缶詰の創始者はナポレオン・ボナパルトであるというと正確ではないかもしれない。悩みの種だった遠征軍への食料補給について、妙案を懸賞付きで募集した。1804年、フランス人が応えた。長期保存ができる瓶詰めである。しかし重く壊れやすい。6年後、イギリス人のピーター・デュランドが金属製容器の缶詰を発明。後、改良を重ね今日に至っている。してみるとナポレオンなくしては缶詰は生まれていないのだから、やっぱり缶詰生みの親はナポレオンでいいのではないか。偉大なり、ナポレオンだ。
軍用から日常用へ。最近では非常食、あるいはアレンジ・レシピの素材になるなど活用の幅がグンと広がっている。
インスタント食品やレトルト、フリーズドライ、もちろん冷凍食品とはちがう。“復元”の要がない。そのまま食せる。そう、『食のタイムカプセル』である。「時間よ、止まれ!」だ。調理のある過程をカットオフして、そのまま閉じ込める。これは缶詰のみがなし得る芸当ではないか。単なる保存を超えた缶詰の魅力はどうもそこら辺にあるような気がしてならない。フタを明ける刹那の蠱惑に似たときめき。パック食材ではあまりに明け透けすぎる。
話は跳ぶが、イスラム教は元よりキリスト教でも長らく利子が禁じられていた。時間が生み出すものが利子であるが、その時間は神のものである。神の所有に属する時間を人間が利子でもって勝手に値を付けるのは神への冒瀆であるとした。お堅いお説教のようだが、万物創造の唯一神であれば宜なる哉である。
禁忌には破戒の蠱惑が伴う。時間をポーズすることで神の手から時間を詐取する。極小で一時的ではあれ、神の支配から離れた時間を手にする。それが『食のタイムカプセル』たる缶詰の禁秘ではないか。なにを大袈裟な、という向きはあろう。がしかし文化に裏打ちされない人為はない以上、あながち金棒引きとはいえまい。エデンの園でアダムとイブが禁断の果実を口にしたところから“物語”は始まった。食い物の恨みは怖い。禁断の果実、つまりは人知が食い物による破戒を企てたとすれば、一興ではある。キリスト者にとっては不信心にも程があろうが。
大きな漁港を抱える隣市で、一旦消えた缶詰作りを復活しようという町おこしが始まったそうだ。『缶詰バー』が人気だという。 酒の当てにタイムカプセルとは乙なものだ。魚だけではなく、何が閉じ込められているのだろう。いつかの今が凝っているにちがいない。 □