備忘録として

タイトルのまま

後白河院

2010-02-14 14:55:05 | 中世
 井上靖の「後白河院」を読んだ。

 4人の語り部が、自分が関わった事件や出来事の中での後白河院の行動を話すうちに、その時代の空気と後白河院の人となりが徐々に判ってくる。4人はそれぞれ日記を残していて井上靖はその中の記述から後白河院に関わる部分を抜き出し、想像の羽を広げて院の性格を描写する。

第1部 平信範 摂関家(藤原忠通・基実)の家司(家老のようなもの) 主人の罪で後白河院より2度処分を受ける。1156年保元の乱から1160年平治の乱まで 日記「兵範記」
平信範曰く、”崇徳院が起こした保元の乱の後、後白河院に味方した信西入道が力を持つが、平治の乱で源義朝に追われた信西入道は自害する。平治の乱に勝利する清盛派の信西入道は死ぬことはなかった。後白河院は入道を見捨てたのであり、そのことがわかった入道は後白河院から疎まれたことを悲観したために自害したのかもしれない。”

第2部 建春門院中納言 後白河院の譲位後の妃である建春門院に仕えた女御 1168年宮仕えから1176年建春門院の逝去まで 日記「たまきはる」
中納言曰く、”平家の権勢が増す中で開かれた鵯合(ひえどりあわせ=鳥の鳴き声を競う)の時、なかなか勝負がつかない中、引き分けになって鳥を鳥籠に仕舞おうとした寸前に中将光能の鳥がひと声鳴いて勝負が決まったこと対し、後白河院が光能卿に、”ぬしに似て、しのびやかに勝ったな”と仰せになった。このとき中納言は、光能卿が少し顔を硬くしたのを見て、後白河院の話し方に容赦のないもの、聞く側のものには心をえぐられるような、はっとするものがあった。後白河院には親しいものも突き放すようなところがあった。建春門院の死後、後白河院と清盛の間は張りつめたものとなったように感じる。”

第3部 吉田経房 平氏政権の実務官僚を務めた後、頼朝の信頼を得て鎌倉と朝廷の中を取り持つようになる 1177年鹿ケ谷事件から1185年平家滅亡後義経が都に凱旋するまで 日記「吉記」
吉田経房曰く、”後白河院が清盛を引き上げたのはそうするしか仕方がなかったのであり、辛抱強く衰える時期を待ち、ひと度すきを見せると常人の及ばぬ素早さで相手を仕留めようとする。心の奥にあるものを決して人に見せようとはしない。建春門院に対しても同じで、院の冷たい眼光のせいで建春門院は早世したのではないか。義仲については早い時期に見限っていた。義経と頼朝の中を裂くようなことは考えていないはずだと言いながら、後白河院の心のうちは伺いようもない。”

第4部 九条兼実 主に関白として六条、高倉、安徳、後鳥羽の4帝に仕えた、その間、後白河院は法皇として権勢をふるう 1185年平家滅亡から1192年後白河院崩御まで 日記「玉葉」
九条兼実曰く、”若しもこの世に変わらない人があるとすれば、それは後白河院であろう。追従者には温かく見え、その他の者には冷たく見える顔を変えることはなかった。意地の悪い冷たさである。例外なくすべての者を敵とみなした。誰にも気を許すことはなかった。”

 小説では、平安時代末期の主だった人物と出来事はほとんど語り尽くされている。白河院と待賢門院の子とされる崇徳院を鳥羽院が叔父子と呼んだことや崇徳院が讃岐に流されて怨霊になったことも語られていた。この時代に対する深い知識と明確な人物像を持っていないと書けない小説だ。
西域で見せた執念や「しろばんば」や「夏草冬涛」などの子供が読んでも面白い自伝、「風林火山」、「額田女王」、「天平の甍」などの娯楽時代小説から井上靖は懐の広い作家だと思っていたが、この作品を読んで改めて作家としてのレベルの高さと奥深さを再認識した。すごい作家だ。

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 バンクーバーオリンピックが始まった。バンクーバーにいる長女に”どうよ”と聞いたところ、窓からモーグル会場のCypressが見えて、ヘリコプターが飛び回ってるということなので雪でも運んでるのだろうか。


UBCから北方を撮った写真なので、遠くの山がCypressの可能性が高い。

開会式でシャチが潮を吹き上げながら泳ぐ場面はすごかった。
上村愛子ちゃんにメダルをあげたかった。上村選手の後を滑るアメリカの選手が転倒した時不謹慎にも”やった!”と声をあげて、二女に「Fairな戦いをしないとだめ!」とたしなめられた。4回のオリンピックで、7位、6位、5位、4位というのだからすごい。次回もがんばるのだろうか。

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