伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

正論じいさん

2019年06月20日 | エッセー

 以下、デイリー新潮から抄録。
 〈松阪市商店街を悩ます「正論おじさん」の正義感、精神科医が解説する“傾向と対策”  6月11日に「羽鳥慎一モーニングショー」で紹介されるや、立て続けに取り上げられた、三重県松阪市の商店街に出没する、自称89歳の爺ちゃんである。  商店街の舗道にある障害物を、1人で取り締まる爺ちゃん。駅前の商店街にやってきては、法の正義の下、舗道にはみ出た看板や幟、自転車などを注意するばかりか、勝手に移動、時には破壊まで……。
 ACジャパンが今年2月に掲載した、「その危険見えてますか」キャンペーンの、“視覚障害者の約2人に1人が歩行者との接触事故に巻き込まれています”というメッセージが書かれた新聞広告だったという。この広告を見て義憤に駆られた爺ちゃんはまず、点字ブロック上にモノが置かれているのを警察に通報。これについては、警察が応じた。だが、看板が舗道にはみ出ているといったことに、警察は商店主たちに特段の指示を出すことはなかったという。そこで立ち上がった爺ちゃんは、以後およそ4カ月、ほとんど毎日欠かすことなく商店街の見回りを実施。敷地から数センチでもはみ出た看板があれば押し戻し、幟が舗道に立っていれば「片付けろ!」と店主を怒鳴りつけ、自転車のタイヤが舗道上に飛び出していれば強制的に店内に入れてくる。たまたま店内に居合わせた客にまでコンコンと説教をするまでにエスカレート。
 「要するにね、ここは天下の公道なの。(店の外を指して)あそこに旗が立ってる、イスがある、飾り物が、棚みたいなのがある。法律によって、置いてはいけないと法規に書いてある。だから置いちゃいけないの。だから私は注意しに来た」商店も反論がしにくいため、看板を敷地内に収めることに。お陰で舗道は障害もなくスッキリしたものの、商店街としての賑わいは失せた。中には売上が激減し、店を閉めたところまで ……というのが大まかな内容である。
 頑固な爺ちゃんと一般市民はどう向き合うべきなのか、専門家に聞いてみた。「他人を攻撃せずにはいられない人」(PHP新書)などの著書もある精神科医の片田珠美氏に話を聞いた。「原因は2つ。強い支配欲求と孤独によるものです。特に支配欲求は、校長、官僚、大企業の部長職といったような肩書きのある人が定年後に起こりやすいのです」。爺ちゃんには妻がおり、かつては「法務省で勤務経験」あり、「元国家公務員」と報じた番組もあった。〉
 89ならおじさんではなく、じいさんだろう。「頑固」について、中野信子氏は近著(小学館新書『キレる!』)で深い洞察を加えている。
 前頭葉は理性を司る。自らを抑え、相手を理解して自分の振るまいを決める。この前頭葉が老化によって萎縮するというのだ。“暴走老人”の因って来るところである。だから、メンタル以前にフィジカルな要因が関わっている。さらに狷介だから“ブレない”、同調圧力に屈しないともいえるが、社会的認知を司る眼窩前頭皮質や前頭葉内側が老化により萎縮していることから起こりうる症状だともいう。同調圧力に不感になると我を押し通し人の話は耳に入らなくなる。
 さらに厄介な事態が待ち受ける。
 〈最も恐ろしいのは「自分には怒る正当な理由がある」と判断した場合です。なぜなら怒りがどんどん加速してしまうからです。実は、こうしたキレ方のほうがより激しく、恐ろしいのです。なぜなら、正義感による制裁行動は、ノルアドレナリン、アドレナリン以外にもう一つの脳内物質が関係するため、より過激になり、止めることが困難になるからです。正義感から制裁行動が発動するとき、脳内にはドーパミンが放出され、快感を覚えることがわかっています。ドーパミンは“快楽物質”とも呼ばれ、脳内に快感をもたらします。快楽からその行動がやめられなくなります。〉(上掲書より抄録)
 “正論じいさん”の正体見たりである。といってフィジカルである以上特殊なケースではない。万人が老いるからだ。発現が特徴的だったに過ぎない。明日はわが身だ(ひょっとして今日すでにか)。つまりは、そのようなメタ認知をもっておくことが緊要である。したがって、“正論じいさん”には同情はしても反感も共感もしない。
 老化をある種の退嬰化だとすると、内田 樹氏の以下の潜考は核心を突いている。
 〈度量衡は世界標準一つに統一した方が便利だという話と、すべての社会集団には固有の度量衡を持つ権利があるということは、レベルの違う話である。どちらかに片付けないと気分が悪いと言われても、おいそれとは従えない。それは「子どもの言い分」である。複雑なものは複雑なまま扱うのが大人の作法である。「ナカとって」というような無原則な言葉づかいをメディアも知識人も嫌うので、なかなかこの「常識的な落としどころ」に落ち着かないのが厄介である。〉(『潮』今月号から)
 黒白つけたがるのは「子どもの言い分」。「ナカと」るのが「大人の作法」。“正論じいさん”は「子どもの言い分」ということになる。
 さらに膝を打つ達識を引く。
 〈ナショナリストはしばしば「自分が知っていること」は「すべての日本人が知らなければならないこと」であるという不当前提を採用する。だから、論争においてほとんど無敵である。彼らの論争術上のきわだった特徴は、あまり知る人のない数値や固有名詞を無文脈的に出してくることである(「ノモンハンにおける兵力損耗率をお前は知っているか」とか一九五〇年代における日教組の組織率をお前は知っているか」「北朝鮮の政治犯収容所の収容者数を知っているか」とか)。それに、「さあ、知らないな」と応じると、「そんなことも知らない人間に××問題について語る資格はない」という結論にいきなり導かれるのである。これはきわめて知的負荷の少ない「論争」術であるが、合意形成や多数派形成のためには何の役にも立たない。〉(『武道的思考』から抄録)
 ナショナリストをある種の正義漢(屈折はしているが)だとすると、マニアックともいえる「あまり知る人のない数値や固有名詞」を振り回す「論争」術はこの正論じいさんも骨法とするところだ。じいさんは「法律によって」とは道交法276条の3だと言挙げしたそうだ。「『そんなことも知らない人間に“はみ出し看板”問題について語る資格はない』という結論にいきなり導かれるのである」。なんともピタリではないか。ただ根拠法は道交法276条の3<前照灯の灯光の色は、白色であること>ではなく、76条の3<何人も、交通の妨害となるような方法で物件をみだりに道路に置いてはならない>である。前掲書で中野氏は「脳の老化というと、記憶力の低下というイメージがありますが、老化によって記憶を司る“海馬”よりも先に、前頭前野が萎縮することがわかっています」と語っている。どうやら前頭前野のシュリンクに海馬のそれが追いついてきたようだ。
 以上、本稿は自戒を込めて綴りました。とほほ、です。 □