千駄ヶ谷駅を南に歩いていると偶然富士塚に出くわしたので、うれしくなって山頂まで登った。鳩森神社の境内にあり、高さはおそらく6,7mほどで山腹は溶岩で覆われ、山頂にはお宮があった。寛政元年(1789年)の築造とされ、江戸名所図会には千駄ヶ谷富士と記されている。
以前読んだ神崎宣武著「江戸の旅文化」を本棚の奥から引っ張り出してきて、富士詣のところを紐解いてみた。江戸時代、庶民の多くが講をなして富士参詣に出かけたのを富士講という。当時、富士講は江戸市中に数十あり、ひとつの講は大きなもので百余人からなり小さなものでも50戸はあった。毎年6月前より富士登山に出掛け、富士登山に行けない庶民は白衣に金剛杖をつく正式のいでたちで富士塚に模擬登山をすることで富士登拝の代わりとしたという。富士塚は富士山から運んできた溶岩などを用いて箱庭式に江戸市中に築かれたもので、そこからは富士山を遠望することができた。
ネットサーフィンすると富士塚を扱ったサイトがいくつもあり、東京周辺の富士塚を数えると60か所以上あった。千駄ヶ谷富士の場合、周辺にビルが林立しているので今、千駄ヶ谷富士の山頂から富士山をみることはできないと思う。もっとも古い富士塚は、1779年築造の早稲田にある高田富士と言われている。
ところで我が家では二女だけが富士登山経験者である。自分は高校の修学旅行のときバスで五合目まで行った。
以前読んだ神崎宣武著「江戸の旅文化」を本棚の奥から引っ張り出してきて、富士詣のところを紐解いてみた。江戸時代、庶民の多くが講をなして富士参詣に出かけたのを富士講という。当時、富士講は江戸市中に数十あり、ひとつの講は大きなもので百余人からなり小さなものでも50戸はあった。毎年6月前より富士登山に出掛け、富士登山に行けない庶民は白衣に金剛杖をつく正式のいでたちで富士塚に模擬登山をすることで富士登拝の代わりとしたという。富士塚は富士山から運んできた溶岩などを用いて箱庭式に江戸市中に築かれたもので、そこからは富士山を遠望することができた。
ネットサーフィンすると富士塚を扱ったサイトがいくつもあり、東京周辺の富士塚を数えると60か所以上あった。千駄ヶ谷富士の場合、周辺にビルが林立しているので今、千駄ヶ谷富士の山頂から富士山をみることはできないと思う。もっとも古い富士塚は、1779年築造の早稲田にある高田富士と言われている。
ところで我が家では二女だけが富士登山経験者である。自分は高校の修学旅行のときバスで五合目まで行った。