備忘録として

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支倉常長

2014-05-25 10:25:23 | 仙台

ドン・キホーテ』の舞台となったスペインのラ・マンチャ地方を支倉常長一行が歩いた1614年、作者のセルバンテスは存命で翌年『ドン・キホーテ後編』を出版する。

先週末、支倉常長展が常設されている仙台市博物館に義母を伴って妻と行った。近くに上の支倉常長像も立っている。

伊達政宗の命を受けた支倉常長がイスパニア(スペイン)国王とローマ法王に会うために、帆船サン・ファン・バウティスタ号に乗って石巻の月浦を出港したのは今から400年前の1613年のことである。船には140人の日本人とソテロ神父ら40人のスペイン人が乗り込んだ。太平洋を渡りメキシコのアカプルコに上陸し、陸路メヒコ(メキシコシティー)でノビスパニア(メキシコ)総督に通商を申し出るが本国の指示がなければ総督が通商を受け入れられないのは明らかだった。そこで選抜された日本人26名が、大西洋岸のベラクルスから、再び船に乗りスペインを目指した。残りの日本人はメキシコに残り使節団の帰りを待った。支倉常長らがキューバのハバナを経由しスペイン南部のグアダルキビル川に上陸したのは翌1614年9月である。そこから陸路セビリア、コルドバ、ラマンチャ、トレドを経てマドリッドに行き1615年1月30日に国王フェリペ三世に謁見する。この時、マドリッドで余生を送っていたセルバンテスは支倉常長一行のことを見聞きしたかもしれない。その後一行は地中海のバルセロナに出て船でローマに向かう。ローマ法王パオロ五世に会うためである。1615年11月3日に支倉らは法王に謁見する。徳川幕府は1612年に禁教令を出し布教禁止、1613年には伴天連追放令を出している。この措置によって高山右近がマニラに追放されたのは1614年のことである。このような日本の事情はすでにローマにも伝わっていたため、洗礼を受けていた支倉一行は歓迎はされたが、政宗の求めた宣教師の派遣や通商許可については保留された。

下の行路図はいずれもWiki スペイン版から拝借した。

仙台市立博物館で買った太田尚樹『支倉遣欧使節 もうひとつの遺産』は、支倉の行路を実際に辿った紀行本である。本には参考文献の索引がないので、以下に列挙した参考資料は本文より出現順に拾った。仙台市立博物館所蔵の資料は主に支倉常長が持ち帰ったもので、スペイン、フランス、ローマにも常長の足跡が多く残されている。

  • セヴァスチャン・ビスカイノの金銀島探検報告 イスパニア太平洋艦隊司令官ビスカイノが1611年に政宗に出会ったときのことが書かれている
  • 政宗から茂庭石見宛ての書状 支倉常長の実父に切腹を命じ常長は追放せよという内容
  • セビリア市歴史博物館に残る政宗からセビリア市に友好関係と通商を求める書 慶長18年9月4日付
  • 仙台市博物館所蔵の常長がヨーロッパから持ち帰った自身の肖像画
  • ボルゲーゼ宮殿内に保存されている法王庁絵師クロード・ドゥルエの描いた常長の全身像 上の帯刀し白い羽織袴を着用した肖像画(Wiki)
  • ヴェネチア国立文書館に残るローマ駐在ヴェネチア大使の報告書に記された常長の風貌
  • 岩倉具視ら欧米使節団がヴェネチアの古文書館で見せられた常長署名入りの書状
  • マドリッドからローマまで常長に同行した歴史学者シピオーネ・アマティの伊達政宗遣使録
  • 政宗からノビスパニア総長直属管区長コミサリオ・ヘネラルに宛てた書状
  • マドリッドの北シマンカス国立文書館にある支倉常長から宰相レルマ公爵宛ての書状 慶長19年8月26日付
  • メディナ・シドニア公爵が枢密院書記官に宛てた書状 常長ら30人が当地に来たと記す
  • ソテロからセビリア市に宛てた書状 奥州王の船をノビスパニアに残し30人のみを同伴してきたと記す
  • セルビアのアルカーサル宮殿に残る記録 常長らが1か月滞在した
  • 仙台藩士・石母田家に残る政宗からイスパニア国王宛て親書
  • フランスのアヴィニョン近くカンパトラの古文書館で見つかった4点の日記 使節は南フランスのサン・トロペのコスペ未亡人宅に2泊した
  • ローマのクィリナーレ宮殿の王の間にある常長ら5人とソテロを描くフレスコ画
  • 聖フランシスコ派神父アンジェロ・リボルタの日本奥州の大使による法王謁見顛末記 法王謁見の様子
  • 法王庁式武官パウロ・アラレオネの法王パウロ五世在位日記 法王謁見の様子
  • 法王庁式武官パウロ・ムカンチの式部職日記 法王謁見の様子
  • ローマ駐在のイスパニア大使カストロ伯爵からイスパニア国王に宛てた書簡 法王謁見の様子
  • 政宗のローマ法王宛て親書 慶長18年9月4日付

支倉常長は法王謁見後、スペイン、メキシコ、フィリピンのマニラを経由し長崎に入り、仙台に戻った。月浦出航から7年後の1620年のことである。

太田尚樹の本の後半は、スペインのセビリア市近郊のコリア・デル・リオ中心に住むハポン(japon)姓の人たちが、スペインに残った支倉使節の末裔ではないかという話が中心になる。スペインのハポンさんたちがサムライの末裔かどうかの結論はDNA鑑定に任せるとして、一番知りたかった帰国後の常長にはまったく触れていなかった。洗礼を受けた支倉常長にとって禁教下の仙台は住みにくい土地だったと思う。帰国2年後、常長は失意の中死去したと伝えられる。帰国後の常長については別途追求してみたい。 


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