伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

笑点の間抜け

2020年10月05日 | エッセー

 長く欠かさず見てきたが、6月中旬ごろからピタッと見なくなった。日曜夕方の『笑点』である。コロナのためにリモート形式になってからも見つづけてはいたが、やはりおもしろくない。間が悪いのだ。テクニカルな問題だろう。大喜利で、春風亭昇太と出演者との遣り取りに微少ではあるが余計な間が入る。言葉は逆だが、それが垢抜けしない間抜けに見える。間の世界に生きる落語家がこれほど間にノンシャランでは夏の小袖に二本棒、間抜けもいいところだ。出演者同士のヨコの遣り取りも同等だ。しかも居室からでは寄席という異空間の非日常性が台無しだ。これではまるで噺家のテレワークだ。それに司会を含めメンバーがみんな二線級。最年少の林家三平にしてもアラフィフ。かつての躍動感も当意即妙の知恵の輝きも失せてしまった。遅蒔きの唐辛子、足が向かないのは当たり前ではなかろうか。
 日本は「間の文化」といわれる。「間抜け」を始め、「間」が入る言葉は数多い。「人間」はサンスクリット語の漢訳で人の世を意味したが、江戸時代以降「人」そのものを意味するようになったという。江戸になり定常社会が続いた。人の世が個々の関係性により強く収斂されていく。大きな括りである人間つまり世間から意味の代替化が起こったか。不足の謂もある。「間に合わない」はそれだ。空白も「間」だ。床の間は物理的スペースである。歌舞伎で見得を切るのも空白の挿入ではないか。山ひとつを神とするのはアニミズムの変成だが、山は人為を隔て、里を遮る大きな「間」ともいえる。
 「間」は俗字で、元来は「閒」(門構えに月)と書いた。門扉の隙間から月が見える様を言った。だから、間が抜けるのは風雅に掛けるのか。おもしろくないはずだ。おもしろくはないが、高みに立てばおもしろくなることだってある。
  〽 間抜けなことも 人生の一部だと
      今日のおろかさを 笑い飛ばしたい 〽
 吉田拓郎「全部だきしめて」のフレーズである。黒胡椒の一振り、微かではあるがシニシズムがまぶしてあるような……。
 トランプが感染した。これぞ間抜けなトリックスターそのものだ。マスクの適否は措くとして、大統領選を目前にして「間に合わない」「空白」を作ってしまったようだ。でも、トランプのことだ。無理筋な早期回復で「強い男」を演出するかもしれない。バイデンは油断しない方がいい。
 笑点とトランプには太平洋という巨大な間があるが、間抜けの「間」はほとんどない。ただし笑点の間は人畜無害だが、トランプの間は強烈な毒性を帯びている。一国内に超え難い断絶の壁をつくった。その毒性とは反知性主義のことだ。思想家内田 樹氏は最新著「日本習合論」(ミシマ社、先月刊)でこう繙く。
 〈あなたは「私が見ているものとは違うもの」を見て、私を批判した。事実は一つではない。「あなたが見ている事実」があり、「私が見ている事実」がある。人生いろいろ。私だって「私が見ている事実」が唯一の事実であるとは言わない。だから、あなたも「自分が見ている事実」が唯一の事実であると言うのを止めなさい。これがポスト・トゥルースの時代における支配的な考え方です。
 「自分の好きなように世界を見ていればいいじゃないか」というのは、二十一世紀になって「ポスト・トゥルース」の時代に登場してきた新しい考え方です。こういう考え方を僕は「反知性主義」と呼んでいます。知性には汎用性がない。知性にはことの理非や善悪を判定する力がないという考えのことですから、「反知性主義」と呼ぶしかない。〉(抄録)
 感情にまかせた発言が先走り客観的な事実は後ろに隠れる。発言に事実が追従する奇怪な現象だ。それがポスト・トゥルースである。「知性にはことの理非や善悪を判定する力がない」とする反知性主義の別名であり、現代社会が生んだ鬼胎でもある。トランプはその最も尖鋭化した典型だ。本邦のポチ政権はその忠実な継承者だった。文書改竄は「発言に事実が追従した」実例である。憐れにも、今またポチのポチもその毒性を律儀に承継する。学術会議問題は「知性にはことの理非や善悪を判定する力がない」とする反知性主義のあられもない露出である。根因はこれだ。しかし議論は法的整合性や手続きの表層に終始している。間の抜けた話だ。
 事実に対し「巨大な間」を措く。そこに生じた分断がアメリカや日本の未来に資するわけがない。 □