備忘録として

タイトルのまま

本四架橋

2014-06-08 23:56:40 | 徳島

韓国のセウォル号沈没事故は痛ましく他人事とは思えなかった。1988年に瀬戸大橋が架かるまで、私たち四国の人間が本州など他の地方に行くには船が頼りだった。小中高の修学旅行は3度ともすべて船を利用したものだった。そのずっと昔、1955年に旧国鉄宇高連絡船の紫雲丸が貨物船と衝突沈没し修学旅行生が100人以上も犠牲になっている。事故は濃霧の中で起こったとはいえ、速度を落とさず航行したことや目視確認が十分でなかったことなど船長や航海士の過失とされた。そんな事故があっても、四国で人が生活している以上、船を手放すことなどできるはずもなかった。幸い当時の国や地方自治体や教育者に修学旅行を廃止するという発想はなく、この事故を教訓として天候による運航停止判断などの安全管理、学校での水泳訓練などの安全教育が強化された。そのおかげで私たちは修学旅行による貴重な体験を享受し続けることができたのである。国は連絡船を継続運航する一方で、台風や濃霧に影響されない本四架橋の建設計画を急ピッチで進めた。修学旅行ではしゃいでいた頃、自分が後日、本四架橋の仕事に関わることになるなどとは夢にも思っていなかった。

左:宇野港にあった宇高連絡船の模型、2008年頃に撮影した 右:歌川広重の阿波鳴門之風景 (https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige226/より拝借)

上の浮世絵は淡路島から鳴門方面をスケッチしたものでここに大鳴門橋が架かっている。先に建設された大鳴門橋は瀬戸大橋同様に鉄道を併設したが、後年建設された明石海峡大橋に鉄道はなく、徳島と神戸を鉄道橋で結ぶ構想は消滅した。今後鉄道が復活するとすれば海底トンネルである。大鳴門橋は1985年に開通、明石海峡大橋の開通は1998年のことである。明石海峡大橋の仕事のために1987年3月10日から7月19日まで5か月ほど神戸にいた。1987年2月にシンガポール赴任を解かれ、約半年間の明石海峡大橋の仕事に従事するため家族を妻の仙台の実家に預け単身赴任した。日付まではっきり覚えている理由は、3月の自分の誕生日を家族で祝ってすぐに現地へ行き、7月20日の長男誕生ぎりぎりまで神戸で仕事をしていたからである。長男は姉二人同様に帝王切開で手術日が決まっていて、出産に間に合うように夜遅くまで残業し仕事の完成を急いだことを思い出す。長男誕生を確認したあと家族をそのまま仙台に残し、8月から今治で来島海峡大橋の仕事に就いた。家族と合流したのはその年の10月になった。

左:2007年夏、しまなみ海道を渡り松山へ行ったときに撮った来島海峡大橋の夕景   右:明石海峡大橋(Wiki)

明石海峡大橋の工事完成(閉合)は1996年9月で、前年の1995年1月に阪神淡路大震災が起こったときは工事真っ最中だった。震災が起こったとき橋桁はまだ架設されてなくて主ケーブルを張り渡したところだった。写真の2本の主塔の中間付近を野島断層が走り、震災のとき断層が1mほど横にずれた。野島断層がそこにあることは建設前の地質調査でわかっていた。断層のずれによって2本の主塔の間の距離が1mほど広くなった。明石海峡大橋の支間長は1990mで計画されていたのが地震で1991mになったのである。この支間長は今も吊り橋として世界最長である。橋とその基礎には耐震設計が施されていたので構造的なダメージはなく、ケーブルを若干補正することで工事は続けられた。(注:野島断層と明石海峡大橋と長男のことは以前”出雲大社”の巻で書いた。) 


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