還暦とは巧く言ったのものだ。干支の一廻りを人生一回分としたのであろうか。だとすれば今よりうんと寿命の短かった時代に生まれた言葉であるから、括りの単位というより目標として掲げたのかもしれない。だが本邦に限っても、はや軽く突破してしまった。すでに二廻り目は至極当たり前になった。
かかる事情を奇貨とするなら是非に居くべきであろう。なにせ一周目は駆け過ぎるに必死で、道すがらの景色はもとより行く手の数多異事(コトゴト)にかかずらう暇(イトマ)はなく、そのほとんどを見過ごしてきたからだ。だから近頃やっと、ああ、そうだったのかと膝を打つこと頻りなのである。今稿では、そのうちの一つを紹介したい。
生物学者である福岡伸一氏の近著「動的平衡<ダイアローグ>」(木楽舎、先月刊)が実におもしろい。対談相手の一人、日本画家で京都造形芸術大学教授の千住 博氏が「青色」(申告ではない)についてこう語っている。
◇青は他の色とは異なる、特別な色だと思います。レオナルド・ダ・ヴィンチは、「すべての遠景は青に近づく」といいました。ダ・ヴィンチは大気を通して見るとすべてのものは青く見えると考え、自分が絵を描くとき、遠くにあるものほど青い絵の具を混ぜて描いた。それによって、空間に果てしない奥行きを生み出したわけです。
人間にとって最も身近な青は何かというと、空の青や森の緑ですよね。人がなぜそれらを美しく感じるのかといえば、曇り空ばかりの長い氷河期に青い空の下や緑の森のなかに行けば生き延びることができるから。つまり、美を感じる心とは、生き延びるための知恵、もっといえば生きる本能そのものだと思うんです。しかもこれは人間に限らない。
私は、生物の行動規範とは美ではないかと思うんです。クジャクのオスが羽を精一杯広げて見せるのは、メスに対して「こんなに健康で、生命力にあふれた俺の卵を産んでくれ」といっているわけですよね。これは生きるための切実なメッセージです。メスもそこに美を感じるから、この求愛を受け入れる。昆虫が美しい花に引き寄せられるのも同じで、生物は、皆、美しいほう、美しいほうへと動いていきます。そう考えれば、美的感覚はすべての生命体に備わった感性、生存を支える本能だと思える。青という色には、こうした生物の秘密が端的に表れているのではないでしょうか。◇
受けて、福岡氏が青、赤、緑の光の三原色へと引き継ぐ。
◇血液が赤いのはヘモグロビンのなかのヘムという色素のせいであり、植物が緑色に見えるのは葉に含まれた葉緑素(クロロフィル)という色素によります。ヘムには鉄が、クロロフィルには銅が含まれているために色が異なって見えますが、この、二つの分子構造は瓜二つ。ヘモグロビンは動物の血液のなかで酸素を運び、クロロフィルは植物の光合成をつかさどる。どちらも生存と深く関わる物質で、生物はそうした外的刺激を色として認識することで生き延びてきました。
ですから、生物が生きる術として色を感じてきたという千住さんのご意見に、私は一〇〇パーセント同意します。◇
「人がなぜそれらを美しく感じるのか」、それは「生きる本能そのもの」であるからだ。美意識とサバイバルの一体不二、さらに三原色と生物の生存との深い関わり。これは凄い。「長い氷河期に」人類は生き残りを賭けて、必死で青を探した。だから、青は美しい。
してみると、ウインドウズのデザインが青を基調としているのも如上の機微をうまく掴んでいるといえなくもない。知のサバイバルはここにありと……。
かつての拙稿を引きたい。
〓意外にも、四季は春からではなく冬から始まる。東洋の古(イニシエ)の智慧は人生に準(ナゾラ)え、そう教える。 ―― 少年時代が冬。芽吹きの前、亀の如く地を這い力を蓄える時、玄冬だ。20歳から40歳までが春。青龍が雲を得て天翔(アマガケ)る、青春である。続く60歳までは夏。朱雀が群れ躍動する朱夏、盛りの時だ。そして、秋。一季の稔りを悠然と楽しむ白虎、白秋を迎える。〓(06年9月、「秋、祭りのあと」から)
とりわけ「青春」である。次代の主役を呼ぶに、やはり「青」を冠した。氷河期を生きた先達と同じく、「青」年にこそ一国の、世界のサバイバルが掛かっているとの遠望だ。
さて、わが家の青年たちはいかに。二廻り目も、気を抜けそうにない。 □