備忘録として

タイトルのまま

遠雷

2014-04-27 15:15:53 | 徳島

今朝、激しい雷鳴に起こされた。時計を見ると6時だった。光と雷鳴が同時で、アパートに落ちたかと思うほど雷は激しく近かった。今は雨も上がり穏やかな青空が広がっている。子供の頃、光って3秒以内に鳴る雷は近いから建物の中に逃げろと教わった。映画「三丁目の夕日」の原作、西岸良平の「三丁目の夕日」に”遠雷”という1編があったことを思い出した。結婚を約束していた彼が破傷風で突然死んでしまい生きる希望をなくし自殺未遂をした女性が、後日結婚し子供を設け平凡で幸せな生活を送る中、ふと昔のことを思い出す。彼女の視線の向うで遠雷が鳴っているという、ちょっとほろ苦い人生を描いた作品だった。30年も昔に読んだので話の内容は違っているかもしれない。はるかな過去の記憶が、ちょっとしたきっかけでふっとよみがえることがある。シンガポールの青い空に重なる真っ白な積乱雲を見ながら、徳島の暑い夏を遠雷のように思い出した。

昭和47年高校3年の夏休みは、クーラーのない暑い家を避け、毎日高校の書道室に通い受験勉強をした。5月か6月の進路指導で希望校への合格確率は2割程度と言われたものだから必死だったのかもしれないし、級友たちが同じように受験勉強まっしぐらだったから刺激を受けてのものだったかもしれない。昼休みには、同じように気ままな場所で勉強していた友人たちが体育館に集まりバスケットやバレーボールでひととき汗を流し、午後からはまた机に向かった。夕方に帰宅し深夜までまた勉強である。飯食って勉強して寝るの繰り返しだった。世界史と化学はわら半紙にポイントを書いて覚える。数学と物理はとにかく問題を解く。不得手な英語は「試験に出る英単語」、「試験に出る英熟語」だけを参考書にしてこれもわら半紙に書いて丸暗記する。わら半紙は机の脇に山積みになった。その頃はプラチナの万年筆を使っていたのでペン先が開き字は極太になっていった。わら半紙の枚数だけ暗記量が増えていくのを実感したように若い脳に限界はなかった。そんな中、気晴らしに山口まで一人旅をし映画も観、ボーリングにも行った。睡眠時間は少なかったが何かを犠牲にしているという感覚はなかった。

ところが、夏が終わり2学期に入っても、力がついてる実感はあるのに模試の順位がなかなか上がらない。周りもみんな勉強しているのだから当たりまえなのである。年末が近づいてくると焦りや受験の重圧がのしかかってくる。それに失恋が重なって精神的には相当追い込まれた。途中、勉強が身に入らないこともあったが、3月初めの受験日は確実にやってきた。当時の国立大学の受験日は3月初旬で、私立は受験してなかったので一発必中しなければ浪人だった。1日がかりで船と電車を乗り継いだ受験場には雪が舞っていた。経験したことのない寒さに震えた。2日間の試験を終え、とにかくやるだけはやったと自分に言い聞かせ汽車を乗り継いで帰路についた。途中、米原周辺は雪のため新幹線の中で一晩明かすことになり、卒業式前日の登校には間に合わなかった。浪人はせずに済んだが、あの高校3年の夏から卒業までの時期は重圧はあったがもっとも充実し全身全霊で生きていた。そのあとしばらくは、大学生活を謳歌するよりもむしろ虚脱感に襲われ、柴田翔の「されど我らが日々」の主人公状態だった。

3月末に帰郷した際、母校の卒業式が地元ケーブルテレビで生中継され、PTA会長になった同級生が壇上で来賓挨拶するのを不思議な思いで見た。昭和47年は、こんな時代だった。

  • 高松塚古墳発見
  • 川端康成自殺
  • 田中角栄の日本列島改造論
  • ニクソン大統領のウォーターゲート事件
  • ミュンヘンオリンピック
  • 日中国交正常化
  • パンダのランラン・カンカン
  • ちあきなおみ「喝采」
  • 山本リンダ「どうにもとまらない」
  • 木枯し紋次郎
  • ゴッドファーザー

遠雷から想起する「遠い崖、アーネスト・サトウ日記抄」という萩原延壽(のぶとし)の本がずっと気になっているのだが14巻という大著に躊躇して手が出せないでいる。本屋で1巻をぱらぱらめくり、1862年19歳のアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow 1843生)が上海を出帆し硫黄島を横にみて横浜に通訳として着任する場面だけは確認している。着任してすぐに生麦事件が起き外国人にとって危険な攘夷一色の日本だったが、その後、この若いイギリス人青年は幕末から明治の日英外交に重要な役割を果たしていく。萩原の「遠い崖」が、外国人が日本と接する上での障壁を暗示しているのか、遥かなドーバーの白い崖に望郷を暗示しているのかは不明である。本を読まないとわからない。


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