流域に建てられ1~7世紀に栄えた扶南という国で、7世紀の中国の史書・梁書に記されている。

 扶南が衰えたあと、シュリーヴィジャヤという国がスマトラとマレイ半島を支配し、ムシ川河口の良港であったパレンバンを首都とし、14世紀まで栄えた。インドと中国をむすぶ遠洋航路も、周辺諸国との沿岸航路も、この港を中心として行われた。と「東南アジアの歴史」に書かれている。中国僧の義浄は7世紀後半にインド留学の往還時、シュリービジャヤの首都で行きは5か月、帰りは10年ものあいだ滞在し写経や翻訳を行った。そこには1000人もの僧侶がいて仏教学の水準はインドにも劣らないと自著「南海寄帰内法伝」に記録している。シュリーヴィジャヤ(室利仏逝しつりぶっせい)は遺物が少なく義浄の記録のほかには五つの碑文と、中国への朝貢の記録があるだけである。パレンバンとバンカ島などで碑文は見つかっている。7世紀にはマレー半島の地峡を横断する陸路による交易路は、マラッカ海峡を通る水路に主役を奪われたという。

 8世紀後半には、中部ジャワのボロブドールを造ったことで有名なシャイレンドーラ朝に圧迫されシュリーヴィジャヤの貿易活動は衰えていた。ところが9世紀半ばにシャイレンドーラから母親の国であるシュリーヴィジャヤに亡命してきたバーラプトラ王子が隆盛を取り戻し、10世紀には全盛期を迎える。10世紀の中国は宋の時代で、シュリーヴィジャヤは三仏斉と記されて入貢を続けている。シュリーヴィジャヤの不思議はボロブドールやアンコールワットのような遺跡をまったく残していないことだという。

「東南アジアの歴史」より

 1982年ごろにパレンバンに2か月ほど滞在したことがある。パレンバンはムシ川の河口から100kmほど遡った内陸にあり、パレンバンから仕事場の河口まで毎日片道約2時間半かけて小さな船外機付スピードボートで往復した。ムシ川両岸は現地の人たちの小さな村が散在する大湿地帯である。パレンバンこそ製油所があり中国系の商店が軒を連ねて繁華であったが一歩パレンバンの町を出ると何もない。だから、「東南アジアの歴史」に書かれた”パレンバンはムシ川河口の良港”で、”遠洋航路も沿岸航路もこの港を中心に行われた”という記述に、”それは少し違うのではないだろうか?”と疑問を持った。 内陸にあるパレンバンは交易に便利な場所とは言い難い。シュリーヴィジャヤがスマトラとマレイ半島を支配し、インドと中国の間の交易国家だとしたら、根拠地はマラッカ海峡沿岸部に置くのが普通だろうと思う。それに中国からインドへの交易航路を考えると、パレンバンはマラッカ海峡の入り口に位置するシンガポールからずっと南に位置し、義浄が中国インドの往還でパレンバンに立寄ることは明らかに遠回りになる。スマトラの南東部マラッカ海峡側は大湿地帯が広がり今も未開発でパレンバンやジャンビなど大きな町は川を何十キロも遡った内陸にある。

 シュリーヴィジャヤについてネットサーフィンをしていると、「シュリヴィジャヤの謎」という本を書いた鈴木峻という人のWeb-siteに出くわした。http://www7.plala.or.jp/seareview/newpage5.html そこに本のあらましが紹介されていて、鈴木峻氏はシュリヴィジャヤの首都または義浄が滞在したのはマレー半島のクラ地峡の東海岸にあるタイのチャイヤーだとする。チャイヤーがシュリーヴィジャヤの重要な都市だったということでは異論がないらしいが、首都はあくまでもパレンバンで、それは1900年ごろフランス人学者ジョルジュ・セデスという人が発見された石碑をもとに最初に唱え、それが定説となったらしい。鈴木氏がパレンバンに疑問を持つ大きな理由は、義浄が見た1000人もの僧侶がいるなら寺院などの考古学的な遺物があるはずだが、パレンバンにはそのような遺跡はないということである。チャイヤーにはシュリーヴィジャヤ時代に建てられたお寺がいくつか残っているとチャイヤー国立博物館の紹介記事に書いてあった。パレンバンにしばらく滞在した身としては、鈴木氏同様パレンバンでいいのか?と、強い疑問がある。

 また、鈴木氏は義浄の書いた「大唐西域求法高僧伝」のなかに、”広府→室利仏逝→末羅遊→羯茶→裸人国→耽摩立国”という工程が記されていることを紹介している。通説では、広府は中国の広州、室利仏逝はシュリーヴィジャヤすなわちパレンバン、末羅遊はパレンバンの北にあるジャンビ、羯茶はマレーシアのケダ、裸人国はニコバル諸島あたり、耽摩立国は終点のベンガル州のTamulukとされているが、鈴木氏は、室利仏逝はタイのチャイヤーで、末羅遊はジャンビ付近かリアウ諸島のどこかという説である。Wikiの英語版など通説ではジャンビはマラユ(末羅遊)とされている。

 パレンバン首都説には強い疑問があるのだが、他の地に考古学的な証拠もないので、完全否定はできないように感じた。ムシ川は上流から大量の土砂を河口に運び堆積するので、しょっちゅう浚渫して水深を確保しなければ大型船が航行できない。だから、堆積作用によってパレンバンから海までは100kmもの距離ができてしまったが、1300年前は今とは異なり、パレンバンからムシ川下流に広がる湿地帯はもっと狭かったのかもしれない。すなわち、パレンバンは海にほど近い良港だったかもしれない。パレンバンは、1400年ごろの鄭和遠征のときには、”旧港”という名の歴史に記された大きな町で中国人が大勢住んでいたという。

 バンカ島はムシ川河口の対岸にある島で、島の西南端に位置するムントクという町には2度行った。一度目はジャカルタから国内線でパンカルピナンという町に降り、それから車で陸路で行ったのと、2度目はパレンバンから船でムシ川を下り海峡を越える水路だった。ムントクは小さな港町で、ローカルのホテルしかなく、たしか円換算して200円の宿に泊まった。風呂もシャワーもなく、大きな水槽から手桶で水をくみ体を洗った。扇風機もなく木の扉がついた窓を少し開けて寝たがベッドは蚊帳で覆われていたので蚊に刺されることはなかった。トイレは隣の川に垂れ流しで、穴からは川面が見えた。オランダ時代から錫を採取していたためか海賊の取り締まりなのか知らないが、インドネシア海軍が駐留していた。面白かったのは錫は海岸の砂浜で砂を掘り起こして採っていたことだ。


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