伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

トワイライトはお好きですか?

2007年07月04日 | エッセー
 渉猟し尽くしたわけではないので断言はできないが、ほぼ間違いない。 ―― 浅田次郎という作家はトワイライトがお好みだ。天空の黄昏ではなく、時代のそれだ。
 「壬生義士伝」。「五郎治殿御始末」(短編集)。「お腹召しませ」(短編集)。そして、「蒼穹の昴」にはじまり「中原の虹」に至る大河小説。時代物は、すべて消えていく側に軸足がある。アンシャンレジームに視座をおく。つまりは黄昏である。
 さらに、「憑神(ツキガミ)」だ。ずばり幕末の、かつ幕臣の物語である。東映で映画化され先月23日、全国で封切られた。監督に「鉄道員」を撮った降旗 康男、主演は妻夫木 聡。その他、豪華キャスト。前日に、新聞広告が大々的に出た。監督、主演、原作者の対談である。以下、新聞広告からストーリーを紹介する。
  ―― 幕末の江戸を舞台に自身の誇りと武士の本分を取り戻そうと、もがく若き侍の生き様を描いた『憑神』の映画化だ。舞台は「尊皇攘夷」「公武合体」と、新しい時代を唱える声が高まる幕末の江戸の町。文武両道に優れ将来を嘱望されていた下級武士・別所彦四郎(妻夫木聡)だったが、ある事件をきっかけに婿養子に入った家から離縁され愛する妻や子と引き離されるというツキのない日々を送っていた。兄の家に居候しながら肩身の狭い日々を過ごしていた彦四郎はある日、酔って転げ落ちた川岸で見つけた「三巡(ミメグリ)稲荷」に手を合わせ出世を願う。ところが目の前に現れたのは、貧乏神・疫病神・死神という三人の災いの神たち。しつこくつきまとう神様たちからなんとか逃れようと奮闘する中、彦四郎は次第に自分の人生の意義、武士としての本分について目覚めていく……。 ――
 なお補足すると、貧乏神・疫病神・死神は順を追って現れる。ここがミソだ。もちろん軽きから重きへ、「三巡」とはそういう意味だ。予定調和ならぬ『予定破滅』が物語の牽引力となる。この作者の小憎いところだ。なにせ読み終えぬうちは死に切れなくさせてしまう。
 映画のキャッチコピーは、「今を生きるすべての人にツキを呼ぶ、大型時代活劇」。大時代なコピーではあるが、よくできている。特に「ツキを呼ぶ」。これがいい。物の怪の話がなぜ、との疑念にはお答えできぬ。お読みいただくしかない。言い遅れたが、わたしはまだ映画を観ていない。なにせこんなドサに廻ってくるのはいつのことやら。とても待てない。だから、原作を読んだ。

 さて話頭を巡らして冒頭に帰る。この名うてのストーリーテラー、なぜかトワイライトを好む。
 件の広告で、次のようなやり取りが交わされていた。

妻夫木:浅田さんの時代物は幕末を舞台にした作品が多いんですね。
浅田:時代物は幕末しか書いていないですね。その理由は簡単で、今の自分たちの時代から考えて手に届く範囲の時代劇だから。幕末からまだ130年しかたっていないんですよ。人間、そんなに変わっていないと思うんですよね。

 これはなんらの回答になっていない。「小説家は天下御免のライアー」と嘯く作者にとって、「手に届く範囲」か否かは問題の外だ。また、作者が幕臣の末裔であることも、動機とはなっても主因ではない。単なるデカダンでもない。この作家、そんな柔(ヤワ)ではない。ましてや、同情などであろうはずがない。
 邪推するに、やはり「黄昏」に秘密があるのでは ―― 。主人公・彦四郎は語る。

     ◇     ◇     ◇
 榎本釜次郎の胸のうちも、小文吾の言うことも理解できぬ彦四郎ではなかった。ただ、新しき世を造るのも義の道ならば、古き世にこだわる義の道もなければおかしいと思った。すなわち、古き世の義が輝かしければ輝かしいほど、それに代わる新しき義は強くたくましいものとなるはずであった。腐り切った旗本御家人の中にあって、たとえ身は貧しくとも賎しくとも、古く輝かしい武士道を頑なに掲げる者こそが関東武者であり、三河武士であると彦四郎は信じた。
     ◇     ◇     ◇

 「黄昏」とは、深まる宵の闇間に「誰そ、彼は」と誰何したことから生まれた。「古き世」が夕間暮れの中に後退する時、人ははじめて彼を、そして吾を問うのではないか。問わずして、漆黒の闇では身動きがならぬ。囁くように声をかける。「誰そ、彼は」。さらにおのれに向かい、「誰そ、吾は」と。闇は人をして赤裸にしてしまう。
 鋭敏なこの作家が好機を逃すはずはない。だからこそ黄昏に物見台を設(シツラ)え、輝ける払暁を待つのだ。
 大団円、主人公は神に言い放つ。

     ◇     ◇     ◇
 雨にしおれた二柱の憑神は気の毒だが、ひとこと言うておかねばなるまいと彦四郎は思った。
「わかっていただけたか。人間は虫けらではないのだ」
 緋色の手綱を返すと、別所彦四郎は馬の尻に鞭を当てた。
     ◇     ◇     ◇

 これには唸る。亡霊はこの作家の十八番(オハコ)だが、神霊というこの世ならぬものに勝利を宣して、この作品は終わる。人間は神の掌(タナゴコロ)に弄ばれる虫けらではない。神霊は自らの死を知らぬが、人間は死するを辨(ワキマ)える。この分別こそが神霊をも超えるのだ。□


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