伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

奥深い日本の食

2012年11月27日 | エッセー

 どうも畏まって飯を喰らうのはいけない。特にフレンチだのイタリアンだのと取り澄まされちまうと、気遣いが多くて肩が凝る。音を立てるな、ぺちゃくちゃするな、ナイフがどうだ、フォークがこうだと教化的情熱に溢れた指導を受けると、もういけない。遂には、ええい、箸をもって来てくれと毒づきたくなる。
 ところが、こないだ大いに勇気づけられる本に出会った。
「お辞儀、胴上げ、柏手…の民族学──日本人はなぜそうしてしまうのか」(新谷尚紀著、青春新書、本年10月刊)である。
 やはり学者は偉いものだ。たとえば、次の一節。
◇欧米での食事作法の確立、テーブルマナーの整備は、じつは驚くほど遅いのです。西洋諸国で現在のようなテーブルマナーが整えられてくるのは、フランス革命のあと、宮廷料理人たちが、市中に高級レストランを開業していく、19世紀以降のことでした。◇(同書より引用、以下同様)
 日本での食事作法の確立は室町時代だから、4世紀もの隔たりがある。欧米流はずっと歴史が浅いのだ。いわば人類の食事マナーにおける新参者にすぎない。
 後述するが、ヨーロッパでナイフやフォークが使われ始めたのは16世紀。それ以前は王侯貴族といえども手掴みで食っていたそうだから、随分野蛮なのものだ。『欧米か!』は、つい最近の成り上がりともいえる。紙ナプキンが付いてはいるが、おそらくケンタ(KFC)は手掴み時代の名残であろう。肉の塊を鷲掴みにして、口をカッと開けて喰らいつく。あの刹那にバイキングのDNAが起動するにちがいない。(今稿はいやにナショナリスティックな物言いになっている……飲み食いという本能に近接した話題になるとどうしても“民族の血”が騒ぐためであろう)
 箸にしたって、遣隋使が持ち帰った当時最先端の食器具であった。西欧とは優に900年の差がある。
◇1553年にイタリアのフィレンツェの大富豪メディチ家のカテリーナ・デ・メディチが、後のフランス国王アンリ二世と結婚したときに、その荷物の中にフォークも入っていて、それまで手で食べていたフランス王宮に、イタリアからの食卓と味覚の大きな変革をもたらしたというのが伝説となっています。しかし、なかなかナイフとフォークの食事は普及せず、あの大食漢のルイ14世がその生涯を通じて手で食べていたのは有名な話です。ベルサイユ宮殿では肉をつかんでかじり、骨髄をしゃぶり、スープの大皿に手を突っ込む王や王妃をはじめ、宮廷の貴婦人たちの姿が毎日見られたのでした。◇
 いかがであろう、『欧米か!』とはこんなものであった。ついでに、もう一つ。
◇音を立てながら食べるというのには、日本の場合には、どうやらおいしそうな食べ方という意味が加わっているらしいのです。たくあんを、ポリポリとおいしそうに食べ、せんべいをパリパリとおいしそうに食べる。それはまわりの人たちにも、ほどよい食欲をそそるものであり、食べる喜びとおいしさとを音であらわし、みんなとそれを共有するような意味があります。お酒をキューッと飲むのも、そのかすかな音でおいしさを伝えています。そこには、さあ、みんなでおいしく食べましょう、飲みましょう、というメッセージが含まれています。◇
 なんとも奥深いではないか。これがわがニッポンである。伊達や酔狂で“ずるずる”と音を立てながら蕎麦を食しているわけではない。「食欲をそそ」り、「食べる喜びとおいしさ」を「みんなと」「共有」するためである。単に食欲を満たすためだけではない。食による連帯だ。世界に誇る気高き食文化である。「肉をつかんでかじり、骨髄をしゃぶり、スープの大皿に手を突っ込む」あちら様とは大違いではないか。

 あー、これですっきりした。先月のこと、都会の豪華なレストランで、まあー親戚連中のうるさいこと、煩いこと。財布はあちらゆえ、文句は言えない。かつ案に相違して、これが美味ときた。だから、悔しい。悔し紛れに犬の遠吠えだ。 □