朝廷の役人は四階級に分けられていた。四部官と称し、上位から長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)と呼んだ。文字通りの長官と次官、そして局長、課長以下とでもなろうか。当てる漢字は官職ごとに違った。軍事部門では「将・佐・尉・曹」と表記し、明治の軍隊に引き継がれた。地方の行政は「守・介・掾・目」で、「守」は国司を意味した。国名を冠して「薩摩守」のように使う。ただ今様には別種の意味があって、「薩摩守平忠度」の『たいらのただのり』から只乗りのジャーゴンとして使われる。キセルもその内だ。
ともあれ、任国のトップである。細々とした日常業務に携わることはない。構想を練り、デザインし、大枠を示すだけだ。よしんば設計図は引いても、大工仕事などするはずはない。理想の具現化ために、下官をいかに差配するか。さらに、高邁なる理念を提示しうるか否か。そこにリーダーのレゾンデートルがある。したがって実務を下官が担ったとしても、長官の業績はいささかも減殺されるものではない。それを現業の有無をもって長官の存否を問詰するなどとは不遜極まりない言い掛かりではないか。
大阪東部の南北に長い地帯を河内という。河内国(かわちのくに)は、かつて令制国の一つであった。ここを終の棲家とした司馬遼太郎は「街道をゆく」でこう綴った。(抄録)
◇中世の日本の社会は、土地所有の矛盾の激化で幾度も動乱がおこり、幾度もその矛盾を解決しようとする政権ができ、できては土地の現実にあわず、在郷の期待から外れてしまい、無力化した。
「武士」には土地私有権がなかった。「武士」は自分が開墾した農場の管理人としてしか存在できず、所有がきわめて不安定であった。その安定を希求して公家と対立し、源頼朝をかついで成立するのが、鎌倉幕府である。親方たちは、頼朝の「御家人」になることによって、その所領の所有権を安定させることができた。
ところが、その後もなお開墾が進み、あらたな親方が成立してゆくのだが、これらは京都体制(公家の律令制)のなかにも入らず、あらたな体制である鎌倉の御家人帳にも名が載らず、どの権威からも庇護されなかった。鎌倉・室町のことばでいう「悪党」などというのは、この種の新興地主が多くふくまれる。鎌倉末期から室町期という慢性動乱期を通じてこれらがむらがり出て、かつての鎌倉の土地革命の主役であった守護・地頭(鎌倉の御家人)と対立するのである。
(鎌倉幕府は旧開墾地主の保護に偏り、新興地主の・引用者註)連中をすくいあげず、むしろこれを「悪党」として差別し、その利益の保護をしてやろうとはしなかった。頼朝の死後、北条氏が執権するがやがて全国的な不満をおさえかねるようになる。
その潜在的動乱につけ入ったのが、後醍醐天皇を中心とする武家以前の古い律令勢力であったというのは、歴史がときに見せる奇妙な力学現象である。かれらは尊王、正閏論、攘夷という政治論をふくむ宋学という、およそ日本的実情にあわないイデオロギーを正義とし、公家権力の一挙回復をはかってクーデターを試みようとし、事前に北条方に発覚して京都から逃げる。外来のイデオロギーで武装したこの古代的勢力は、もっともあたらしい悪党新興地主たち(河内の楠木正成がその代表であろう)と結び、鎌倉という、成立早々に古くなってしまった武家体制とあらそう。それが、元弘ノ変とよばれる事変だったといっていい。◇
新興地主たちが鎌倉方から「悪党」と呼ばれ、差別された。結句「歴史がときに見せる奇妙な力学現象」として、「古代的勢力は、もっともあたらしい悪党新興地主たちと結び、鎌倉という、成立早々に古くなってしまった武家体制とあらそう」。こういう鳥瞰的語り口こそ司馬史観の真骨頂であろう。興趣が溢れ、ぞくぞくするところだ。
括弧書きの「河内の楠木正成がその代表であろう」に注目したい。徳川が南朝を認めるわけはなく、大楠公は五百数十年の長きに亘って悪党であった。維新を迎えて、やっと名誉回復となった。世評などというものがどのように作り出されるか。盲目であってはならない。ともあれ反骨の異端が根城とした河内の地。そこに居を構えた司馬遼太郎。通底するものが窺えるようで、微苦笑を誘う。
南朝の関連で、作家・佐藤 優氏の達識を引きたい。
◇プロテスタンティズムの考え方、その救済の考え方というのは、過去において、イエス・キリストがあらわれたあの二〇〇〇年前において、そのすべてが凝縮されていると考えます。ですから、常に復古維新の考え方なんです。宗教改革というのは、イコール復古維新なんです。プロテスタンティズムの力というのは、過去に帰ることができる力ということになります。原点に帰ることができるということです。それは、日本の思想で言えば、南北朝時代の南朝精神に近い。復古維新によって日本を変えていくという、南北朝時代の北畠親房などが考えたことと、プロテスタンティズムは、非常に物の考え方が似ていると思います。日本が、東日本大震災後の危機から抜け出すために必要なのは、復古維新的な考え方です。◇(先月刊、文春新書「サバイバル宗教論」から)
異端がオーソドキシーを原初に求める。洋の東西で同類の軌跡を辿っている。洞見という他ない。
もう一つ。河内音頭を忘れてはならない。江戸期からの土着の民謡、浄瑠璃、祭文などの庶民芸能と仏教の声明が長期間に亘って混合したものだ。特に大正中期に初音家太三郎が出て大胆にアレンジを加え、今日の隆盛に繋がった。今や関ジャニのレパートリーにも入っている。
異端と現代にも通ずる音楽性。まことに河内はオモロイ。
08年6月の拙稿「一口では言えない」を一部再録する。
〓日本人ならだれでも姓名を持つ。その姓(カバネ)である。なんと日本には苗字が30万姓ある。トップ3は、佐藤、鈴木、高橋。お隣の韓国では250姓。金、李、朴がトップ3。漢字の家元・中国でも3500。トップ3は李、王、張。30万はダントツである。ヨーロッパではすべて合わせても5万だから、まちがいなく日本は姓・世界最多の国である。
この30万姓は、名字帯刀を許された維新後に大量発生したものではない。千数百年前から続く氏(ウジ)に来由する。
名田(ミョウデン)を管理したのが名主。名田の地名を氏として名乗った。足利庄だから足利氏というように。その後、歴史の推移の中で始祖の土地から分散していく。したがって、氏は土地ではなく血筋の同一を表すようになる。血筋、すなわち苗(びょう)である。やがて転訛して苗字(ミョウジ)となる。名字ともいう。同義である。
蛇足ながら、漢字の「姓」は「女が」「生む」と分解できる。母系文化や血統という生(ナマ)な印象が強い。片や、大和言葉の「氏」(うじ)には内部、内側の意がある。「うじ」が「うち」に転訛したかどうかは措くとして、生理的繋がりを超えた所有や所属の意識が濃厚だ。いまでは会社の同僚を「ウチの人」などという。さらに亭主を「ウチの人」という奥方は、姓と氏の違いを見事に踏まえているといえる。もとより夫婦に血の繋がりはない。山の神に『所有』される山人という哀れな関係があるだけだ。〓
「さむら」と読む佐村姓は全国で5769位だそうだ。30万の0.01パーセント。僅少である。宮崎県宮崎市山崎町佐牟田の佐牟田が語源らしい。「さむた」が「さむら」に転訛したのであろう。名田の名が残ったのか。興味をそそる。「女が」「生む」からすれば、生(ナマ)な伝承ともいえる。それにしても稀少な名字の、不可思議な継承である。
……えぇ! ちがう?! 『さむら かわち の かみ』じゃないの。まさか。せっかく調べたのに、それはないだろ。
お前の読み違いだって。気の利いたペンネームだと感心したんだよ。あの感銘と官名(守)。難聴と南朝。超レアなキャラと名字。ピッタシだね。どーよ、佐村河内守クン。 □