備忘録として

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ブッダ最後の旅

2013-03-17 01:06:32 | 仏教

ブッダは80歳になったとき、王舎城(ラージギル)の霊鷲山(鷲の峰)を下り最後の旅に出る。アーナンダを始めわずかな弟子を従えただけだった。ナーランダー、パータリプトラ、ヴェーサリーなどを経てクシナガラで終わるおよそ350kmの旅である。中村元「原始仏典」にある大パリニッパーナ経に記されたブッダ最後の旅、丸山勇がブッダの辿った地を撮影した「ブッダの旅」(岩波新書)、上原和「世界史上の聖徳太子」に記すインド紀行を紐解きながらブッダ最後の旅を辿った。写真はすべて丸山勇の「ブッダの旅」から拝借した。いつの日か自分の足で歩き撮影できることを願っている。

ラージギルの東北方に霊鷲山という山があり、そこでブッダは座禅、瞑想をし、説教をしていた。ブッダ最後の旅はわずかの弟子をつれて霊鷲山を下りるところから始まった。生まれ故郷のルンビニーを目指したのではないかと言われている。

ナーランダー

最初に立ち寄ったのはナーランダーで、そこのマンゴー林で修行者相手に法話をする。ブッダはその後北の方に向かったと原典に書かれている。現在、ナーランダーには大きな寺院の遺跡があり、まだ全部は発掘されていない。この仏教寺院が造られたのは5世紀以前で、玄奘三蔵もそこに長くとどまったという。玄奘の時代、アジア諸国から1万人以上の留学生がいたという。ここナーランダーの仏教哲学は法相宗として奈良の薬師寺興福寺法隆寺などに伝えられた。

パータリプトラ

マガダ国に属するガンジス河南岸の小さな港町で、ブッダが訪れた時はヴァッジ族を防ぐために城壁を造っている最中だった。現在はパトナ。ブッダはここからガンジス河を北岸に渡る。正確な場所はわからないが、後日そこは「ゴータマの渡し」と呼ばれる。パータリプトラはブッダから約200年後のアショカ王の時代にはインド全域を支配するマウリア王朝の首都になり、アショカ王は大きな石の柱を建てている。

霊鷲山(左)  パトナのガンジス河(右)

ヴェーサリー

ガンジス河を渡り途中いくつかの村を経て、商業都市ヴェーサリーに入るあたりにはマンゴーの樹木が多く茂っている。ここでブッダは弟子と共に遊女アンバパーリーの接待を受け、法話をする。ヴェーサリーに留まっているうちに雨期になりブッダは病気にかかる。ブッダはここで弟子のアーナンダに次の法話をする。

「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」

要は世に生きていくには自己にたよれということである。人間の為すべき理法(ダルマ)があり、それに従って行動することが自己にたよることであるという。聖徳太子は十七条の憲法で三宝すなわち「仏法僧」を敬えと説いたが、釈迦(ブッダ)、理法(ダルマ)、僧侶または教団(サンガ)を敬えということであり、ブッダの教えそのままである。

ブッダは続けて、「この世界は美しいものだし、人間の命は甘美なものだ」という感想を述べる。そもそもブッダはこの世は苦に満ちていて苦をどのように克服するかを人生をかけて追求し弟子にも説教してきた。ところが、人生の最後に際し、”人生は素晴らしい、世の中は素晴らしい”と述べたことはとても興味深い。

上原和は「ガンジス河北岸のバサル村の美しい田園風景の中を歩いていると、いつしか私の眼には、若きアーナンダに労わられながら愛する弟子たちとともに、なおも説教の旅を続ける老いたるブッダの姿が、ありありと見えてくるように思われた。」と記す。

ヴェーサリーのマンゴー樹林と田園風景

 パーヴァー

病をおしてヴェーサリーを出たブッダはパーヴァーで鍛冶屋のチュンダのキノコ料理にあたってひどい下痢になる。ブッダはチュンダを思いやり、「彼が供養してくれた食物は、最も功徳のあるものであった」と彼の好意に感謝している。宮澤賢治の「ビジタリアン大祭」ではビジタリアン批判派がブッダは肉食を禁止しなかったし本人は豚肉を食べて死んだとするのに対し、擁護派の主人公はブッダが最後に食べたのはキノコだと反論する。

クシナガル(クシナーラー)

ブッダはクシナガルの沙羅双樹の間に頭を北に向けて横になり、弟子たちに最後のことばをかける。

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』と。」

涅槃堂と沙羅双樹

涅槃堂には大きなブッダの涅槃仏が横たわっている。

ブッダの遺骨は八つに分割され、ブッダゆかりの地に建てられたストゥーバに分納された。入滅200年後に出たマウリア朝のアショカ王はその遺骨をさらに分骨し、八万四千のストゥーバを起塔したという。武力によってマウリア朝の版図を拡げたアショカ王はある日突然仏教に帰依し回心する。上原和はアショカ王の残した言葉に三宝帰依を見出し、同じように若き日に戦いに身を投じ手を血で染めた聖徳太子の後年の三宝帰依に重ねあわせる。為政者でありながら不殺生の仏教に帰依した聖徳太子とアショカ王、さらには隋の煬帝は回心するか、あるいは自己矛盾に苦しむしかなかったのである。


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