伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

終わらざる『終わらざる夏』

2016年03月05日 | エッセー

 10年7月浅田次郎著『終わらざる夏』が上梓された2週後、《炎陽の一書》と題する拙稿を呵した。一部を引いてみる。
〓帯広告は謳う。
  着想から30年。浅田次郎が満を持して挑む、北の孤島の「知られざる戦い」。
  1945年8月15日 ―― 戦争が、始まる。
 著者は、「止めようとして止められなかった戦争と、終わってから始まった戦争とでは、天と地の開きがある」と語る。さらに、「戦後65年、いまが小説を書いて世に出すギリギリのタイミングではないか」とも続けた。
 時を遣り過ごせば、あの戦争が「歴史」になってしまう。赤紙に翻弄された群像が父であり母であり、祖父母であったうちに、つまりは戦争と血の繋がりがあるうちに書き留めておかねばならぬ。起こる筈のなかった終戦後の戦争を不問のまま「終わらせてはならない」のだ。「挑む」のは、そのためだ。
「私は、人間を書くのが小説だと思っています。だから今回も、戦争を書いたのではなく、戦争に参加した人間たちを書いたのです」
 と、著者は語る。
 ―― 戦争とは、命と死との、ありうべからざる親和だった。ただ生きるか死ぬかではなく、本来は死と対峙しなければならぬ生が、あろうことか握手を交わしてしまう異常な事態が戦争というものだった。 ―― (第三章 より)〓
 先日半藤一利氏の近刊を読むうち、「終戦後の戦争」にふと疑念が湧いた。浅田御大に対し、浅学非才を省みない傲岸不遜の邪念であることは百も承知である。盲蛇に怖じずであり、遼東の豕と切り捨てられるは覚悟の前でもある。しかしなんとなく気障りだ。不問に付しておけば不定愁訴が嵩じる。そこで、あらためて「終わってから始まった」について、同書を繙き原文に当たってみた。
 上下千頁に迫る大著である。見落としがあるかもしれぬが、該当部分は2箇所に留まる。
 1つ目は、罐詰工場で働く女子挺身隊の娘たちを北海道へ脱出される場面。地下壕に集合した彼女たちに工場の担当者が語りかける。

 すべてを洗いざらい言う。これまではみなさんに聞かせたくないこともあったし、時にはやむなく嘘をついたこともあったが、今は本当のことだけを言います。
 戦争は八月十五日で終わったはずなのに、きょう八月十八日からまた戦争が始まりました。国際法を無視して、敵が攻めてきたのです。こうした事情では、みなさんがこのさき何をされるかわかったものではありません。日本軍はやむをえず戦っていますが、問題は勝ち敗けではなく、そうした性根の敵ならばみなさんに対しても容赦はないだろうということです。
(第8章 下巻382頁)

 2つ目は、前線大隊からの師団長への戦闘報告。

 僭越ながら、同志P・I・ジャコフ師団長閣下にお訊ねいたします。回答は望みません。同志閣下および同志幕僚諸兄がこの素朴な疑問についてご再考下されば幸いです。
 第一に、戦争は和平の成立またはいずれかの降伏によって終結を見ます。八月十五日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した日本に対して、十八日になってから新たに武力を行使するというのは明らかな国際法違反ではありませんか。そうではないとする合理的な可能性を、本官はどうしても見出せません。
 第二に、勇敢なるわが赤軍兵士は、去る五月七日のドイツ軍無条件降伏によって、大祖国戦争に勝利しました。ならば、八月八日に至って、有効なる相互不可侵条約を破棄してまでの対日宣戦布告は、新たなる戦争の開始なのでしょうか。そうではなく、これもまた栄光の大祖国戦争の一部であるとするなら、本官はこの戦闘に限っては栄光なるものの根拠を見出せません。
(第8章 下巻410頁)

 1つ目の「八月十五日で終わったはずなのに・・・十八日からまた戦争が始まりました・・・国際法を無視して」と、2つ目の「八月十五日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した・・・十八日になってから新たに武力を行使・・・国際法違反ではありませんか」は同意である。「終わってから始まった」についての描写は調べたところ、この2箇所きりであった。国際法の無視・違反が糾弾されている触りだ。
 そこで、口耳之学である。先述の半藤氏に戻る。『昭和と日本人 失敗の本質』で、氏は「当時の日本の政軍指導層の国際法にたいする無知」を剔抉している。
◇ポツダム宣言受諾の通告といっても、連合国にとっては、日本の降伏の意思表示にすぎなかったということ。国際法上の正式の「降伏」を完成するには、降伏条項の正式調印をまたなければならなかったのである。それを日本のトップはしっかりとわきまえていなかった。満洲に侵入したソ連軍参謀長アントノフ中将は、八月十六日の布告のなかで、堂々と言明している。天皇が連合国に対して十四日に行った通告は「単に日本降伏に関する一般的なステートメント」にすぎず、日本軍の降伏が正式に実行されていない以上は「極東におけるソ連軍の攻撃態勢は継続しなければならない」と。(略)
 ソ連軍は侵攻をとめなかった。なぜ、この無法が許されたのか。理由は実に簡単であった。八月十五日以後に日本政府と軍部とがしばしば使った「降伏」という言葉は、すべて、降伏文書調印(九月二日)以後を示していたからである。◇

 国際法上の「降伏」とは慣例的に「ハーグ陸戦条約」に基づき、
① 休戦協定を結び、のち平和条約の締結をする
② 占領による戦闘終結
 のいずれかと定められている。一方伝統的な戦時国際法では休戦協定の合意は口頭によればよく文書の手交を要しないとの見方があるが、休戦と降伏を同列に論じるのはいかにも無理筋だ。
 大枠の時系列を追ってみる。
 1945年 7月26日 ポツダム宣言
          8月14日 宣言受諾、連合国へ通告
             8月15日  玉音放送
           8月28日 連合国軍進駐開始
             9月  2日  降伏文書調印
 ①に拠るなら9月2日、②に拠るなら8月28日が降伏となる。
 ソ連軍上陸船団が占守島に上陸したのが8月18日で、戦闘終結が21日であった。この4日間は②の8月28日までに収まるし、無論①の9月2日より以前であった。つまり半藤氏の論攷に準えれば、8月18日も8月28日時点も、ともに未だ「国際法上の正式の『降伏』は“未”完成」であったのだ。ならば、“国際法の無視・違反”の論拠が揺らぐ。「戦争は八月十五日で終わったはずなのに」も、「八月十五日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した」も怪しくなってくる。「終わってから始まった」ではなく、「終わってなくて始まった」ではないのか。
 なお、ソ連の対日宣戦布告は8月8日。翌9日に満州侵攻が始まり、同月18日まで続いた。こちらも如上の通りである。
 因みに、米英仏露は9月2日を「対日勝戦記念日」としている(中国は9月3日)。連合国の認識はなべて①であったことが判る。
 となると、卓袱台返しか。いや、滅相もない。そんな大それた疑念を抱いては不敬不遜の極み、身の程弁えぬ増上慢の謗りを受けよう。
 先ずは、「戦争を書いたのではなく、戦争に参加した人間たちを書いたのです」との著者の言を想起したい。このモチーフに適うため、この小説は通途の8・15説を前提としたと捉えたい。国際法上の規矩準縄は副次的マターに過ぎない。所詮は重箱の隅だ。
 さらに、「当時の日本の政軍指導層の国際法にたいする無知」がスターリン率いるソ連の狡知にしたたかに弄ばれたことだ。前掲書で半藤氏はこう述べる。 
◇ソ連はソ連であせっていた。この最終段階にきてのアメリカ案の占領区域別けの基準は、それぞれの連合国軍の現在位置(降伏調印時)が第一におかれていたからである。そこでソ連軍は、達すべき目標と地点を「関東軍の破砕、全満洲、北朝鮮、南樺太、千島の解放」とし、それを降伏文書の正式調印の日までに完遂しなければならないと、猛進につぐ猛進をつづけた。ソ連にとって幸いなことは、日本軍部の無知蒙昧が大本営命令として、日ソ停戦交渉は関東軍がよろしくやれと、「局地交渉」にしてしまったことである。◇
 脳天気な「停戦交渉は関東軍がよろしくやれ」は完全に逆手に取られた。親方が出てこない「局地交渉」など端っからネグられてしまい、攻撃は続行された。
 肝心要は「日ソ中立条約」である。この締結は1941年4月であった。有効期間は5年で、満了1年前までにいずれかが廃棄を通告しない限りさらに5年延長されると規定されていた。関東軍の特殊演習を背信行為と決めつけて、一方的に廃棄を通告してきたのは1945年4月であった。真っ当に読めば、延長はなくなるとしても、あと1年間1946年4月までは有効であるはずだ。駐ソ大使がその旨を糺すとソ連の外相は来年4月までの有効をあっさり認めている。しかし、まんまと二枚舌に欺されてしまった。してみれば、浅田氏が前線からの戦闘報告書で語らせた「第二に・・・有効なる相互不可侵条約を破棄してまでの対日宣戦布告」がにわかに重くなってくる。無法と非道の導因は、むしろこれではないか。4ヶ月余も拱手していた「日本の政軍指導層」の無能が取り返しのつかない犠牲を生んだと断じざるを得ない。「日本軍部の無知蒙昧」が『終わるべき』夏を『終わらざる夏』に顚落させたのだ。牽強付会を赦されるなら、その意味でこそ『終わらざる夏』がおよそ不似合いな須臾の炎陽で北端の島を焼き尽したのではないか。
 「戦争に参加した人間たち」は作家の勁筆によって作品の舞台に甦ったが、『終わらざる夏』は今も澱となって北方の島々に鈍く凝っている。 □