伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

見事なり! 西野采配

2018年06月29日 | エッセー

 1905年3月の奉天会戦を終えたころ、すでに日本軍の武器弾薬の補給は途絶していた。勝ちはしたが、息絶え絶えであった。戦捷の余勢を駆って決戦を挑むなど到底叶わぬ戦況であった。少しでも早く講和に持ち込みたい。そこに5月の日本海海戦での完勝が絶好機を呼び込み、ポーツマス講和会議へと至る。たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない。持久戦に持ち込めば勝てる、と強気に出るロシア。しかし、国内は混乱を極め革命前夜の様相を呈している。ロシア側とて余裕はない。決裂すれば、ロシア帝国全権ウィッテは失脚を免れない。日本全権の小村寿太郎との交渉は難渋を極めた。仲介に努めたのは東アジアでの勢力均衡を狙う米国大統領セオドア・ルーズベルト。斡旋の甲斐あって1ヶ月の後9月4日、講和条約は成った。
 ロシアは満州・朝鮮から撤兵。樺太南部を日本に割譲。日本は満州南部の鉄道、領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権を獲得。ただし、ロシア側は戦争賠償金には一切応じない。お互いに面子が立つギリギリの落とし所であった。
 ところが、日本の国内が納得しなかった。日本はこの戦争に20億円も投じている。国家予算の4年分だ。増税による増税で耐乏を強いられてきた国民は、首の皮一枚を残しての勝利であることを知らない。講和が薄氷の上にどうにか折り合った苦渋の選択であることを知らない。翌9月5日国民の怒りは爆発し、日比谷焼打事件が引き起こされた。小村弾劾の国民大会、解散を迫る警官隊との衝突、数万の群衆による首相官邸や政府高官邸、新聞社への襲撃、交番や電車の焼き討ち。果ては米国公使館をも狙われた。ついに政府は戒厳令を布き軍隊を出動させ鎮圧するも、翌年には内閣は退陣に追い込まれた。
 本日未明、日刊スポーツ電子版は以下のように報じた。
 〈ロシアメディアがあきれて日本批判 「競技放棄した」
 サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会の日本-ポーランドを中継していたロシアのスポーツ専門チャンネル「マッチTV」は28日、日本がポーランドに0-1となりながら、決勝トーナメント進出の可能性が高まった最終盤で「競技を事実上、放棄した」と批判するコメントを放送した。
 出演者は「こんなことがあってはならない。選手がほとんど動かない。こんなのは見たことがない」とあきれた様子で解説。「私たちは日本選手の熱心さを称賛していたのだが…」と語った。
 テレビ中継では観客席からブーイングが起きたことも紹介された。
 ロシアの大衆紙モスコフスキー・コムソモーレツ電子版も「日本は試合をひどい形で締めくくった」と指摘し「これまで粘り強く戦ってきた日本チームがこんなことをしたのはとても残念だ」と強調した。〉
 欧州各国の評価も同様である。開催国ということもあろうが、その中でロシアがまっさきに批判の狼煙を上げたのには皮肉っぽい諧謔を深読みしてつい苦笑してしまった。20世紀初頭、逃げるが勝ちを敵国に振る舞ったのは確か貴国ではなかったか。もっとも、急場凌ぎのどさくさに詫び金をちゃらにした強(シタタ)かなお国は確か……。
 中国古代の兵法書『南斉書・王敬則伝』には、「壇公の三十六策、走(ニ)ぐるは是れ上計なり」とある。「三十六計逃げるに如かず」だ。平たくいえば、「逃げるが勝ち」である。
 西野 朗監督はボールキープを選択したことについて「納得いかない。不本意な選択」だったと語った。いやいやどうして、そんなことはない。監督の遠謀深慮は歴(レッキ)とした兵法である。内田 樹氏はこう語る。
 〈「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」というのは『甲子夜話』で知られる松浦静山の言葉です。負けは「思議」の範囲にある。だから、後退戦で必要なのはクールで計量的な知性です。まずはそれです。イデオロギーも、政治的正しさも、悲憤慷慨も、愛国心も、楽観も悲観も、後退戦では用無しです。ステイ・クール。頭を冷やせ。大切なのはそれです。〉(『人口減少社会の未来学』から)
 先ずは勝たないまでも負けない。いな、負けはしても退路は確保する。その意味で、ポーランド戦は「後退戦」となった。ならば、「必要なのはクールで計量的な知性」だ。西野監督の采配は見事な「ステイ・クール」であったといえよう。観終わって床に入り、寝付けないままにポーツマス講和が頻りに浮かんだ。 □