備忘録として

タイトルのまま

最澄

2007-10-20 18:22:14 | 古代
804年、最澄は遣唐使に随行する還学生として空海とともに唐に派遣され、翌年帰国し比叡山延暦寺に天台宗を開いた。教科書的知識はここまでだが、天台宗の教学、空海との確執、会津の徳一との論争のことを末木文美士著”日本仏教史”で仕入れた。
そのうち徳一との三乗一乗論争は、最澄の人は誰でも修行をつめば悟りを開けるという一乗論に対し、徳一は人は生まれながらの能力によって誰もが悟れるとは限らないという三乗論で論争を挑んだもので、この論争は最澄の死の直前まで6年間も続くのである。最澄の論点は、三乗の”誰もが悟りを開けるわけではない”は仏が仮に説いた方便であり、最終的には真理はひとつ(一乗)であるというものである。徳一は、一乗の”誰でも悟りを開ける”というのは間違っており、この一乗論こそ方便であり悟れない人もいると教えるのが真実だとする。一乗の天台宗は理想主義、徳一の三乗(法相宗)は現実主義であり、どちらが正しいという結論がでるような論争ではなかった。最澄は、徳一との論争だけでなく南都の法相宗との大乗戒論争や空海との絶交などに晩年のエネルギーを使い果たすのである。
空海も徳一から論争を挑まれるが、真言宗の教学(他の教えをすべて抱合するスケールの大きい体系をもつ)同様、相手をうまく丸めこんでしまう。また、南都の法相宗ともうまく付き合い、最後は仏教界の最高位である大僧都にまで上り詰める。
しかし、その後の日本の仏教は天台宗・一乗論の立場で発展し、念仏を唱えれば誰でも極楽浄土へ行ける浄土宗などに見られるように多くの著名僧を輩出し発展するのである。一方、空海の真言宗は空海で完結し、以後停滞してしまう。
折しも、比叡山では星野某が千日回峰行のうち最大の荒行である九日間 断食、断水、不眠、不臥で不動真言を 唱え続ける”堂入”を終えたところである。

”日本仏教史”には、最澄と徳一の論争以降も、明恵の法然(浄土宗)批判、江戸時代の日蓮宗における不受不施論争(法華経を信じない人からの布施を受けることや信じない人への布施を禁じていたが時の権力者から布施の要求があった時に内部対立が生じた)、天台宗における安楽律論争(本覚思想を批判し経典に戻る)、浄土真宗における三業惑乱(同じく本覚思想批判)などの論争や対立があり、仏教を深化発展させたとしている。仏教が停滞したと言われる江戸時代には、異教のキリスト教や儒教からの仏教批判や神道による廃仏毀釈、山片蟠桃や富永仲基による科学からの仏教批判があったが、仏教側からの反論はあまり活発ではなかったようだ。
注:本覚思想とは”衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは元から具わっている(悟っている)”という思想であり、だから修行する必要も、戒律も守る必要もなく、人はあるがままでよいといった極端な解釈がされるようになった。

論争を契機に新たな思想・研究が発展することは、梅原猛も言っていた。

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