伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

アラカン

2009年05月29日 | エッセー
 「嵐勘」ではない。『アラウンド 還暦』である。「アラフォー」の伝だろう。だれだかしらないが、巧いネーミングだ。還暦前後ならば、団塊の世代に当たる。嵐勘十郎、分けても「鞍馬天狗のおじさん」を知る最後の世代でもあろう。だから、二重に巧い。
 一生の歩みは切りよい年齢で截然と分かたれるわけではないが、10年刻みで大枠を嵌めることはできよう。仕切りの暈(ボカ)しが「アラウンド」だ。となると、団塊とその前後数年の世代も入る。人口の1割は優に超える。山塊ともいえよう。アラカンは実に巨大だ。
 ここがどう動くか。まちがいなく一国と歴史を変える。「少子高齢化」論議の付帯条項としてしか扱われないが、『アラカン』論をもっと隆盛させるべきだ。それも急ぐ。あと20年しか余裕はないからだ。もちろん年金の問題ではない。そんなところに事を矮小化させてはなるまい。長寿のために、などという健康オタクの与太話でもない。
 かつて歴史に登場したことのないジェネレーションが出現したのだ。「温故」しようにも、日本史はその経験をもたない。「知新」は闇の中だ。かつ、後続は減少していく。歴史の流れに突起する現象である。アラカンをマスとしてどう位置付け、遇していくのか。しくじれば、歴史に禍根を残す。ロス・ジェネは若い世代にだけの失策ではない。だがこの難題は筆者の分を超え、能も凌ぐ。賢者に委ねるしかあるまい。

 角度を変えよう。自らの能に適った稿を綴る。
 「アラ〇〇」を人生のエポックメーキングとして捉え、ケース・スタディしてみたい。ケースは吉田拓郎である。彼は当然、アラカンだ。好適なケースではないか。

● アラ ハタ(20)
 66年(昭和41年)=20歳。
―― ソロで、フォーク活動を開始 ――
 各社のコンテストに挑戦。『和製ボブ・ディラン』と評され、プロデビューを狙って苦闘を続ける。難関は突破できないものの、広島では『有名人』となりブームを起こす。
 茂木健一郎氏は、全国的なブレークの前には必ず身近なところでブームが起こっいるものだ、と言っている。その通りの成り行きを辿る。

 作品としては、諸説あるだろうが『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を挙げねばならぬだろう。70年、23歳(満)。アングラ版ではあるものの、レコードデビュー一作目となる。これが全共闘の資金づくりに協力した作品であった経緯は、懐かしさを覚える後景だ。だから、常識破りの長いタイトルは印象的でもある。後の『イメージの詩』にも、このフレーズは使われている。牢乎としたアンシャンレジームに鎧われた音楽シーンに斬り込んでいく猛々しさを彷彿させる。キャンパスをうねるヘルメットの波。連中の琴線にも触れたにちがいない。
 筆者としては『人間なんて』も挙げたいのだが、25歳の作。アラウンドから最も遠い。いかんともしがたい。事は、絵にかいたようにはいかないものだ。

● アラ サー(30)
  75年(昭和50年)=29歳。
―― 8月2日、3日、静岡県掛川市のつま恋多目的広場で「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」を開催 ――
 多弁を要しない。つま恋が『伝説』となった日である。規模を超えるものはその後にあっても、初陣を切らねば『伝説』とはならない。
 さらにこの年、
―― フォーライフ・レコードを発足させる ――
 これは快挙であった。「生意気な奴ら」が、「生意気にも」自前のレコード会社を創った。『古い水夫』に『新しい水夫』が代わっただけではなく、『古い船』の群れに割り込んで『新しい船』を浮かべてしまった。一過性の社会現象で終わったヘルメットの連中に、鮮明な『回答』を見せつけた。
 この年、高額納税者番付に定番であった演歌の大御所にまじり、井上陽水とともにランク・イン。音楽シーンを塗り替えた、まさにエポックメーキングな年となる。
 作品では74年、28歳で発表した『人生を語らず』が筆頭であろう。04年の成人の日、東京新聞は次のような社説を掲げた。
〓〓成人の日 越えてゆけ、それを 
 二十歳という節目は、年々あいまいになっていくようだ。戸惑う気持ちはよく分かる。でも、だからこそ、今日を機に世代の壁を越えて行け。自ら大人になるために。
 “フォークの旗手”といわれた吉田拓郎は、今年五十八歳になる。
 肺がんを克服して臨んだ昨年暮れの全国ツアーのアンコールに、拓郎は「人生を語らず」という歌を選んだ。
 「越えて行け そこを/越えて行け それを」
 人生の困難を乗り越えた自分をいとおしむように、次の目標に向かって自らを奮 立たせるように、声を振り絞って繰り返した。
 拓郎は二十四歳のころ、こんな歌を作っている。
 「古い船をいま 動かせるのは古い水夫じゃないだろう/なぜなら古い船も 新しい船のように新しい海へ出る/古い水夫は知っているのサ/新しい海のこわさを」
 そして、昨年のツアーでもその「イメージの詩」を披露した。
 人は二十歳を期して“大人にしてもらう”わけではない。二十歳を目安に、誇りを持って自ら“大人になる”のである。〓〓(抜粋)
 素晴らしい社説ではないか。このような新聞社は称賛に値する。大いに。

 もう一曲、『ローリングサーティー』を挙げよう。78年、32歳の作品。

   〽ローリングサーティ
    動けない花になるな
    ローリングサーティ
    転がる石になれ〽

 いまの32歳に、おなじマインドをもつ者がはたしてどれだけいるだろう。老成した「動けない花」で溢れてはないか。「転がる石」はついぞ見ない。凄みは、それを同世代に突き付けていることだ。明らかに常人を超える。

● アラ フォー(40)
 論語は「四十にして惑わず」と訓(オシ)える。「三十にして立つ」を地で行ったのに比して、アラ フォーは大いに惑う。いくつかのビッグ・イベント(コンサート)の成功はあるものの、潮目に揺れた。
 そんな中、ギリギリのアラ フォー、90年(平成2年)、44歳でリリースした「男達の詩」が光る。デビュー20年の記念碑でもあった。

   〽うすむらさきの 煙が ゆれて
    ああ ああ 何て遠い昔なんだろう

    君は嵐を 乗り越えたか
    そして 心は 満たされたか

    生きる位は たやすいこと
    男達は 純情 燃やす

    今夜は ころがれ (狂うまで)
    今夜は うかれて (流れたい)
    都会の河で 友と一緒に
    花でもかざして 踊ろうじゃないか〽

 個人の好みでいえば、全作品の頂点に位置する。このごろからだ、「大人の男」が頻出するようになるのは。潮目はいい漁場(ギョバ)ともなる。人生の潮目で魚の群れと立ち向かうのは男の、しかも大人の仕事だ。

● アラ フィフ(50)
 96年(平成8年)、50歳。突如、テレビに登場する。
―― フジテレビ「LOVE LOVEあいしてる」にレギュラー出演 ――
 01年まで。テレビメディアを意図的に避けてきた彼が、である。なにかがふっ切れたにちがいない。あるいは、ふっ切るためだったか。KinKi Kidsとタッグを組んだ。親子の懸隔をもつ世代とである。媚びるでもなく睥睨するでもなく、自分を知らない世代と向き合った。つまり彼らには吉田拓郎はカリスマでもなければ、ヒーローでもない。音楽をやってきた(らしい)普通のおじさんでしかない。
 対峙は5年に及んだ。必死に自身をリセットしようとしたに相違ない。並なアーティストにできる芸当ではない。

   〽ひとりになるのは誰だって恐いから
    つまづいた夢に罰をあたえるけど
    間抜けなことも人生の一部だと
    今日のおろかさを笑い飛ばした
    
    全部だきしめて きみと歩いていこう
    きみが泣くのなら きみの涙まで
    全部だきしめて きみと歩いていこう
    きみが笑うなら きみの笑顔まで〽

 96年10月5日23時、この主題歌をはじめて聴いた時、背筋を電気が走った。忘れていた「結婚しようよ」の衝撃が刹那に戻った。
 50歳のたくろうは、新しいトポスにいた。

● アラカン
 03年(平成15年)、58歳、肺ガンに見舞われる。
 死魔との闘いを征して06年、60歳。
―― 31年ぶりにつま恋でかぐや姫とのコンサート<つま恋2006>を打つ ――
 凱歌は上げたものの、翌07年、再び体調を崩し療養。この辺りからは、あえて記すまでもなかろう。
 そして、今年、63歳。『ガンバラナイけどいいでしょう』へと至る。

   〽がんばらないけどいいでしょう
    私なりって事でいいでしょう
    がんばらなくてもいいでしょう
    私なりのペースでもいいでしょう

    心が歩くままでいいでしょう
    そうでない私でもいいでしょう
    がんばれないけどいいでしょう    
    私なりって事でいいでしょう〽

 孔子のいう耳順の匂いもするが、おそらくそんなことではあるまい。単にガンバリズムのアンチ・テーゼでもないだろう。彼はいつもプログレッシヴであった。だから、世代の先端で呼吸してきた。むしろ世代を、つまりは「アラカン」を奥深くシンボライズしていると観たい。証拠に、この曲で「安心」したという声が多い。

 「『アラ〇〇』を人生のエポックメーキングとして捉え、ケース・スタディしてみた」。世代と時代を共有できた僥倖を改めて感ずる。
 
 <つま恋2006>が終わった時、本ブログに次のように綴った。
〓〓一期一会、祭りは跳ねた。もう「つま恋」はない。永い「祭りのあと」が始まった。白虎となった彼は存分に白秋を味わうに違いない。〓〓(06年9月30日付「秋、祭りのあと」)
 ところが彼には、どうも白虎が不似合いらしい。白秋を味わう趣味もないらしい。「ガンバラナイけど」歩みを已めそうにない。天稟が蠢き、「心が歩くままで」倦むことをしらない。「アラカン」なぞ、彼にとっては一瞬の通過点でしかない。 □


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