伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

満目、緑

2019年06月02日 | エッセー

 当地でも水の張られた田圃に苗が櫛比する季節を迎えた。夏の炎熱を潜(クグ)りあと半年、撓に実った稲穂が陸(オカ)のすべてを覆い尽くし山々を染める錦秋の書割となる。 
 大雨や台風、害虫、今年も試練は容赦なく襲うだろう。それらをすべて裸身で受け、身を躱し、堪えていかねばならない。古来、耕起から脱穀まで八十八の手順を踏んで米は作られるとされた。だから、「八十八」を重ねて「米」とした。
 狭い平地(ヒラチ)を寸土も残さぬように覆い尽くす田面(タヅラ)。微かに青臭い水田(ミズタ)の薫りを風が運ぶ。豊饒への歩みが、もうはじまっている。
 満目、緑一色だ。だが、山口素堂は「目には青葉」と詠んだ。古(イニシエ)には黒から白への間(アワイ)はすべて青、「あを」と呼んだ、という。ずいぶん広い言葉だ。緑はいきなり呑み込まれたにちがいない。今時の人だって、緑なのに青信号と言い習わしている。なんだか頼りなげなことばだ。
 糸に彔。彔は剥、草木の皮を剥ぎ取って煮詰め汁を点々と滴らせて染料を作る様。または、それに染めた糸をいうとも。なににせよ剥ぎ取るとは意外にも烈しい生い立ちだ。けれど反面、痛々しさは新生の瑞々しさにも通じる。緑児といい、緑茶とも、緑の黒髪ともいうのはその謂だ。
 青に囲われた身の哀しさ。青田に青梅、青物に、青竹、青菜。みんな緑なのに青に横取りされている。素堂が使った「青葉」もその同類で、夏の季語に据えられた、元みどりだ。だからちゃんと瑞々しい。
 あと半年、稲田は黄金色に変わる。見事なメタモルフォーゼ。一方、山膚は褪色を始め満目は不揃いになる。踵を接して訪う錦秋の主役は山々が担う。稲穂は須臾の間(マ)書割を務め、黄金はすぐさま隙間なく刈り取られる。そして稲株とともに大地がグロテスクな色をむき出しにする。つづく脱穀、籾すり。八十八の手順が仕上がり、ドラマは畢る。
 しばしの骨休みを終えると身構える冬が舞い来たり、白銀一色の衣を纏う冬田面(フユタノモ)へと変化(ヘンゲ)する。雪解けから春へ、さらにその次へ。四季の輪廻を追いかけるように、人はまた大地との格闘をはじめる。満目の緑は新たな豊饒への旅立ちだ。 □