備忘録として

タイトルのまま

シュリーマン旅行記 清国・日本 ”日本の巻” その2

2009-09-21 08:43:49 | 
シュリーマンは、蒸気船に乗って上海を出航し、
”快適な旅のあと、われわれは6月1日朝6時、日本で最初の、小さな岩ばかりの島が見える地点に到達した。(中略)
朝10時、標高833メートル、しかもさかんに活動している、ポツンと孤立した硫黄島(イボガシマ)火山(現在の鳥島)のすぐ近くを通った。円錐型の大きな上部火口からさかんに噴煙がたちのぼっていた。また東側の山腹にできた第二火口からは、煮えたぎった溶岩が幅広く流れだし、4キロメートルほど先の海に注ぎ込み、はるか彼方まで海を煮えたぎらせていた。噴火は遠雷に似た地鳴りを伴っていた。(中略)
正午から午後7時にかけて、船は美しい景観を見せる九州本島にそって進んだ。”
以上はP73~74の記述で、P75には上海から硫黄鳥島を経由し九州へ向かう航路図がある。

このくだりを読んだとき、硫黄鳥島は1865年当時、ハワイ島のように溶岩が海に流れ込み海が煮えたぎっていたのに、今は溶岩が流れ込むような話は聞かないなと思った。そこで、硫黄鳥島のことを調べたところ、今の硫黄鳥島とシュリーマンが見た火山島とは微妙に違うことに気がついた。
1.硫黄鳥島の最高標高は212mであり、シュリーマンの記す標高833mとはかけ離れている。(国土地理院の二万五千分の一の地形図などによる)
2.硫黄鳥島は、溶岩を流したことがない。気象庁ホームページ(http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/601_Io-Torishima/601_index.html)からの抜粋
”安山岩質の2火山が接合した長径(南東-北西)2.7km、幅2kmの島。南東側の火山は三重式で中央火口丘は溶岩ドーム。北西側にある島内最高の硫黄岳は砕屑丘で、直径約300mの山頂火口の壁には、数ケ所に硫気孔がある。有史後の噴火はすべて爆発型で溶岩を流出したことはない。(高木ほか,2004)。
3.シュリーマンは、朝10時に鳥島を見て、2時間後の正午には九州本島沖を通っているが、硫黄鳥島と九州本島の直線距離は400kmもあり、蒸気船が2時間で進める距離ではない。
シュリーマンの乗った蒸気船は、九州本島を6月1日正午に見て、6月3日午後10時に横浜に投錨するまでの48時間で約1000kmを航海しており、平均スピードは約11ノットになる。また、ペリー艦隊の蒸気船サスケハナ号のスピードは、10ノットだったという記録(http://en.wikipedia.org/wiki/USS_Susquehanna_(1850))がある。仮に11ノット(約20km/hr)で硫黄鳥島と九州本島までの400kmを進むには、20時間を要する。高さ800mの山を水平線に遠望する距離は100kmなので、鳥島と九州本島をそれぞれ遠望する距離を合算した200kmを差し引いてもまだ200kmを残し、これを2時間で航海することは不可能である。シュリーマンは火山島のすぐ近くを通ったと述べており、実際100km先から溶岩が海に流れ込み煮えたぎっている様子や九州本島に繁茂する木々の様子はわからないので、遠望距離は考慮しなくてもいいと思う。
4.訳本のP75にある航路図によると、シュリーマンの乗った蒸気船は上海から九州本島へ真東に向かう最短距離を取らず、南に大きく迂回しているが、東シナ海の潮流を見ても、この遠回りは不可解である。前出の気象庁ホームページの東シナ海海流図(例えば今年6月の海流http://www.data.kishou.go.jp/kaiyou/db/nagasaki/jun/current_n1.html)によると、上海の少し南の沖合いに真東へ向かう潮流があり、その潮流に乗ってしばらく東進すると北へ向かう対馬海流に合流する。

では、シュリーマンが見た火山島が硫黄鳥島でないとしたら、実際に見た火山島はどこなのか?

シュリーマンの見た火山島であるべき条件は、火山標高が800m級で、円錐型ドームの火口を有し、1865年頃に激しく活動し溶岩が島の東4km海上まで流れ込む、九州まで蒸気船で2時間の距離(距離にして40km程度)にある火山島である。

前出の気象庁ホームページから、奄美大島と鹿児島間の火山島を北から並べると、
1.薩摩硫黄島 標高704m 500~600年前にマグマ噴火の記録あり 島の東に海底噴火による岩礁 九州南端まで40km
2.口永良部島 標高657m 1841年噴火 溶岩流あり 九州南端まで70km
3.口之島 標高628m 噴火記録なし
4.中之島 標高979m 溶岩流記録なし
5.諏訪之瀬島 標高799m 江戸末期大噴火と溶岩が海に達した記録あり 九州南端まで170km


赤:特に活動度の高い活火山、黄:活動度の高い活火山、水色:活動度の低い活火山、青:データ不足の火山 

火山標高はいずれも誤差の範囲にあるが、噴火記録から口之島と中之島は除外される。諏訪之瀬島は江戸末期に活発に活動し溶岩も海に流れ込み可能性は高いが、九州まで170kmの距離があり、シュリーマンの記す火山島から九州本島までの2時間を考えると除外せざるを得ない。残るは、1.薩摩硫黄島と2.口永良部島で、もう少し詳しく見てみると、

薩摩硫黄島(上の写真、気象庁ホームページより拝借)
主峰の硫黄岳は鋭い円錐形の流紋岩の火山で硫気活動が盛ん。稲村岳は玄武岩の火砕丘と溶岩流。有史後の噴火は付近海底で起こり、新島(昭和硫黄島)が形成され、現存する。ただし、江戸末期の記録がない。

口永良部島
最近の1 万年間の噴火は古岳・新岳で発生している。古岳南西~ 南東山麓には複数の安山岩質溶岩流が確認できるが、その噴出年代ははっきりしていない。古岳火口では数百年前まで火砕流を伴う噴火が発生していたと考えられる。古岳あるいは新岳で過去1000 年以内に複数回の爆発的なマグマ噴火があったと考えられる。

口永良部島は江戸末期の噴火記録はあるがその時に溶岩が流れたという記録はないシュリーマンが島の東4kmに溶岩が煮えたぎっているのを見たことを考えると薩摩硫黄島のほうがシュリーマンの火山島である可能性が高いような気がする。訳者が硫黄鳥島とした理由が、フランス語の原本に表記?された”イボガシマ”から”イオウガシマ”を想起したとすると、(薩摩)硫黄島の可能性はさらに高まる。1885年の日本噴火志に”鹿児島懸南海ノ鳴動ハ初硫黄島近海噴火破裂スベキ響ナリトノ風説ニ付其実否及島地ノ情況視察ノ為メ曩ニ同懸ヨリ派遣セシ官吏ハ先硫黄島迄渡航セシガ右鳴動ハ該島近海に非ズシテ”とあり、明治時代に硫黄島と呼ばれていたことを確認した。

これ以上の証拠は今のところないし、シュリーマン本の原本での確認も必要なので今回は問題提起に留めたい。

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