伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

駄目コメンテーター

2017年09月22日 | エッセー

 先日の“ひるおび”でのこと。「この解散は党利党略そのもの」との声に、「党利党略が政治です」と時事通信社の田﨑某が応えた。こういう徒輩が政治をダメにする。どうダメにするか──。
 政界通と称する人物が知れ切った本音を準ってみせて、果たして視聴者の政治的関心は高まるだろうか。無関心層の漸増に与するだけではないのか。この人物、元々政権与党のパラサイトに違いなく、聞きかじった永田町ネタで世を渡るのが家業だ。芸能人風情がしでかす社会的正義となんの関係もないゴシップで食いつなぐ芸能レポーターと異なるところはない。下衆の勘ぐりはできても、上衆(ジョウス)の高見はない。田﨑某なぞ政局は得意然と語れても、政策の適否や政治理念の深浅について自ら披陳したことなどついぞない。もっともそのような識見や能力がないからこそ永田町レポーターに終始しているのであろうが。
 「党利党略が政治です」といって憚らない政治三流国のままでいることに、彼は何の危機感も持っていない(多分、いやきっと)。嘆きもしない。憤りもしない。その真因を探ろうともしない。政権にバイアスのかかった政界の動静だけを垂れ流す。あるいは永田町の手練手管にフォーカスする。木を見て森を見ることはない。政治を政局に矮小して恥ずるところがない。だから冒頭の発言が生まれるのではあるが、それで果たして視聴者の政治的視野は広がるだろうか。井戸端会議はできても、問題提起はできるのか。夢や理念を語る青臭い論議を貶め、政治的レベルの漸減に与するだけではないのか。
 一方的断定や過言と難ずる向きがあろう。しかし田﨑某の発言を聞いてほしい。いかなるマターについても、常に「政権にバイアス」がかかっている。つまり政権への批判がない。これは際立った特徴だ。世に公平無私な報道があるであろうか。それは絵空事だ。ならばジャーナリズムは常に弱者の側に立たねばならない。権力に対峙するのがジャーナリズムの普遍の立ち位置だ。なぜなら、「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」からだ。この英国の歴史家ジョン・アクトンの箴言は時代と国を超えて普遍だ。時の政権に正対しないジャーナリストはおよそ権力のプロパガンダでしかない。
 ともあれ官邸目線で政治ではなく政局しか発信しないにもかかわらず、政治評論家を名乗る手合いがTVメディアに出現したことに一驚を喫する。先月の拙稿『片翼飛行(承前)』で述べた行政府による立法府の劣化策のメディア版であろうか。内田 樹氏の「独裁制をめざす行政府は、何よりもまず『国権の最高機関』である立法府の威信の低下と空洞化をめざします」との洞見が呼び起こされてならぬ。
 さて、「7条解散」である。民主主義の老舗イギリスでは下院の3分の2に解散権の壁を高くした。フランスでは総選挙後1年間は再度の解散ができない。ドイツでは下院の解散は首相選挙が3回までに決着しない場合に限られる。トップの一存で解散できない方向が世界の流れだ。恣意的な権力の濫用を防ぐためである。この点に関してなら憲法改正に同意したい。なによりこれは憲法の抱える大いなる瑕瑾である。立法・行政のバランサーとしては遍頗に過ぎる。実態的には「立法府の威信の低下と空洞化」どころか、息の根を止める独裁制ではないか。シングルイシューに限った国民投票の代替として使われたことはあったが、それとて決して誉めたものではない。悪知恵に長けたホラ吹きに悪用されかねないし、現にそうなった。「党利党略が政治です」などと澄まし顔で済む話ではない。 □