何だか間延びしたタイトルだな、それが初見の印象だった。しかしそれは浅慮だった。精神科医である著者の職業的恭謙がタイトルを文学作品から間遠な散文的なものにしたのであろうし、「焼く」が能動態を採り「ねばらなぬ」という定言命法を纏わせたところに著者の深い専門性を窺い得る。この著作の核心は既にタイトルが先取りしているのである。
第47回 大佛次郎賞 内海 健『金閣を焼かなければならぬ
──林養賢と三島由紀夫』
金閣寺放火事件から70年後の昨年、河出書房から発刊された。著者の内海 健(ウツミ タケシ)氏は医学博士で精神科医。66歳。精神病理学、病跡学が専門。現在、東京芸術大学教授である。
第1章の章題は「動機はあとから造られる」である。「人はつねに動機を求める」。大きな出来事ではなおさらだ。それらしい原因を見つけて人心地つきたいのだ。しかし内海氏は、
〈養賢はなぜ金閣を焼いたのだろうか。動機をめぐる問いは執拗に立ち上がる。だが、だがそれを一度棚上げにしてみよう。いくら探したところで、金閣の放火に動機などないのだ。〉
と、鰾膠も無い。放火は狂人の振る舞いではなかった。「動機」に因ってではなく、内在的自発性の励起に因って起こった。その内的世界を精神科医の甚深な学識と智見、さらに文学的素養を駆使して追う。それが本書だ。
副題が示すとおり、金閣放火事件は犯人林養賢と作家三島由紀夫の内的世界がパラレルに描き出されていく。流れは巧みだ。キーワードは「離隔」。現実と認識との間(アワイ)を穿つ底知れぬクレバスだ。巷間この事件を語る時、お定まりのように引き合いに出される分裂病が林にも三島にも吻合しないという病理的解析がなされていく。少々しつこくはあるが職業柄か。論は意識の決定的遅れ、ナルシシズム、ニヒリズム、自由とは、と拡がり、パスカル、カント、デカルト、サルトルが援用さていく。さながら西欧哲学の簡にして要を得た概説を聞くようだ。
中国古代の伝説的名医扁鵲(ヘンジャク)もかくあらん。内海氏は養賢と三島の内的世界を鮮やかに診(ミ)定めていく。その道行きが奇しくも一つの文学を成している。世界でも夙に高名で三島文学の最高峰とも目される『金閣寺』を通して三島文学が、そして三島本人が論じられる。ここには著者のただならぬ文学的素養が垣間見られもする。
「離隔」をいかに解消するか。養賢は金閣放火によって、三島は割腹自決によってそれを実現した。
〈養賢が兇行のあと、うわごとのようにその行為を名指した「美への嫉妬」、三島はこの事後の表象から入り、兇行の真理に裏側から到達した。ここにおいて、三島の美は養賢の倫理と邂逅したのである。〉(上掲書から)
「美への嫉妬」とは養賢がかりそめに吐いた放火の動機である。これを「事後の表象」として自家薬籠中の物としたのが三島の天才である。つまりわが作品に換骨奪胎しわが美意識の裡に回収し、兇行への世のさんざめきの裏を掻いて「真理に裏側から到達した」。「養賢の倫理」とは、永遠の美のために美は滅びねばならぬという倫理観だ。放火と割腹はここにおいて倫理と美が千載一遇の「邂逅」を果たす。
常人はこれを倒錯という。だが、宇宙に時空の歪みを予言したのはアインシュタインの天才であった。宇宙は整然たるコスモスではなかったのだ。内なる宇宙の闇と頭上の宇宙の闇。どこかでシンクロしているにちがいない。 □