伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

大言論 Ⅲ

2011年05月13日 | エッセー

 4月に Ⅲ が出て、このシリーズは完結した。

   養老孟司の大言論 Ⅲ  新潮社 
   大切なことは言葉にならない

 アフォリズムがいっぱい! である。わたしなりにいたく感じ入ったものを列挙してみる。寸法を整えるため、原文を生かしつつぎりぎり端折った。前後のコンテクストはもちろん、語調が損なわれたかもしれない。そのため文意の掴めないものもあるだろうが、なにはともあれぜひ原書を紐解いていただきたい。

■客観性とは「バカでもわかる」ことをいい、「俺にしかわからない」という感想を主観というのである。幸か不幸か、時代は主観から客観へと移行してきた。

■本気で戦えば、敵に似てくる。

■おそらくすべての研究は最終的解決には向かわない。当面の解決があるだけだ。最終的解決があるという信念もまた、「原理主義」だ。ヒットラーはホロコーストを「ユダヤ問題の最終的解決」と見なした。

■「私は私、同じ私」というのが、社会的常識になっている。それこそが「情報化社会」である。なぜなら、時間を経ても変わらないもの、それが「情報」だからである。

■ヒトはひたすら妄想を実現しようとする動物でもある。それを文明とか進歩とか呼ぶ。

■「同じ」こそが、いわゆる近代文明のキーワードである。

■第一次産業の社会的地位は明らかに低い。頭で考えただけでは、うまくいかない。そういう仕事は、現代ではいわば「下等な」仕事である。そう思う人たちを都会人と私は定義する。都会人は予測と統御が成り立たない仕事を避ける。

■アメリカという「人工国家」が「本当か」というなら、広い意味でウソだといえないことはない。国家の正統性なんて、いわば人為的に作るしかない。それは壮大なウソともいえるではないか。

■私に国家は虚構だということをしっかり印象付けることになったのは、いまにして思えば昭和二十年八月十五日だった。

■国家というウソは、国民全体を縛る。人を縛り、動かすのは、事実より虚構、言葉だからである。国家は虚構でも、とりあえずわれわれはその虚構に生きるしかない。言葉は意識の産物で、虚構こそ意識の典型的な産物なのである。

■呪術が現代社会を覆っている。たとえば投票行動である。エンピツで紙になにか書いて箱に入れ、それで世の中が変わる。そういう考え方って、お呪いと似たようなものじゃないか。現在の問題は政治システムを動かせば済むという話ではない。

■現代社会は言葉が当為という面で力を持ちすぎている。文句をいえば済むと思っているのである。「こうすべきだ」「ああすべきじゃないか」。だから挙句の果ては、極端なクレーマー、モンスターと呼ばれる親や患者が出現する。

■いまでは言葉が強く呪術性を帯びたからとしかいいようがない。国会は法律を作り続ける。まさに「開け、ゴマ」ではないか。法で規定すれば、世界はよくなると思っているとしか思えない。そのどこに「現実」があるか。

■「呪い」と「お呪い」が同じ文字だということにあらためて驚く。呪いは悪いほうへ、お呪いはいいほうへと、言葉の効き目が逆さになっているだけである。いずれにしても、言葉の働きに頼っていることに変わりはない。

■言葉の当為への大人たちの妙な信頼が、「死ね」といわれて死ぬという、子どもの行為を生んだような気がするのである。

■世界はわからなさに満ちている。それが歴史になったとたん、わかるようになるというものウソであろう。後になったら、もっとわからなくなるに決まっている。その当たり前の認識が、じつは欠落してきたんじゃないか。

■正解はたしかに存在しているはずだが、それには近づくことしかできない。その謙虚さが、報道やノン・フィクションに欠けてきたことが問題だ。こちらも正解がないと怒る。「ふしぎ発見」というTV番組に、かならず「正解がある」。正解があるのに、どこが「ふしぎ」か。

■根源的には「知りえない」事実という核に言葉を付け加えることによって、われわれは世界を豊かにする。報道やノン・フィクションは公平・客観・中立をいい、重箱の隅をつつき、他人の非を追及することで、逆に世界を貧しくしてきたのではないか。

■マンガもファンタジーも、新聞とは違って、はじから「真っ赤なウソ」というラベルが貼ってある。人々はその世界に浸る。そして「人生の真実」をむしろそこで発見するのである。

■西洋の町の中心を占める、ひときわ目立つ、二つの大建造物がある。それは教会と劇場である。この二つは、「この中で生じることは真っ赤なウソですよ」ということを、あの立派さが保証しているのである。

■都市は、徹底した意識的世界である。

■ホモ・サピエンスが言葉を持ったのは、たかだか五万年ていどの時間であろう。文字の歴史はもつと新しく、千年の桁にしかならない。インターネットはつい最近である。そういうものに、根本的な欠陥がまだ内在していたとしても、なんの不思議もない。

■体を使えば、意識が変わる。変わったらどうなるか、そんなことが私にわかるわけがないだろうが。そこから先は、「変わった自分」に考えてもらえばいい。変わらなかったらどうする。もっと働けばいい。先史以来、人類はそうやって生きてきたはずだ。

■その人にとっての現実とは、その人の行動に影響を与えるもののことである。お金はほとんどの人にとって現実であろう。しかしお金くらい、抽象的なものはない。そもそも動物はそれをまったく理解しない。

■木の葉の配列など、眼前にある種の規則がみごとに具現されている。規則自体は複雑すぎて、よくわからない。しかし感性はすでにそれがみごとな「解」であることを、直截に捉えて、「美しい」というのかもしれない。

■現代の教育は、問題解決型の人を育てる。でも答は見えているんだが、問題がわからない──人生ではそれもふつうに起こる。「あいつ、なんであんなことをしたんだ」という状況がそうであろう。解はすでにあるが、問題が不明なのである。

■自然の中でヒトは新参者だ。ホモ・サピエンスは、たかだか二十五万年前にアフリカに発生した。その意味でヒトが遅れてきたというのは常識だが、それでも、ヒトはヒトがいちばんエライと思っている。たから平気で先輩の自然を破壊する。それがヒトの脳が生み出した意識という機能の悪い癖である。

■(赤軍派の事件など)現にあったものだから、いうなれば仕方がない。それならどうしてああいうことになったのか、それを考えるのが、同時代人の務めだと、強迫的に思っている。

■神秘や奇蹟など、端から信じていない。でも反原理主義という原理主義でもない。なにかを信じないというのであれば、意識と理性の万能を信じないだけである。だって一生の三分の一は意識がないんだからね。

■私は『唯脳論』を書いた。むろんそれは「脳だけ」という意味ではない。世界はいまや「脳だけ」になりつつあるが、身体があるでしょ、と書いたつもりだった。理念は脳で、実感は身体である。それは言葉を持つ人類が発生して以来の問題だ。

■選挙による民意なんてものは、私は必要悪だと思っている。そんな抽象的なもので、具体的な人生を左右されてはたまらない。そう思うからである。民主主義という「理念」と、選挙による多数という「実感」が結びついて、小沢になっている。


 養老節、炸裂である。知の『人生行路』翁のぼやき、連発である(特に、最後の項は逸品、絶品である)。いっしょに切れて、ぼやいて、カタルシスだ。そのわけはこの前記した(3月31日付「大言論」)。
 この巻には、インド、ブータン、台湾の旅行記が綴られている。大半を占めるこれらの紀行が、ほかの巻にない風趣を醸している。
 さらに巻末には、養老先生お勧めの書籍が150冊余紹介されている。古今の名著に並んで、まんがもある。『おそ松くん』『ナニワ金融道』……先生の懐は、実に深い。先日引用した「武士の家計簿」もリストアップされていた。ニンマリだ。

 この巻の発刊準備中に東日本大震災が起こった。
■地震も津波も、生き死にも、すべて言葉ではない。そんなこと、当たり前だが、いまでは地震も津波も「言葉や映像になった」のと違うか。思えばやはり「大切なことは言葉にならない」のである。

 大団円は、まことに含蓄ある一節で刻まれる。地震をどれほど詳細な情報にしてみても、津波に呑まれたともがらの無念は掬えまい。
 ──根源的には「知りえない」事実という核に、言葉を付け加えることによって、われわれは世界を豊かにする。──前掲の警句が、凡庸な脳髄を痛打した。□