備忘録として

タイトルのまま

俊寛

2013-05-04 18:18:21 | 中世

シュリーマンが日本を訪れたときに通過した”Iwogasima” (その1その2その3)のことを調べていたときに、俊寛が喜界島(薩摩硫黄島)に流されたことを知った。俊寛は後白河法皇の側近で清盛ら平家を覆そうとする鹿ケ谷の陰謀に加担し、陰謀が露見して流罪になる。平家物語には”鹿の谷”と”足摺”の巻があり、鹿ケ谷の陰謀と喜界島に流された俊寛のことが語られる。

平家物語「鹿の谷」と「足摺」の概要

鹿の谷にある俊寛の山荘に、成経らは何度も集まり平家滅亡の陰謀を練っていた。山荘には後白河法皇も足を運んだこともあった。しかし、事は露見し、陰謀に加わった俊寛、藤原成経、平康頼の3人は喜界島に流される。

流罪になって何年か後、都より赦免状を持った使者・基康が喜界島に来る。しかし赦免状に成経、康頼の二人の名はあったが俊寛の名はなかった。成経、康頼を乗せた船に俊寛は取りすがり、自分もせめて九州まででも連れて行ってくれと懇願するが、船は無情にも島を離れて行く。

平家物語をもとにした俊寛の話は、その後脚色されて能、歌舞伎、人形浄瑠璃、小説、戯曲で取り上げられた。特に島に残される俊寛の心情についてそれぞれの作品が異なる描写をしている。鹿ケ谷の陰謀が1177年、喜界島に赦免の使者が来るのが配流の翌年の1178年、俊寛の下人の有王が島を訪れ俊寛が自害したのが1179年とされる。

能「俊寛」

平家物語同様、ひとり赦免状が出されなかった俊寛は、他の二人を乗せて島を離れる船にとりすがるが、無情にも打ち捨てられ、渚でうずくまり泣き叫ぶ。二人は「都へ帰れる日は来る。心をしっかりと」と俊寛に声をかけるが、その声も遠ざかり船影も消えてしまう。

歌舞伎「俊寛」・人形浄瑠璃「平家女護島」

使者の持ってきた赦免状に自分の名前がなく俊寛は絶望するが、追いかけてきた別の使者が俊寛の赦免状をもたらし俊寛は一転安堵する。成経の島での妻・千鳥は自分もつれていってくれと使者に頼むが、赦免状には3人しか連れ出せないと書いてあるとして使者は千鳥の懇願を取り合わない。俊寛は、都に残した妻が清盛に殺されたことを知り都で妻と暮らす夢を失くしてしまったため、自分の代わりに千鳥を船に乗せる。しかし、いざ船が動き出すと俊寛は孤独感にさいなまれ船に取りすがる。打ち捨てられた俊寛は岩山に登り島を離れる船に向って声をかけ続ける。船影がみえなくなると絶叫とともに幕がおりる。

先日亡くなった中村勘三郎が2011年10月島で野外歌舞伎「俊寛」を上演した。

芥川龍之介「俊寛」

島に残された俊寛は悠々と島で生活をしていて、赦免状の使者が来た時のことを後日尋ねてきた下人の有王に語る。都では琵琶法師が自分の悲哀を大げさに語っているようだが、赦免状に自分の名前がなかったとき自分は冷静で、なぜ自分だけが赦免されないかその理由を考えていたという。そのとき島で一子をもうけていた成経は、女房と子が自分たちも連れていってくれと船にすがるのに、無情にも無視する。憤慨した俊寛は船に向って罵詈雑言を浴びせ、船に向かって返せ返せと呼びかけたというのである。琵琶法師が語る俊寛と真相は違うという話。

菊池寛「俊寛」

島に残された俊寛の後日談。島に残された俊寛は、最初は自分の不遇を嘆き悲しみ自殺まで考える。ところが、都の衣服を脱ぎ捨て、生きるために漁をし畑作を始めるようになると、煩悩が去り身体も精神もタフに変化してきて、島が浄土のように思えてくる。いつしか都のことを忘れ島の娘と結婚し子をもうける。後日、平家も滅び都へ帰ることも可能になったと下人だった有王が告げに島を訪れたとき、別人になっていた俊寛は有王に向かって自分は死んだことにしてくれと言う。

倉田百三「俊寛」

登場人物4人の戯曲。使者の船が来る前の場面で、俊寛、成経、康頼の3人が登場し、俊寛は他の二人をなじるなど都を偲ぶ心が強く精神が病み始めている。彼を落ち着かせるため成経と康頼は船が来ても俊寛一人を置いて都に帰ることはしないと誓う。やがて船が来て使者の赦免状に俊寛の名がないことがわかる。二人は以前の誓いを反故にし俊寛を置いて島を出る。残された俊寛は恨みと絶望の中、島で餓鬼のような生活を送る。そこに下人だった有王が訪れ、俊寛の妻や子がすでに死んだことを告げる。それを聞いた俊寛は、自分を島流しにした清盛とその一族を呪うため、自分に怨霊がとりつくことを願いながら岩に頭を打ちつけ自死する。有王は俊寛の亡骸を抱いて崖から身を投げる。

芥川龍之介・菊池寛、倉田百三の作品は青空文庫で読める。


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