伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

名を撫でる

2020年06月26日 | エッセー

 毎年見ているシーンなのだが、ずっと不思議なままにしていた。当年も6月23日、同じシーンが報じられた。「平和の礎」を訪れる遺族が刻された遺族の名前をそっと指で撫でて手を合わせる。あの場面だ。盆には各地の墓参りの様子が報じられるが、墓石の名を撫でたりはしない。
 「平和の礎」は沖縄戦最後の激戦地糸満市摩文仁ある「平和祈念公園」内に建立された記念碑である。納骨施設ではない。すべての戦争犠牲者241,593人(20年6月現在)の名前が彫られた刻銘碑である。その数、118基。軍人、住民、国籍など一切関係なく、沖縄戦で命を落とした個別の名が刻まれた碑が放射線状に並ぶ。
 同じ平和祈念公園内には「国立沖縄戦没者墓苑」がある。18万余柱の遺骨が埋葬されている。もちろん納骨堂にもたくさんの人が弔いに訪れるが、合葬のため名前を撫でるあの場面はない。
 〈那覇市の赤嶺和雄さん(76)は75年前の地上戦で父正昭さんと姉2人を失った。農家だった父は防衛隊として動員され、姉2人も旧日本軍の部隊の手伝いで家を離れた。赤嶺さんは当時1歳。「赤ちゃんを大事にしてな」。それが、父が母に贈った最後の言葉だったという。母は戦後、女手一つで残った5人きょうだいを育てた。生活は苦しく、赤嶺さんは「父がいないことを悲しむより、生きることに精いっぱいだった」と振り返る。毎年、慰霊の日には妻と「平和の礎」を訪れ、遺骨も見つからなかった父と姉の名前の前で手を合わせる。「父と姉の記憶がないことが今になって悲しい」と声を詰まらせた。〉
 本年の追悼式の日、毎日新聞に掲載された記事だ。「父と姉の名前」は「国立沖縄戦没者墓苑」にはない。欲しいのは、長短を問わずこの世に遺した人生を背負った姓と名である。市井の民であろうと、刹那に幕を閉じた現世(ウツシヨ)であろうと、だ。「父と姉の記憶がないことが今になって悲しい」が、間違いなく一度は享(ウ)けた生である。「命どぅ宝」でないはずはない。愛おしくないわけがない。だからその名を指でそっと撫でる。その一瞬に生者と死者の結節点が起ち上がり、両者の交感は成る。それは「国立墓苑」の納骨堂では叶わぬ試みだ。最も命が軽んじられたうちなーんちゅならばこそ湧き上がる原初的生命感覚。今や、やまとぅんちゅには失われた感性だ。
 と、前稿の「平和の詩」に触発されて探ってみた。

 当初、玉城デニー知事はコロナ対策のため慰霊祭の会場を「国立沖縄戦没者墓苑」に変更すると発表した。しかし開催約1ヶ月前知事は「勉強不足だった」と釈明し、元通り「平和の礎」そばにある広場に式場を戻した。沖縄タイムスの報道によると、「県主催の追悼式を国家施設で開くことによって、沖縄戦における住民被害の実相がフタをされ、住民の犠牲が国難に殉じた崇高な死として一元的に意味づけられるおそれがある」との声が上がったそうだ。率直で律儀な知事の判断を嘉したい。「国立」への違和感。刻銘を撫でるプリミティブな情念、それはコロナを超える。
 今年の梅雨は記録的な速さで沖縄を抜けた。平年より13日も早いという。これから「礎」はさらにむせ返る炎暑に包(クル)まれる。まるで死者を鎮める火祭りのように。 □